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2014年月8月17日
キリストの福音にふさわしい生活
(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:27〜)
   人は、大人になればなるほど、自分の積み上げてきた経験をもとに理解しようとします。ところが、聖書は神の価値観で書かれているために、人間の経験による価値観で理解しようとすると、わからなくなってしまうことがあります。イエス・キリストが、よくたとえを使って話した理由のひとつはここにあります。直接真理を語っても、人がそれをすぐに理解できないため、イエス様は多くのことを、たとえを使って話されました。その中で、イエス様が具体的に説明を加えられたのが、種まきのたとえと毒麦のたとえです。
   イエス様は、人間が自分の思いや考えで判断しようとする危険を常に教えておられます。聖書は、神の言葉を聞いていても自分の価値観が理解を邪魔している状態を、心におおいがかかった状態だと言っています。これが、私たちが戦わなくてはいけない問題点です。
   聖書を読むとき、私たちは自分の経験による価値観で理解しようとしているという認識を持ちましょう。すると、理解できない御言葉に出会ったとき、「なんとひどい言葉だ」とつまずいてイエスのもとを去っていた弟子たちのようにつぶやくことなく、自分がずれているのではないかと考えることで、聖書の言葉の意味が理解できるようになります。自分の中に積み上げてきた経験があるために、御言葉の理解を難しくしているという惑わしがあることを、心に留めておきましょう。
   イエス・キリストを最も迫害したのは、パリサイ人や祭司長という頭のいい人たちです。彼らには、積み上げてきた経験と解釈があったために、イエス様の言葉が理解できなかったのです。しかし、子どもたちは素直にイエス様の言葉を理解し、信じました。聖書は、子どものように素直になりなさいと教えています。
   聖書を理解するにあたっては、神の言葉を神の言葉で理解しようとすることが大切です。自分の持っていた価値観を修正しながら聖書を読むなら、御言葉が生きて働きますが、自分の価値観を変えようとしないで聖書を読んでもそうはなりません。聖書は神の価値観で書かれているからです。自分との違いを見出して、自分の側を修正することができれば幸いです。これが、罪を改めるということの具体的な作業です。 聖書は私たちに、「心の一新によって自分を変えること」(ローマ12:2)、「人間的な標準で人を見ないこと」 (Uコリント5:16)を教えています。自分の中の思いを優先して、物事を考えないように気をつけましょう。
   私たちは目や耳から入る情報を、自分の価値や評価だと思っています。そのため、自分の考え方や価値観を変えることは、自分の価値を否定されたのと同じだと受け止めてしまい、なかなか受け入れることができません。すべての人は例外なく、自分はダメなものだから頑張って良いものになろうという生き方をしています。しかし、聖書は繰り返し、あなたはダメではない、あなたは素晴らしいものだと教えています。この聖書の言葉が本当に理解できるようになると、目や耳から入る今までと同じ情報が、自分を否定するものではなく、まったく別の意味に捉えられるようになります。

『ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:27,28)

   私たちがキリストの福音にふさわしい生活をすることによって、多くの人に福音を伝えることが出来ると聖書は教えます。キリストの福音にふさわしい生活とはなんでしょうか。
   福音とは良い知らせのことです。神であるイエス様が、私たちのために地上に来てくださり、何をなさったのか、それが福音です。それを知り、それにふさわしい生き方をすれば良いのです。

『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:10)

   イエス様が来たのは、羊がいのちを得て、それを豊かに持つためです。これが福音です。羊がいのちを得るとは、どういうことでしょうか。
   羊は人間を指します。神様は、人間を造った時、神のいのちを吹き込みました。人間は、神と共に生きるために、神のいのちを持つものとして造られました。神が人を造った目的は、交わりをするためであり、信頼関係を築き上げて、友の関係を築こうとなさいました。そのために、ご自分のいのちを分けて、人を神の子として造ったのです。それはちょうど木と枝の関係です。私たちは枝として、キリストの体の一部として造られました。
   ところが、悪魔がエバとアダムをだまし、神の思いとは違う思いを二人に信じさせ、神との信頼関係が壊れてしまいました。神と人との関係が壊れ、関係を失うことを、聖書は死と言っています。つまり、木の枝が折れてしまった状態です。木の枝は幹から切り離されると、死んでしまいます。人間は神との関わりを失い、いわば折れた枝の状態で生まれてきました。今日、生まれながらに神を知っている人は一人もいません。神との関わりがない状態の人間を、聖書では罪人と呼びます。カトリックでは、原罪という言い方もされます。「罪」という言葉の説明に、様々な表現が使われるのは、背景の異なる人々に対して、一人でも多くの人に福音を伝えるためです。
   折れた枝は、しばらくは枝の中の養分によって生きることができますが、そのままにしておくと、やがて枯れて滅びます。これを聖書では「永遠の死」と言います。生きるためには、まだ枝にいのちがある間に、神というもとの木に再び接木されることが必要です。これが、「いのちを得る」ということです。人が神に接木されることです。
   折れた枝が接木されるには、誰かに拾い上げてもらうしかありません。私たちを拾い上げてくださった方がイエス・キリストです。こうして、イエス・キリストに拾い上げていただき、神様に接ぎ合わせていただくことを、救いを得る、あるいは、永遠のいのちを持つという言い方をします。イエス・キリストを信じて救われるならば、誰でも永遠のいのちを持ち、朽ちない体を頂いて天国で永遠に生きることができ、滅びることはありません。これが、第一の福音です。
   そしてもう一つ、この神のいのちを豊かに持つという、第二の福音があります。それは、神を信頼するようになるということです。
   接木の目的は、多くの実を結ばせるためです。私たちの神は農夫であり、イエス・キリストはぶどうの木です。ぶどうの木につながることによって、私たちは多くの実を結ぶと聖書にありますが、この実とは信頼です。神を信頼する実を豊かに持つことが、神のいのちを豊かに持つということです。聖書でいう愛とは、神を信頼することです。この心を持てば、自然に行いも良くなるものです。クリスチャンはよく、救われた者は良い行いを目指して生きるべきだという、誤った考えに陥ってしまいます。良い行いは大切ですが、それは、神への信頼から生まれるものでなければなりません。良い行いを目指して、うわべだけ良い行いに変えようとすると、二重生活に陥って、かえってつらくなってしまうものです。イエス・キリストは、「良い木は良い実を結ぶ」と言われました。ここで「良い」と訳されている言葉は、「アガソス」と「カロス」という二種類のギリシャ語が使われており、それぞれ「内側が良いこと」と「見た目の美しさ」を表しています。つまり、「良い木は良い実を結ぶ」とは、「内側が良いものは、見た目も美しくなる」という意味です。そして、神が善と認めるのは、神を愛する心ですから、「神を愛する心を持つ者には、良い行いが伴うようになる」と理解すべき御言葉です。
   すなわち、神を信じる者が目指すべきものは、良い行いではなく、神を信頼する愛を持つことです。ですから聖書は、愛がなければすべてがむなしいと教えます。神は私たちに神への信頼を育てることを求めておられます。そうすれば、自然に見た目の行いの美しさが伴うようになるのです。
   神に接ぎ合わされるとは、別の言い方をすると、神から信仰をいただくことです。神が私たちに信仰を与えてくださったので、誰が神かを知り、信じることができます。実を結ぶとは、神からいただいた信仰を使って、信仰を成長させるということです。
   このことを教えているのがタラントのたとえです。タラントという言葉が、英語の「能力・才能」という言葉の語源となったことから、タラントとは神から与えられた能力や才能のことだという誤解がありますが、そうではありません。雇い人が主人から預かったもの、すなわち、クリスチャンが神からいただいたものは、信仰です。
   神は、私たちが神への信仰と信頼を増し加えて、最終的に神の友となることを望んでおられます。アブラハムや弟子たちは、最終的に友と呼ばれました。その理由は、私を信頼するからだとキリストは言われました。これが、神が私たちに目指している福音です。

『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:6)

   羊がいのちを得、豊かになるとは、まずは神がおられることを信じ、神を求める者には報いてくださる方であることを信じなさいと言われました。神は、とにかく私たちの信仰を育て、神を信頼する者となってほしいのです。
   そのために神は、ご自身の姿を現さないのだと教えておられます。もし目に見える神が目の前にいて、その神が何でもあなたの言うことに答えてくれるならば、それはもう信仰ではありません。それでは本当の意味の信頼は育ちません。神は私たちの信仰を育てるために姿を見せず、時々、患難にぶつかったときに、あえて静観するということすらなさいます。つらい出来事に出会うとき、なぜ、神様はあえて静観なさるのか、それは、あなたを愛するがゆえに、神への信頼を増し加えたいと考えておられるからです。この世の平安は見えるものによって与えられる平安です。しかし、神を信頼することによって得られる平安があるのです。この信仰が育つと、祈ったことはすでにかなえられた、と信仰で受け止めることができるようになります。

『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)

   神に対する信頼が増し加わると、見えるところに変化があってもなくても関係なく、信仰で喜びを感じられるようになります。その喜びが、神を信頼することによる平安です。

『すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:11)

   懲らしめとは、神が何もしないことです。これは、神が患難を通して誠の信頼を育てようとしているのであって、神の罰などではありません。神は私たちに、見えるものによる平安ではなく、神を信頼することによる平安を与えたいのです。患難によって、神を信頼することができるようになると、それが誠の平安をもたらします。
   見えるものは必ず滅びます。ですから、いくら見えるもので平安を得ても、それは本当の平安ではありません。しかし、見えないものはいつまでも滅びることなく、誠の宝となるのです。患難は神への信仰を育てるチャンスです。


・神の福音は私たちにどのような変化をもたらすか

1.まことの平安

   イエス・キリストは、『わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:27)と言われました。この世の平安は、見えるものを手にすることで得る平安です。しかし、神の平安は、神を信頼することで得られるものです。

2.自由

『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:1)

   福音は、私たちを奴隷のくびきから解放して、自由を得させます。私たちは一体なんの奴隷だったというのでしょうか。それは、律法の奴隷です。
   聖書が律法と呼ぶものは、「〜すべきだ」「〜ねばならない」という、心を拘束する規則のことです。人は皆、誰に拘束されているわけでもないのに、心の中に「〜ねばならない」という律法を持っていて、その律法に支配されています。例えば、「さぼってはいけない」「一生懸命やらなくてはいけない」という律法が心の中にあると、休暇中にもかかわらず、「みんな一生懸命やっているのに自分だけ悪いな」とか「仕事をしなくては」という気持ちにだんだん追い立てられ、何か責められている感じがします。いったいなぜなのでしょうか。
   それは、人が皆、ほかの人に良く思われたいという願望があり、悪く思われるのが嫌だからです。人間は、神との関わりを失って以来、人から良く思われることを通して、心の糧を得、安らぎを得ています。
   しかし、人の言葉で安心しようとして、人の言葉に従って生きることが、かえって自分の心を拘束して、「〜ねばならない」という律法のくびきを負わせています。人の期待に答えようとして自分の人生を生きられなくなっています。聖書は、人の言葉によって平安を得ようとする生き方が罪だと教えています。
   神が私たちを自由にするために来たということは、この生き方をやめさせるために来たということです。私たちが神を信頼して平安を得ることで、人の言葉で平安を得ようとしていた生き方に価値を全く感じなくなります。こうして、「〜ねばならない」という律法から解放され、本来の自分の姿を取り戻し、自分らしく生きるようになるのです。神によって真の平安を得られるようになると、相手の顔色を伺って気に入られようとすることがなくなりますから、本当に相手のことを考え、愛することができるようになります。

3.人を愛する生き方になる

『ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:15)

   神の愛を知るまで私たちは、どうすれば愛されるかということばかり考えて生きていました。そのために使っているのが律法の基準です。律法を守ることで、人から悪く思われないように、良いものだと思われるように、自分の存在の価値を確認してきました。ところが、この律法が、人を愛せない原因になっているのです。自分の心の中にある「〜ねばならない」という律法が、その律法に違反する人を見ると、腹を立てたりさばいたりさせています。つまり、律法によって、私たちは人に対して敵意(反感)を持つようになってしまったのです。
   律法が廃棄されて、自由を得られれば、人に対して敵意を持たなくなり、隔ての壁が壊されて、人を愛せるようになるのです。律法を変えさえすれば、敵意は消えるのです。
   神の福音は私たちのいのちを救い、神への信頼を増し加えていくものです。その効用として、私たちは、平安、自由、愛を持つことができるようになります。人本来の生き方ができるようになるのです。これが神の福音です。この福音を私たちは神から預かっているのです。

『キリストの福音にふさわしく生活しなさい。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:27)

   救われたクリスチャンが目指す「キリストにふさわしい生活」とは、行いの良さを求める生き方ではなく、困難にぶつかった時に、神を信頼しようとする生活です。それが、キリストにふさわしい生活の第一歩です。神からいただいた永遠のいのちを豊かに保つために、神を信頼する者になることを目指しましょう。患難にであっても、つぶやかず、神を信頼しようとする生き方を目指すことが、クリスチャンにふさわしい生き方です。