ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2014年月8月24日
苦しみをも賜った
(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:29〜)
・キリストのための苦しみ

『あなたがたは、キリストのため、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:29〜30)

   神が私たちにくださったもの、それは、「信仰」と「キリストのための苦しみ」です。「キリストのための苦しみ」とはいったい何でしょうか。

『もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:17)

   神を信じる人は神の子どもとされ、神から永遠のいのちを相続しました。しかし、それだけではなく、キリストのために苦難を共にすることも相続します。これによって、苦難の時にキリストを信頼することを学ぶことができ、この過程を経て、神からの平安を受け継ぐことができるのです。
   神は、私たちが永遠のいのちを相続し、さらに平安を相続してほしいと願っています。あなたは、この平安を手にしているでしょうか。


・どうすれば平安を相続できるか

1.感謝

『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:4〜7)

   あらゆることを感謝できると平安になります。神が、感謝しなさいと命じるのは、私たちが平安を得るためです。
   人が幸せだと感じる感覚と、感謝する感覚は同じだという研究結果があります。多くの人は、幸せの基準は豊かさにあると考えますが、この研究が発表された時、自分は幸せだと感じている人が一番多い国はバヌアツでした。バヌアツは、個人所得が233ヵ国中207番目という貧しい国です。これに対して、私たちが豊かな国だと思っているアメリカの人々が幸せを感じている順位は150位、日本は95位、韓国は102位です。これは、私たちに、見えるものが人を幸せにするのではないことを教えています。バヌアツは国民の80%がクリスチャンで、神に感謝する人々の多い国です。感謝の心が幸せの感情と結びつき、平安になるのです。
   聖書が「すべてのことを神にあって感謝しなさい」と教えるのは、私たちの平安のためです。感謝するとは、神を信頼するということです。私たちは、日々の生活の中で、感謝しているでしょうか。感謝の心を持たない限り、人は何を手にしても幸せだと感じないのです。

2.イエスから目を離さない

『すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:11)

   平安な義の実を結ぶために命じられていることは、イエスから目を離さないようにということです。

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:2)

   目に見えないイエス・キリストから目を離さないとは、聖書から目を離さないことです。なぜなら、イエス様は、ご自身をことばと表しておられるからです。つまり、何をするにも、聖書に答えを見出し、御言葉を基準に物事を考え、神の言葉によって生きること、これが平安な義の実を結ばせるのです。
   私たちは物事を見るとき、つい自分の物差しで見ていないでしょうか。しかし、そこに平安を見出すことはできません。神の言葉を通して見るとき、いのちと感謝が見えるようになり、平安の実を結ぶようになります。
   この平安を得るには過程があります。それは、自分の罪に気づくことから始まります。自分に罪があることがつらくて仕方ない、その事実に気づくことが、平安を得るスタートです。
   その罪とは、私たちが不安や恐れから逃れるために、人から愛されようとすることです。人からどう思われるかと人の目を気にして、比較の中で幸せを見出そうとするから、神に目が向かず、いつまでも幸せになれないのだということに、御言葉と自分のギャップを通して気づくなら、ありのままの自分の罪を差し出して祈りましょう。このとき、私たちは、神はすべての罪を赦してくださると知るのです。それは、神に愛されていることを知る体験です。
   ギリシャ語の「赦し」には、「心を癒す」という意味があります。人は、自分の罪を言い表すとき、初めて自分がどれほど愛されているか知ることができるのです。そして、罪を差し出せば差し出すほど愛されていると知ることができ、愛されていると知れば知るほど、恐れが締め出されます。この心が平安をもたらすのです。
   聖書は、あなたを罪に気づかせ、キリストの愛に導くためのものです。この愛によってのみ平安を手にすることができるのですから、聖書から目を離さないでいなさいと主は教えているのです。
   ペテロは、イエス様を裏切りましたが、イエス様から目を離しませんでした。イエス様が捕らえられたとき、ペテロは自分も捕らえられて殺されるのではないかと恐れて、自分は弟子ではないと嘘をついてしまいます。それでもこっそりイエス様の後をついていくのですが、あなたもあの人の仲間だろうと尋ねられると、再びペテロは「イエスなど知らない」と言ってしまいます。しかし、それでもなお、ペテロは隠れてついていきます。そしてついに3度目にイエス様を知らないと言ったとき、イエス様は振り返り、ペテロをご覧になりました。イエス様はどんな思いでペテロをご覧になったのでしょうか。それは、それでもあなたを愛していると伝えるためです。その後ペテロは、何者をも恐れず福音を語る大胆な伝道者に変えられていきます。
   ペテロは、イエス様が捕らえられた時、逃げる選択もできました。しかし彼は、遠く離れても、イエス様が見えるところからずっとついていきました。私たちはつらい出来事に出会うと、問題から目をそらして逃げたくなります。しかし、逃げずに、聖書から目を離さなければ、自分の罪が見えてきて神の愛を知るチャンスとなり、誠の平安を手にすることができるのです。
   困難な時ほど、聖書から目を離さないでいることが難しくなります。日々聖書を読み、聖書を通して物事を考える生活を身につけましょう。誠の平安を得るために、罪を差し出して祈り、神の愛を体験しましょう。

3.不信仰と戦う

『あなたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:4)

   罪と戦うとは、不信仰と戦うことです。神が、私たちに、最も戦ってほしいと願っている罪は、悪い行いなどではなく、神を信頼しない不信仰です。

『また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 3:18,19)

   安息、すなわち平安を手に入れることができないのは、神を信頼せず、神の言葉を信じない不信仰のためです。平安を得るためには、不信仰と戦う必要があります。ところが、多くのクリスチャンが、不信仰と戦おうとせずに、良い行いをしようと戦っています。しかし、いくら良い行いができたとしても、心が神に向いておらず、神を信頼していなければ、平安を手に入れることはできません。
   たとえば、求めれば与えられるという神の約束を、あなたは信じることができるでしょうか。さらに神は、求めれば与えられるのだから、願ったらすでに受けたと信じなさいと教えます。見える状況が困難であればあるほど、これを信じ続けることは難しいものです。ここに戦いが生まれます。何があってもこの約束を信じ続ける戦いをしていくのです。

『そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:5〜7)

   神は罪と戦わない者を懲らしめます。しかし、神の懲らしめ・訓練は、私たちのイメージとは、まったくかけ離れたものです。
   神の懲らしめとは、神が苦行を与えたりするようなことではなく、私たちが問題にぶつかった時、あえて手を出さずに静観するということなのです。それは、つらいときにこそ、神を信頼する信仰を訓練するためです。
   私たちは、自分の罪のために失敗したり、問題にぶつかったり、病気になったりします。神は、このような問題を止めることも、私たちを助け出すこともおできになりますが、時折、あえて何もなさらないことがあります。これが訓練です。よくつらい出来事に出会うと、「これは神が与えた試練だ」などと言われることがありますが、神が人を病気にしたり、困難を与えたりすることはありません。
   残念なことに、人は問題にぶつからなければ、信仰を使って祈ったり、不信仰と戦ったりしません。しかし、患難にぶつかると、必死になって神に祈ることによって、神を信頼する者に変えられていきます。神があえて静観なさるのは、その人が本当に神を信じ、信頼するようになるのを待っておられるからです。
   神は、アブラハムに「多くの子孫を与える」と約束しましたが、100歳になっても何も起こりませんでした。妻のサラも不信仰になり、アブラハムに別の女性との間に子をもうけるように申し出て、アブラハムもそれを了承してしまいます。しかし神は、アブラハムの子は、サラとの間に生まれると言われました。90歳の女性に子どもが生まれることを信じるには、相当な信仰が必要です。ついにアブラハムは、信仰を持つことができるように神に祈り、そして、約束のものを手にしました。
   パウロは、自分自身が抱える病のために、あきらめず祈ることを繰り返しましたが、癒されませんでした。しかし、3度目に祈ったとき、パウロは大切なことに気づきました。自分は、病気のおかげで自分の弱さを知り、神に祈るようになった、このこと自体が素晴らしい恵みだということです。そして、パウロは、弱さの中にこそ神の恵みが働くと知るのです。パウロは信仰で祈り、あきらめずに不信仰と戦ったことによって、神の恵みを知り、ゆるぎない平安に到達しました。
   アブラハムは、約束の子どもがなかなか生まれないことを通して、信仰の訓練を受けました。パウロは、病が癒されなかったことを通して、病が癒される以上に大きな恵みを知り、ゆるぎない平安を得ました。このように、私たちが祈り求めてもあえて答えず、患難を静観されることは、私たちに平安を与えるためなのですが、実はこれは、神にとってもつらいことなのです。神は、私たちの苦しみをただ見ておられるわけではなく、私たちと共に苦しみ、私たちを支えておられるのです。

『彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自分の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。』(旧約聖書 イザヤ書 63:9)

   神は、人が苦しむのを見て喜んでいるわけではなく、むしろ心を痛めておられます。しかし、私たちが誠の平安に気づくために、忍耐しておられるのです。私たちが患難にぶつかって苦しむとき、神も共に苦しみ、私たちを支えておられます。そして、私たちに、信仰を使い、約束を信じて祈り求めるように、励まし続けておられます。患難のとき、不信仰と戦って祈るなら、誠の平安を手にすることができます。
   訓練された人々が結ぶ平安な義の実こそ、神が私たちに相続させたい宝です。 『キリストのための苦しみをも賜った』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:29)とは、「平安を賜った」ということです。イエス・キリストは、私たちに永遠のいのちを与え、天国に連れて行くためだけではなく、私たちが平安を手にすることを願って十字架に掛かられたのです。
   この平安を得るために、神は、日々の生活の中で感謝することを教えています。感謝する心と平安は同じです。感謝する心が幸せを感じさせます。また、主イエスから目を離さないこと、すなわち、どんなときも聖書を基準に生きるように教えます。そうすれば、自分の罪に気づき、神の愛を知って、平安を得ます。そして、不信仰の罪と戦うように教えています。それは、患難の中にあってつらいときに、神の約束を信じるのか、それともあきらめるのかという選択です。これは、私たちにとって大変つらい戦いですが、その時、私たちは一人で苦しんでいるわけではなく、神様も共にいて、共に苦しんでおられるのです。この励ましを受け、私たちが不信仰と戦い抜くなら、必ず平安を手にすることができるのです。