ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2014年月7月6日
『敵との戦い3』〜悪魔について〜
(新約聖書 エペソ人への手紙 6:12)
『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:12)

   悪霊に対する格闘とは、いったいどのようなものでしょうか。聖書は悪霊の起源を明確にしていませんが、聖書全体から解釈すると、悪魔にだまされて悪魔と共に行動するようになった御使いのことだと理解できます。

『また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。』(新約聖書 ユダの手紙 6)

・悪魔の働き

   悪魔は、人を神から引き離すために、偽りの情報を人に与えます。例えば、この地球や生命は進化してできたという情報を用い、神はいないと信じさせます。ところが、同じ自然を通して、これを造った神がいることを示していると聖書は教えます。この世界は進化してできたと信じるか、神が造ったと信じるか、どちらの情報を選択するかについては本人の責任です。

『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:20)

   悪魔は、偽りの情報を与えて人の選択に影響を与えることはできますが、人の心を支配することはできません。私たちのいのちは、神のいのちによって造られているため、その人格に手を出すことができないのです。ですから、悪魔はエバに対して偽りの情報を流すことしかできなかったわけです。聖書は、悪魔のことを「惑わすもの」と呼んでいます。ユダがイエス様を裏切った時、「悪魔が入った」と記述されていますが、これは、悪魔がユダを思いのままに操ったという意味ではなく、悪魔の与えた情報を選択することを決意したという意味です。ユダは、「イエス様を売ろう」という思いを抱きましたが、まだ決意が固まらずにいた時、イエス様はユダを悔い改めに導こうとしました。しかしユダは、悔い改めではなく、イエス様を売るほうを選択しました。これが、「悪魔が入った」ということです。ユダは自分の意志として、イエス様を売ることを選択したのであり、悪魔に取り付かれてコントロールされたわけではありません。

・悪霊の働き

『それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく凶暴で、だれもその道を通れないほどであった。すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」イエスは彼らに「行け」と言われた。すると、彼らは出て行って豚に入った。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。』(新約聖書 マタイの福音書 8:28〜33)

   悪霊も悪魔と同様に、人を勝手に支配することはできず、誤った情報を人に与えることしかできません。悪霊に憑かれるとは、悪霊が提供した情報を受け入れることです。この人々は、悪霊によって奇異な行動を取る願いが心に浮かび、それを信じて実行に移した結果、凶暴になり、悪いことをしているのです。
   神も私たちの心に願いを起こさせます。人は心に浮かんだ願いをそのまま実行するのではなく、信じて行動に移すか、無視して退けるかを選び取ります。悪霊からの思いを選ぶこともできるし、神からの思いを選ぶこともできるのです。
   つまり、悪霊に憑かれた人々が奇異な行動を選択する構図も、私たちが人を裁く構図と全く変わりません。聖書は人を裁いてはならないと教えています。私たちは神のいのちによって造られた素晴らしい存在で、神の作品であり、大変価値のある良いものであり、イエス・キリストは私たちを裁くためではなく救うために来たと教えています。ところが、このような聖書の情報があるにも関わらず、私たちは聖書以外のものを基準とした情報を選びとり、その情報を信じて裁くのです。
   私たちに間違った情報をもたらすものは、人を行いという物差しで判断する律法です。人はそれぞれ自分を基準とする律法を持っており、その律法に反する行いを見ると、人を裁き、怒りを覚えます。律法が敵意をもたらすと聖書が教えている通り、聖書という正しい基準ではなく、間違った情報を基準にすることで、怒りや敵意を引き起こしています。
   つまり、神の与える正しい情報を信じようとしないで、この世の偽りの情報を信じ、間違った物差しを基準にしているという点で、悪霊に憑かれて奇異な行動をしている人たちと、私たちがしていることは何ら変わりません。
   私たちの意志を支配することは誰にもできないのですから、間違った情報に惑わされないように、何を選択して信じるか、慎重にならなければなりません。イエス様が荒野で40日間断食して祈っておられた時、悪魔は三度、聖書と異なる偽りの情報でイエス様を惑わそうとしました。この時、イエス様は偽りの情報をすべて正しい御言葉の解釈によって退けました。どんなに悪魔に偽りの情報を吹き込まれても、間違った選択をしてはいけません。
   悪霊につかれた人が選択を誤ったのは、あまりにも恐れが強かったせいであると推察できます。人は、あまりにも恐れが強いと、見える情報にしがみつきたいために、偽りを偽りと思わず信じてしまうのです。例えば、上司にこれができなければクビだと脅されると、上司の言うことはすべて受け入れるようになったり、親が子どもを恐れさせることで言うことをきかせたりするようにです。
   私たちは恐れによって情報を選択する弱さを持っています。偽りの情報と戦うには、この恐れと戦わなくてはいけません。ですから、聖書は信仰で戦うように教えているのです。
   さて、イエス様によって追い出された悪霊は、豚を操り、約2000匹もの豚が自ら溺れ死にました。悪魔・悪霊は、神のいのちを持っていないものを操ることはできるのです。エバに偽りの情報を与えるために蛇を操ったり、人を恐れさせるために豚を操ったりしています。悪霊が豚を操った目的は、人々の恐れを増し加えて、偽りの情報を信じさせるためです。

・病と悪霊の因果関係

『そのとき、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。』(新約聖書 マタイの福音書 12:22)

   聖書には、悪霊が人を病気にする場面がいくつかあります。しかし、悪魔や悪霊は、人を強制的に操ることはできません。人の心を罪に向けさせる時も、偽りの情報を与えて人自身がそれを選択するように惑わします。同様に、悪霊が人を強制的に病気にすることはできません。悪霊たちが操ることができるのは、神のいのちを持っていない動物や病原体です。悪霊たちは、病原体を人に送り込み、病原体の活動によって病が発症するのです。ですから、病原体を送り込まれても、本人の抵抗力によって発症しない場合もあるわけです。
   悪霊たちが直接人間に働きかけているのではなく、体に直接悪さをしているのは病原体ですから、私たちが直接的に戦う相手は悪霊ではなく病原体です。体の具合が悪くなったり、何か都合よくないことが起きたりすると、悪霊の仕業ではないかと考える人がいますが、そうではないのです。病の起源について、聖書の記述を通して考えてみましょう。

   神が初めに造った世界はすべて神に養われ、人と共に永遠に生きるように造られていました。ところが、悪魔が神と人との関係を壊したことによって、人間は永遠なる神から切り離され、永遠に生きることができなくなりました。これが死です。本来人の体は永遠であり病気になることはありませんでしたが、神との関係が断たれたために保護を失い、怪我や病気で苦しむようになったのです。
   人間に死が入りこんだ時、同時に土地も呪われ滅びるようになったと創世記3章に記されています。つまり、その他の生物も神の保護を失い、自分で食物を得なければならなくなったのです。ここから自己保存の法則や弱肉強食といった食物連鎖が始まったと考えられます。そして、生き物の中には、生きるために人に寄生するものが生まれました。病原菌や寄生虫などがそれです。
   このように、人間に死が入り込んだことによって、被造物に死が入り込み、病原体は自分を生かす場所として、人に寄生するようになりました。悪霊たちは、この病原体を人間に入り込ませ、私たちを病気にします。悪霊たちが私たちのからだに直接手出しをするのではありません。
   死が入りこんだことで、被造物も神との関係が断たれ、共に死を受け入れなければならなくなったのが、今日の世界です。ですから、人間だけが永遠のいのちを求めてうめいているわけではなく、被造物も共にうめいていると聖書は教えています。

『被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:19〜22)

・悪霊の追い出しとは

では、なぜイエス様は病を癒すときに、わざわざ悪霊を追い出したりしているのでしょうか。悪霊が私たちの体を乗っ取っているわけではないのに、悪霊を追い出すことには、どのような意味があるのでしょうか。それは、人間は苦しんでいる根本原因は、悪魔のしわざにあることを教えるためなのです。

『またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。…」』(新約聖書 ヨハネの福音書 9:1〜3)

   弟子たちは、この人が病気になったのは、罪のせいだと決めつけています。今も昔も、自分の手に負えない何か不都合な事が起こると、神のバチが当たったのではないかと、人は考えるものなのです。しかし、これは間違った情報であり、このように考えると、福音が見えなくなり、神の愛が閉ざされてしまいます。
   病気や人を苦しめているものの原因は、誰かが罪を犯していることにあるのではなく、悪魔に原因があることをイエス・キリストは示したかったのです。人々が根本原因に気づかず、恐れに振り回されている状態から解放するために、イエス・キリストは、ご自分がこの地上に来られた目的を人々に知らせる必要があったのです。その目的とは、悪魔の仕業を滅ぼすことです。

『罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:8,9)

   私たちが罪を犯すのは、悪魔が原因です。悪魔は初めから罪を犯すものであり、その悪魔に騙された結果、人は罪を犯すようになったのです。イエス・キリストが現れたのは、この悪魔の仕業を打ち壊すためです。神によって悪魔の仕業は滅ぼされ、神の恵みによって私たちは死の世界に拘束されないようになるのです。
   「神から生まれた者は罪を犯さない」とは、「神を信じた者は死に支配されない」という意味です。これを、神を信じる人は悪い行いをしいという意味だと誤解する人が多いのですが、それは、罪を行いに限定して考える間違いのためで、罪=死と考えるとわかりやすいと思います。救われた者は、永遠のいのちの中に入れられ、死に支配されなくなるのです。

『私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:13)

   罪を明らかにすると、人々は誰のせいかと考えて自分や人を責める傾向にあります。しかし、罪の根本原因は悪魔です。イエス・キリストは、罪の原因が悪魔にあることを明確にし、神が悪魔のわざを打ち壊したので、もう心配しなくても大丈夫なのだということをわからせるために、悪霊を追い出されたのです。イエス・キリストが悪霊を追い出すのは、すでに神の国が来ていることを教えるためなのです。

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』(新約聖書 マタイの福音書 12:28)

・今日の悪霊との戦い

『あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに表されるように用意されている救いをいただくのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 1:5)

   神は、あなたがたはもう守られており、あとは神の国に行くだけだから、心配はいらないことを教えておられます。今、悪魔・悪霊は、十字架によってすでに捕らえられ、私たちに直接手出しをすることはできないのです。

『神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。』(新約聖書 ペテロの手紙第二 2:4)

   ですから今の私たちは、不都合なことやつらいことが起こっても、悪霊のせいではないかなどと心配する必要はまったくありません。
   それは本来戦うべき対象から目を背けさせ、無用な恐れを抱かせる偽りの情報です。イエス・キリストの十字架によって悪魔のわざは完全に打ち砕かれ、彼らは閉じ込められているのです。
   ただし、この世界はまだ存続していて、悪魔がもたらした死は存続しています。悪魔や悪霊が行動できない状態にあっても、死がある限り、人々は恐れから偽りの情報を信じてしまいますし、病原体も存在します。ですから、聖書は次のように教えています。

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 5:8,9)

   悪魔・悪霊は捕らえられましたが、死の恐怖があなたがたを食い尽くそうとしているから、信仰で恐れと立ち向かわなければ、すぐに偽りの情報に騙されてしまいます。これが今日の戦いなのです。
   悪魔・悪霊との戦いは福音書にはよく出てきますが、使徒の時代には4回しか記述がなく、パウロとペテロはその書簡の中で一言もふれていません。それは、十字架以後は、悪霊が直接働くことができなくなったので、追い出す必要もなくなったからです。ただ、死がこの世界に残っているために、恐れも存続しているので、恐れに立ち向かうように教えています。
   今日、聖書は、イエスの名で悪霊を追い出したり、悪魔を縛ることを教えたりしてはいません。私たちが戦わなければいけない敵は、恐れと偽りの情報です、体が病気になったら、悪霊の働きなどと恐れる必要はなく、病気そのものと戦えば良いのです。イエス様が悪霊を追い出したのは、何が原因かを明確に知らせ、神の国が到来したことを教えるためです。
   吠えたける獅子は、食い尽くすことはできません。ただ檻の中で叫んで、恐れさせるだけです。信仰で恐れに立ち向かいましょう。