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2014年月8月31日
福音を語ろう
(新約聖書 ピリピ人への手紙 2 :1〜11)
『こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:1〜2)

   神と交わり、神の愛を知れば知るほど、私たち人間は志をひとつにすることができます。それは、『私たちはキリストのからだの部分だからです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:30)とあるとおり、ひとりひとりがキリストの命を持っているからです。キリストの命でつながっている私たちは、神との関わりが深くなることによって、同じ思いを共有するようになるのです。

『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:3〜5)

   神との関わりが深くなると、私たちは互いにキリストの体の一部であると同時に、それぞれが異なる器官であることがわかって、自分とは異なるお互いの働きが必要であり、尊いものだと思えるようになります。こうして、互いを尊ぶ心から、相手を思いやる心が生まれ、自ずと助け合うようになるのです。それが神につながっているということです。神の前に誰ひとり無駄な人はいません。人は皆、その人にしかできない役割を持っており、人の目には役に立たないと思われるような者であっても、そういう人ほど尊いものだと聖書は教えています。もし、「自分は立派に頑張っているけど、あの人はたいしたことないな」と思うようなら、神につながっているとはいえません。神につながる人は、互いに尊敬しあえるようになるものなのです。

『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:3〜5)

   この世界にさまざまな人がいるのは、ひとりひとりが、キリストのからだの異なる器官として造られているからです。キリストのからだはひとつです。ですから、キリストにつながると、私たちは、ひとつの思いを共有する関係になります。もし私たちが、人を憎んだり、さばいたりしているならば、まだ神様としっかりつながっていないのです。

『キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:6〜11)

   私たちがひとつとなる生き方を目指すのは、イエス・キリストがそうしてくださったからです。志をひとつにし、互いにへりくだって相手を尊び、他の人のことを顧みる生き方は、イエス・キリストがこの地上でなさった生き方です。ですから、あなたがたもそのように生きなさいと聖書は教えています。
   イエス様の志とはなんでしょうか。イエス様は、神であられたにもかかわらず、人としてこの地上に来られ、人として仕え、十字架を背負われました。その目的は、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。つまり、イエス様の志とは、すべての人が救われることです。
   あなたが神とつながるなら、あなたもこの志を共有し、ひとりでも多くの人が救われてほしいという思いを持つようになるのです。もし、あなたに他の人の救いを願う思いがないならば、神と交わっているとは言えず、神の愛をまだ知らないということです。

・なぜ救われることが、それほどまでに重要なのでしょうか。

   それは、人間は救いを受けなければ滅ぶ存在だからです。イエス・キリストは、ラザロと金持ちの話を通して、人にとって死とはどんなものかを教えておられます(ルカ16章)。この地上で死を迎えるとき、神を信じなかった者は、天国に行くことはできず、そのまま滅びます。イエス・キリストは、十字架にかかる前に、恐れ苦しみ悶えて祈る姿を弟子たちに見せておられます。それは、死の恐ろしさを私たちに教えるためです。
   この世は、死の恐ろしさから目を背けようとして、死んだら別のものに生まれ変わるとか、誰でも天国に行ける、あるいはお金を払い供養をすることで天国に行けるなど、まるで、死に希望があるかのように教えます。しかし、人にとって死は、すべてを確定する終わりの時です。人は、自分で神を選ぶ選択をしなければ、そのまま死んでしまうのです。
   死がそんなに恐ろしいものならば、強制的に信じさせればいいのにと思う方もいるかもしれませんが、神は、人をロボットのように操ったりしません。なぜなら、人は神に似せて造られたものであり、それぞれに意志が与られているからです。その意志を無視することは、人格を壊すことであり、殺すのと同じことです。ですから神は、人が自分で神を選択するように、心のドアを叩き続けておられるのです。 救いとは、この神の呼びかけに応答することです。応答すれば神が信仰を与えてくださいます。そして、イエスは主であると告白できるようになるのです。
   ただし、神によって信仰が与えられても、すぐにそれを告白できるようになるわけではありません。人はそれぞれ信仰が育つ期間が異なり、救いを自覚し、告白できるまでに時間がかかる人もいます。しかし、神に信仰を与えられれば、必ずイエスは主であると告白できるようになります。ですから、本当の救いの始まりは信仰告白ではなく、神に信仰を与えられた時、すなわち、神に応答した時、あるいは、助けを求めた時なのです。
   誰の心にも、神がおられるという思いはあり、人は必ず何かにすがろうとするものです。しかし、まことの神に応答しなければ救われません。神は、被造物によってまことの神がおられることを明らかにしておられますから、福音を聞いたことがないから神を知ることができないわけではありません。実際、まことの神がどなたか、まだその名を聞いたことのないうちに、神に応答して信じている人たちもいて、パウロが、その神の名はイエス・キリストだと教えている場面が聖書にあります。(使徒17章)
   いつどのように応答したかは、神様にしかわかりません。与えられた信仰が育って信仰告白が出来る時、初めて本人も自分の救いを確認することができるのです。いずれにしても、死を迎えるまでに、自分の意志で応答しなければ救われませんから、神は伝道するように命じておられるのです。

   1912年、イギリスのジョン・ハーパー牧師は、大型客船タイタニック号に乗っていました。ハーパー牧師は、イギリスで幾つもの教会を立ち上げ、各地を回って素晴らしいリバイバルをもたらした伝道者で、この時、彼はアメリカの伝道集会に向かう途中でした。ところが、この船は氷山に衝突し沈没してしまうのです。彼は、沈みゆく船内で人々がパニックに陥った時、乗客に向かって、こう叫びました。「女性、子ども、そしてまだ救われていない人々をまず先に、救命ボートに乗せなさい。」この言葉を聞いた多くの人が、それに従ったといいます。 船が沈み、板に捕まって漂いながらも、ハーパー牧師は証しを続け、同じように板に捕まっている男の人に対して、「あなたは救われていますか」と尋ねました。男性は救われていませんでしたが、ハーパー牧師が御言葉を語ると、海の中でイエス・キリストを信じました。ハーパー牧師は、この事故によって39歳という若さで亡くなりますが、この男性は救助され、クリスチャンとなり、「私はジョン・ハーパー牧師の最後の信徒です」と証しをしています。
   ハーパー牧師は、神の愛を知り、一人でも多くの人が死から救われてもらいたいという志を持ちました。私たちも神とかかわりを深めて神の愛を知り、同じ志を抱き、福音を語りましょう。

・キリストが届けてくれた福音とは

1.自分が貧しいと知る人へ

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』(新約聖書 マタイの福音書 5:3)

   心が貧しいとは、自分が罪深くて弱いものだと知っているということです。天国は立派な人が行くところではありません。
   世の中は、立派な人、良い行いをする人が天国に行くと考えます。当時、金持ちであることは良い行いをした祝福であって、貧乏人は、良い行いをしないから貧しいのだと考えられていました。今も似たような風潮が存在します。しかし、キリストは、自分は立派で正しい人間だという人は天国に行けないと言われたのです。
   取税人とパリサイ人の祈り(ルカ18章)の例からもわかるように、神は一貫して、神に憐れみを求める人が義と認められることを教えています。これが、心の貧しい者が天国に入るということです。「神様憐れんでください。」これが神への応答です。どんなに立派なふりをしている人でも、本当の自分は罪深い者であることを誰もが知っています。それでいいのです。それを神の前に正直に告白し、憐れみを求めるとき、神は救ってくださいます。これが救いの基本です。
   イエス・キリストは、人々がこの基本を知って救われることを願っておられます。

2.つらい出来事で苦しむ人へ

『悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。』(新約聖書 マタイの福音書 5:4)

   つらい問題にぶつかったとき、何か悪いことをしたバチが当たったのだろうかとか、自分は罪深いからこのように苦しむのは当然だと考える人がいますが、これはこの世の考え方です。
   聖書は、悲しむとき、つらい出来事に出会うとき、それは神の愛を知るチャンスだと教えています。それが、神からの罰であるとか、懲らしめであるとかは、大きな勘違いです。
   自分の罪深さを知ることは救われることにつながり、悲しむことは神の愛を知ることにつながります。この世の中でもっともつらいとされることを、神は素晴らしい恵みに変えて下さるのです。

3.今が恵みの時

人は、神からの祝福を見える形で求めるものです。当時、ユダヤ人は、神がこの地上で新しい国を建設してくださると期待していました。今も、私たちは、神が何か見える形の栄光を現してくださることを期待したり、死んだら天国に行けてそこに喜びがあるのだから、今はつらくても我慢しようと考えたりします。しかし神は、そうではなく、恵みは今あなたの中にあると繰り返し教えておられます。

『さて、神の国はいつくるのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』(新約聖書 ルカの福音書 17:20〜21)

   神の国とは、最高の幸せの場所です。それが今あなたのただ中にあると、イエス様は言われました。幸福はいつか与えられるものではなく、すでに今あなたの中にあるというのです。

『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:16)

   神が住んでおられるところが天国です。つまり、救われて神が共におられるということは、あなた自身が最高の場所であるということです。天国はあなたの中に実現し、あなたにとっては、すべてのことが完了しているのです。
   聖書は、この世界には終わりの時があり、キリストが再び来られると教えています。このことを、「再臨」と言いますが、本来「再臨」とは、「存在する」という意味です。この世界が終わり、キリストが来られる日は実際にやってきます。しかし、その日を待たずとも、救われた私たちの中には、すでにキリストが住まわれ、存在しておられるのですから、救われた者にとってはすでにキリストは再臨しておられるのです。
   神の恵みは、将来得られるものではなく、今すでに起きています。しかし、多くの人が、神がともにおられるというこの事実に気づいていません。イエス・キリストが語られた「放蕩息子のたとえ」は、私たちがどんな者であっても受け入れ、愛してくださる神の愛を教えていますが、クリスチャンにとっては、実は、後半のほうが興味深い内容です(ルカ15章)。それは、放蕩の限りを尽くした弟が、一言も責められず受け入れられ、愛されたのを見て、父のために一生懸命働いてきた兄が、弟に比べて自分は愛されていないと思い込んで不平不満を言う場面です。
   私たちも、人と比べて不満を抱くことがないでしょうか。見えるもので文句を言ったり、自分は不幸だと思ったりすることはないでしょうか。そのような思いを抱いた兄に、父はこう言うのです。「私はいつもあなたと共にいる。私のものはお前のものだ。」と。
   神がいつも共にいるという幸せ、お前は私の一部だと言われる幸せ、人は、この幸せになかなか気づきません。むしろ、見えるもので愛されているかどうかを比べ、いつか幸せになれると思っているクリスチャンが多いものです。そのような間違った信仰を抱いているクリスチャンに、神は、「神の国はあなたのただ中にある。この幸せに気づきなさい。」と語っておられます。

   神と深く関わるようになればなるほど、死の恐怖から救い出してくださった神の愛の素晴らしさを知るようになります。この福音は、単に天国に行けるという事実にとどまらず、この地上での悲しみや苦しみを神の愛を知る喜びに変え、さらに、神の国がすでに自分の中に存在していることに気づかせてくれます。この愛を知ることで私たちはお互いの尊さを知り、キリストと同じ志を持って、この福音を人々に伝えたいという願いを持つようになるのです。神との関わりを深め、一人でも多くの人が救われることを願って、福音を語っていきましょう。