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2014年月6月29日
『敵との戦い2』〜見えない敵と戦うルール〜
(新約聖書 エペソ人への手紙 6:11)
   悪魔について、世の中には様々な情報がありますが、そのようなものに惑わされて、無用な恐れを抱くのは愚かしいことです。聖書は悪魔についてどのように教えているのか、悪魔には何ができて何ができないかというルールを正しく理解することが、悪魔と戦うために大切なことです。
   第一に押さえておくべきことは、悪魔にはできないことがあるということです。それは、人に乗り移って、人の意志を自由に操るということです。これは、そのまま悪魔の側に課せられたルールとなります。なぜ悪魔には、人の意志を自由に操ることができないかというと、人の意志が神のいのちで造られているからです。これについては、人の造りを確認しながら説明しましょう。
   人の意志は人格とも呼ばれ、体ではなく、魂に属するものです。そして、この魂は、神のいのちによって造られています。

『神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』(旧約聖書 創世記 2:7)

   人間は、三位一体の神のいのちの息によって生き物となりました。人間の体は物質で出来ていますが、魂は神のいのちで出来ています。ということは、人間の意志や人格は、魂に属するものですから、神のいのちで出来ているのです。悪魔は、神のいのちに手を出せません。神の意志を操ることなどできません。もし、悪魔が神の意志を操ることができるならば、すでにこの世界に神は存在せず、悪魔が十字架によって捕らえられることもありません。つまり、悪魔は神の意志に手出しできないのですから、同じ神のいのちで造られた人間の意志を操ることなどできないのです。
   悪魔ができることは、私たちが自ら間違ったものを選択するように、偽りの情報を流すことです。だから、悪魔のことを、惑わすものというのです。ということは、偽りの情報を選択するか否か、その責任はすべて自分にあるということになります。つまり、自らの選択の責任は、自らが負うことになります。これが敵と戦う上で、私たちの側に課せられたルールとなります。たとえば、車のセールスマンは、私たちに勝手に車を買わせることはできません。彼は売るための情報を提供することはできますが、勝手に書類にハンコをつくことはできません。車を買う決断をするのは、本人にしかできないことです。しかし同時に、自らの意思で購入を決意したならば、そこには責任が生じます。いくらセールスマンの口車に乗せられたと言い訳をしても、ハンコを押した人には支払いの義務が生じ、その責任を取らなければならないのです。
   同様に、悪魔の出来る精一杯のことは、情報を提供することだけです。悪魔は、人々が神を信じないように、神を信じるクリスチャンにはこれ以上神を信頼しないように、嘘の情報を流します。もし、偽りの情報を信じて、イエス様を信じなければ、その責任は本人が負わなければなりません。神を信じなければ天国に行けないし、神を信頼しなければ平安を手にすることはできません。
   神を信じるにしても、偽りの情報を信じるにしても、信じるという選択をしたら、その責任は自分で負わなければならない、人のせいにすることもできないし、言い訳もできない、これが戦いのルールです。
   中には、神を信じなかったのは、偽りの情報を流した悪魔に責任があるのであって、人にはその責任はないのではないかと考える人がいるかもしれません。しかし、同じ出来事を見て情報を持っていても、何を信じる選択をするかは人によって異なります。

   たとえば、科学と信仰は、長い間、緊張関係にありました。科学は神を否定し、信仰は神がいる根拠を科学的に説明することができず、哲学やものの考え方によって対抗するしかない時代がありました。特に、人間は進化して出来たというダーウィンの進化論は、100年以上に渡って人々から信じられ、ここから、唯物論、社会主義、共産主義等が生まれました。しかし、すべては物質によって成り立ち、偶然であり、滅べば終わりだと考えるこれらの思想は、生きる理由や目標を人々に与えることはできませんでした。
   ところが、20世紀になって、アインシュタインが相対性理論を打ち出したとき、科学の世界は衝撃を受けました。宇宙はビッグバンという爆発によってできたものであり、宇宙には始まりがあるという理論は、聖書の記述の裏付けとなるからです。

『初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。』(旧約聖書 創世記 1:1〜3)

   聖書は、初めに神が光を造り出し、何もないところに天と地を創造して、世界が始まったと教えています。科学者たちは、これはビッグバンのことだと考えました。何もないところに突然爆発が起こるためには、第一原因となる何者かが存在しなければなりません。それは、神としか説明しようのないものです。ビッグバンの発見によって、奇しくも、科学が神の存在を証明することとなり、事実多くの科学者が神を信じるようになりました。
   そして、今日では、この世界は誰かによってデザインされたとしか説明がつかないという理論が生まれ、科学によって神を否定することのほうが難しくなってしまいました。昔と今では、科学の考え方は、完全にひっくり返ってしまったのです。日本ではまだ時間がかかるかもしれませんが、教科書の書き換えも進んでいます。

   このように、同じ出来事を通して、ある人は神はいるという結論に達し、ある人は神はいないという結論に達します。人を造った方がいると信じるか、人は偶然の産物だと信じるか、その責任は自分で負うことになります。もし、自然にできたと信じるなら、それは自分の責任です。その人は、永遠のいのちを失うのです。これがルールです。

『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:20)

   悪魔は嘘を信じさせて、神を信じないように仕向けます。神を信じない人は大勢いますが、神はご自身が造った世界を通して、その存在を示しておられますから、彼らに弁解する余地はありません。神を信じなかった責任は自分で負わなければならないのです。
   もし、神はいないと信じるなら、人生も命も偶然の産物で目的や希望は存在せず、死んだら終わりだと信じる道を選ぶわけです。永遠の命を失い、天国に行くことができないのです。

   さて、悪魔は人間を操ることができないならば、イエス様を裏切ったユダの場合は、どうだったのでしょうか。聖書には次のように書かれています。

『夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが…』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:2)

   悪魔は「思いを入れる」、つまり情報を提供することしかできません。「イエスを祭司長たちに引き渡せば、お金も地位も手に入るかもしれない」という、ユダが心を惹かれそうな情報を流したのです。この時、イエス様は、このように言われました。

『イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:21)

   この時、ユダはまだ葛藤している最中でした。そこで、イエス様はユダに対して自ら悔い改めるチャンスをお与えになったのです。これから悪事を働こうとしている時、それが見透かされているとわかったら、通常それを思いとどまるものです。しかもイエス様は、大勢の中でユダを名指しして、いたたまれない思いを抱かせるようなことはせず、他の弟子にはわからないように、ユダだけがわかる言い方をなさいました。

『イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。』(新約聖書 マタイの福音書 26:23〜25)

   ユダは、イエス様が本当に自分のことを見抜いているのかどうか確認しました。この時、イエス様が言った「いや、そうだ」とは、直訳すると「あなたは言った」となります。つまり、他の弟子に分からないように、ユダにだけメッセージを送っておられるのです。ユダを追い詰めずに、悔い改めを促している配慮だと読み取れます。
   ユダの裏切りについて、イエス様が十字架の贖いを完成させるためには、裏切る人間が必要だったのではないか、ユダは神の意志によって裏切ったのではないかと疑問を抱く人がいますが、決してそんなことはありません。そのように考えると、もしここでユダが悔い改めてしまったら、イエス様の十字架はなくなってしまうのだから、イエス様がユダを悔い改めに導くことに矛盾が生じます。しかし、ユダの裏切りは、決して神に仕向けられたものではないのです。
   神は全知全能ですから、悪魔やユダが何をするかすべてわかっておられます。神がユダを初めからそのように造ったわけではありません。ユダが何をするかわかった上で、それを逆手にとって、栄光に変えることがおできになるのです。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:28)

   神は、人をあらかじめ罪を犯すように造ったりしません。なぜなら、私たちの意志は神のいのちで造られており、その意志を無視してコントロールするという意志とは、その人の魂を殺すことであると同時に、神のいのちを滅ぼすことにもなってしまいます。

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:13)とあるとおり、神は、私たちの心に思いを起こさせ、それを選択するように導いてくださいますが、あくまでも選択は人に任されます。人はそれを拒否することもできるのです。つまり、ユダの選択は神が仕向けたものではなく、悪魔によって入れられた思いをユダ自身が選択したということになります。

   では、なぜイエス様は、裏切るとわかっているユダに、悔い改めを促したりしたのでしょうか。それは、目の前で死にゆく人を見殺しにできないのと同じです。もし、目の前で溺れている人を見たら、自分には助けられないとわかっていても、あきらめずになんとかしようとしないでしょうか。医者は重病で手の施しようがない患者を目の前で見捨てるでしょうか。最後まで最善を尽くそうとしないでしょうか。
    それが愛です。人間の私たちでさえこの愛を持っているのですから、私たちに愛をくださった神は、なおさらではないでしょうか。イエス様は、最後の最後まで、ユダを愛し、なんとか助けようとなさったのです。
   神は、たとえ悪者でも、信じないとわかっていても、最後まで見捨てず、手を伸ばし続けるお方です。ですから、もし間違った選択をしたら、神のせいにする言い訳はできません。

『彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:27,28)

   「サタンが入った」とは、ユダが決心したことを表しています。悪魔がユダを支配し心を操ったわけではなく、ユダは葛藤の末、悪魔が提供した思いを自分で選択しました。イエス様には、それがわかったのです。
   聖書にある「悪魔が入る」「悪霊に憑かれる」という表現は、悪魔や悪霊が提供した偽りの情報を選択することを表しています。
   これは、ペテロとイエス様の会話からもわかります。マタイ16章に、イエス様がペテロに対して、「下がれ。サタン」と言っておられる場面があります。もちろんペテロは悪魔ではありません。この時ペテロは、この世の心遣いから嘘の情報を信じていたのです。イエス様は、「ご自分は殺されるがよみがえる」と話しておられたのですが、ペテロは「そんなことが起こるはずがない。そんなことを言ったら人々から変に思われる」という情報のほうを信じたのです。つまり、嘘の情報を信じることが、「サタンが入った」あるいは「悪霊に憑かれた」という表現になるわけです。悪魔が人を自由に操ったという意味ではありません。

   私たちは、聖書の言葉を使って、真理をしっかりと見極め、悪魔や悪霊が流す嘘の情報と戦わなくてはなりません。その際、嘘の情報を選択させる力となるのが恐れです。

『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:15)

『また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。』(新約聖書 ユダの手紙 6)


   コロサイ2:15の「彼ら」とは、悪魔と悪霊です。今日悪魔と悪霊は、キリストの十字架によって、捕虜として封じ込められており、私たちに対して何もすることはできません。しかし、彼らが持ち込んだ死の恐怖が、私たちを見えるものにしがみつかせ、嘘の情報を信じさせています。私たちは恐れによって、見えるものの奴隷になり、真理を選択できずに、偽りの情報を選択してしまうのです。 お金が幸せにするわけではないとわかっていてもお金を求めてしまうのは、恐れがあるからです。占いなんか嘘だとわかっていても気にしてしまうのは、恐れがあるからです。彼らによって持ち込まれて恐れが、私たちの中に残っているからです。
   私たちが戦うべき敵は、偽りの情報・嘘の情報です。この情報を私たちの心の中に持ち込んでくるのが恐れです。ですから、恐れに打ち勝つこと、これが悪魔・悪霊との戦いの対処法であり、ルールなのです。そのために、聖書は私たちに幾度となく「恐れるな」と語っています。聖書の励ましの中で最も多い言葉が、「恐れるな」なのです。自分の中にある恐れと戦うこと、これが悪魔や悪霊との戦いの実体です。