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2014年月4月20日
イースター礼拝のメッセージより

   人が生きるとは、単に呼吸をすることではありません。人間は、神によって造られたものです。神は、人を地上の物質で形作り、神のいのちの息を吹き込んで、人は生きたものとなりました。神のいのちを分けていただいた人間が生きるには、神との関わりが必要です。この「ひとりでは生きられない」性質を、聖書は「弱さ」と呼んでいます。
   ところが、悪魔が蛇を使って人間を騙し、人と神との結びつきを壊してしまいました。これが「死」です。神との結びつきを失った人間は、不安になり、神に代わるものとして、人や物と結びついて、平安を得ようとするようになりました。ここから、人から愛されたい、お金や物を持ちたいという欲求が生まれたのです。このように、人や物に結びついて安心しようとすることを、聖書は「偶像礼拝」と教えています。
   私たちが人から愛されようとするのも、人の目を気にするのも、お金を欲するのも、お金を手に入れたり人からほめられたりすると安心するのも、本来私たちが神なしでは生きられない存在だからです。
   今日、人間は、神との関係が壊された不安をかき消すために、仕方なく人や物に結びついてなんとか平安を得ようとして生きていますが、所詮それらは神の代用品なので、一時の満足はあっても、結局虚しさや不安を感じます。本来結びつくべき神と結びつかないことを、聖書は「罪」と呼びます。私たちが感じるつらさの本当の原因は、人からの悪口や愛されないからではなく、神としっかり結びついていないところにあります。
   神は、このような状況にあった人間を救う計画をたてられました。神ご自身が人としてこの地上に来られ、神と人とを隔てている死の壁を壊すために、自ら十字架にかかったのです。そして、死を完全に滅ぼしたことを人々に示すために、よみがえられました。これが、イエス・キリストの十字架と復活です。
   この復活を信じることを通して、死という壁が取り除かれ、私たちは再び神と結びつくことができるようになります。これを神の恵みと言います。
   私たちがイエス・キリストを信じるならば、再び神と結びつき、関係を回復することができます。聖書は、これが平和だと教えます。聖書で平和と訳されている言葉は、平安という意味でも使われます。神との間に平和を築くことが、私たちに真の平安を与えるのです。
   私たちは見えるものに結びつくことで平安を手にしようとしてきましたが、そうではなく、神との関係を回復することで、真の平安を取り戻すことができるのです。それを示してくれたのが、イースターです。

『さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓についた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。・・・』(新約聖書 マルコの福音書 16:1〜14)   

   イエス・キリストが十字架で死亡したことを兵士が確認し、遺体は墓に収められました。ところが、3日目の早朝、イエス様の体は墓から消えてなくなっていたのです。その後まもなく、イエス様はマグダラのマリヤに姿を現し、さらに、ふたりの弟子の前に現れました。ところが、11人の弟子たちはそのことを聞いても、誰もイエス様の復活を信じませんでした。ついに、イエス様は、11人の弟子たちの前に現れ、彼らの不信仰をお責めになったと言います。
   復活したイエス様を直接見た人は、500人以上に上ると言われます。しかし、初めは誰も信じませんでした。なぜでしょうか。
   人間は、どうしても自分の知識や知恵の中で、物事を理解しようとするものです。今も、神がおられること、復活したことを、信じない人々がいます。この人々の多くが、目に見えないから信じられないと言いますが、彼らは目に見えない空気や酸素を信じることはできるわけです。
   聖書は、神がおられることは、神が造られたものを通して明らかになっていると言います。そこに何かが存在するのは、それを作った人がいるということです。それならば、今あなたが生きていることが、神がおられる証拠だと言えるのです。
   日本では、多くの人が進化論を信じ、宇宙はビッグバンによって始まり、人間は進化の過程で生まれたと信じています。そして、なぜビッグバンが起きたのか、科学者はその理由を必死に研究しているわけですが、最新の科学では、この宇宙の様々な法則は、設計者がいないととてもできないという説が有力になっています。
   例えば、人間の体の一番小さいパーツはギアのような仕組みになっており、それらの組み合わせで体は造られています。進化論では、これが自然にできたと考えますが、この複雑な細胞が、星と星の衝突の繰り返しによってできる確率は、東京のゴミ処理場である埋立地に風が吹き、ゴミが舞い上がった瞬間にジェット機ができるのと同じ確率だということです。確かにジェット機に必要な材料はすべて揃っています。しかし、風が吹いてジェット機ができるなどということを、誰が信じるでしょうか。
   人間の体は、ジェット機よりもはるかに複雑です。人々は、この体が自然にできたということを、突然変異という言葉で信じ込み、神などいないと信じました。弟子たちも初めは復活などないと信じていました。神がいると信じるか、いないと信じるか、復活したと信じるか、復活などないと信じるか、それを信じるのはなぜなのか、向き合って考えてみましょう。
   もし神を信じなかったら、どのようなことが起こるのでしょうか。

・もし神を信じなかったらどのようなことが起こるか

1.死に対していつもおびえなければならない
   体は必ず朽ちて、すべての人が死を迎えます。誰も死に対して、対策を打つことはできません。もし、神を信じなければ、私たちは怯えて死を待つことしかできません。
   しかし神は、私たちが死後によみがえり、永遠に生きることが出来るという希望を与えてくださいました。イエス・キリストは、この信仰を私たちに与えるために、ご自身も死んで復活し、死を克服したことを示してくださったのです。

2.どう生きればいいか方向を見失う
   進化論は、突然変異という偶然によって、世界は進化してきたと教えます。もしそうならば、未来も偶然によるものであり、どのように進むべきか、私たちには方向がまったくわからないことになります。また、進化論は、人間の命は物質に過ぎないという考え方なので、何のための命なのかがわかりません。
   しかし、神を信じるなら、何のために生きるのか、生きる方向が見えてきます。聖書は、私たちは神と共に生きるように造られ、神は私たちひとりひとりに目的を持って造ったと教えています。人生の方向が見えて生きるのか、見えないまま生きるのかでは、大きな違いがあります。
   江戸末期、政治が不安定になり、何を信じ、何を目標にすればいいのかわからなくなった多くの若者が、キリスト教に導かれ、クリスチャンになりました。明治維新で、日本の近代基礎を築いた人々の中には、実に多くのクリスチャンがいたのです。
   その中の一人が勝海舟です。彼は、アメリカでキリスト教にふれ、日本はどうすべきか方向を見出しました。神は、戦うのではなく、互いに助け合い、愛し合うことを教えていると悟った勝海舟は、戦争を避け、江戸城の無血開城の立役者となりました。彼は晩年にクリスチャンであることを告白し、洗礼を受け、その自宅跡地は教会となり、現在に至っています。
   また、勝海舟の影響を受けた西郷隆盛も、「敬天愛人」すなわち、神を愛し人を愛することを人生の目的としていました。西郷隆盛が、この言葉を掲げて明治維新を成し遂げたのは有名な話です。
   多くの若者が何を目標とすればいいのかわからない中、キリスト教の愛にふれ、生きる目標を見出した人々によって、明治の基礎が築かれていったという歴史がこの国にはあるのです。

3.人の目を恐れて生きるしかなくなる
   神は、あなたは高価で尊い素晴らしい存在だと言われます。しかし、神を信じなければ、私たちはその価値に気づかず、自分の存在価値を人からどう見られているかではかることになります。人から良く思われることで安心を得ようとするので、いつも人の目が気になり、自分の地位や立場・自分自身が人からどう思われるか、自分の平安を守ろうと自己本位になったりもします。そして、これらが、様々な自分の問題を引き起こしているのです。
   しかし、神を信じられるようになると、神との平和が築かれ、神との結びつきの中で平安が得られるので、人の目を気にしなくてもよくなります。すると、人を愛することができるようになり、生き方が変わります。
   神が定めた自分の素晴らしい価値を知らずに、自分はダメな人間だと思って、少しでも愛されようとしてつらい思いをする生き方を描いた有名な童話があります。クリスチャンの童話作家アンデルセンが書いた「みにくいアヒルの子」です。
   アヒルの中で生まれ育った白鳥の子どもが、自分は周りと違うからみにくいのだと思い込み、他のアヒルからも意地悪されて、つらさのあまり死を覚悟したその時、白鳥の群れに出会って、本当の人生を取り戻す物語です。
   私たちは、本当は神と同じ姿に造られた、神にとってなくてはならない存在です。しかし、もし神を信じなければ、人の言葉を信じて生きるしかなく、人から「お前はダメなやつだ」と言われたら、それを信じるしかありません。もし神を信じるならば、あなたは素晴らしい存在だという神の言葉によって、本来の自分を取り戻すことができ、自分はダメだと思って人の目を気にして生きていた人生から、解放されるのです。

   このように、信じないことは私たちの人生に様々な問題を生じさせます。それゆえイエス様は弟子たちの前に自分の姿を見せ、信じる者になりなさいと言われたのです。
   復活はまやかしだという人は大勢います。しかし、復活がなければ説明がつかない歴史的事実がいくつもあるのです。
   第一に、弟子たちはイエス様が亡くなってからすぐに、イエス・キリストの復活の信仰を告白し始めました。聖書の資料も亡くなって数年のうちにできており、イエス様が亡くなった約20年後には福音書が完成しています。これは、イエス・キリストを直接見た人たちが生きている時代であり、もしキリストの復活が事実でなければ、そんな話はでたらめだと闇に葬られたことでしょう。
   たとえば、今の時代に誰かが復活したとデマを流しても、誰も信じたりしないし、広まったりしません。日本にも不思議な言い伝えや伝説が各地にありますが、それは同時代に生きていた証人がいなくなって200年くらいたってから広まった伝説です。キリスト教は、イエス様の死後数百年してからできたものではなく、死の直後、正確には復活したイエス様と出会った直後から弟子たちは宣教を開始しています。
   以前、イギリスのBBCというテレビ局が、イエスの復活は本当かという番組をしていました。キリスト教の放送局でもなんでもない番組が出した結論は、復活はなかったということを説明できない、というものでした。
   ローマ帝国に激しく迫害されていた時代に、なぜクリスチャンが爆発的に増えたのか、キリスト教を厳しく迫害していたパウロがなぜ180度変わって宣教者となったのか、なぜ世界中で日曜日を休むようになったのか、どれもこれも説明がつかず、唯一、復活があったからという理由以外に説明はできないという結論に至ったのです。
   また、イエスの復活に関しては、いくつも本が出版されています。
   元ニューメキシコ州知事のルー・ウォレスは、キリスト教撲滅運動を行い、ありもしないことを信じるキリスト教信者を目覚めさせようとして、「いまに驚くべき本を出版してみせる。その本が出たら、世界中のクリスチャンが顔を赤らめて、『キリストを信じていたのは間違いでした。』と言うようになる。」と言って、考古学の面からキリスト教の間違いを 10年の歳月をかけて徹底的に検証しました。その結果、書き上げた本が、「ベン・ハー〜キリストの物語〜」という小説です。イエス・キリストの復活は本当であったということを証しする物語です。
   このように、もし真面目にキリストの復活を調べるなら、それは事実だったという結論にしか至らないのです。
   現実問題として、私たちが何かと結びつかなければ生きていられないという不安を抱えているのは、人間が神によって造られ、神と共に生きるように造られたからとしか説明のしようがありません。今私たちが抱えている問題のつらさは、神と結びつくことでしか解決できないのです。
   イエス・キリストはそのためにこの地上に来られ、私たちと神との間を引き裂いていた死を滅ぼし、私たちが神と再び結びつく関係を用意してくださいました。それが、イースターです。
   イエス・キリストを信じるなら、希望をもって生きることができ、やがて訪れる死に対して怯えることなく、人生の目標を見出し、人の目を気にしないで生きることができるようになるのです。