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2014年月3月30日
『恵みによる』
(新約聖書 エペソ人への手紙 1章20節〜)
『神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 1:20,21)

   イエス・キリストは十字架にかかり、復活して、天に上られました。そのキリストが、私たちといつも共にいてくださるのです。エペソ3:17には、次のように書いてあります。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」復活のキリストが、信仰によって私たちのうちに住んでくださるとは、なんと素晴らしいことでしょうか。

『また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 1:22,23)

   今、神は、教会を通して、世界中で働いておられます。教会はキリストのからだであり、私たち一人一人はその器官です。自分は何のために神に召されているのか、自分の教会での役割は何なのか、神に祈り聞きましょう。キリストのからだとしての自分の働きを見出すと、教会生活がますます生き生きと楽しいものになります。

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:1,2)

   「罪過」という原語には、「踏み外して落ちる」という意味があります。「罪」とは、心を神に向けないこと、「罪過」とは、罪が原因で発生したあやまち、悪い行いのことです。聖書は罪を、その原因と発生した行いとに分けて教えています。「死んでいた」とは、神とのつながりを持っていなかったということです。
   心を神に向けずに、悪い行いをしてしまうのは、私たちの中に罪があるからです。聖書は、どうすれば罪が取り除かれて救われ、回復していくかを教えています。罪とは何か、私たちは何から救われるのか、これが理解できなければ、福音を正しく理解できません。

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)

   この聖書箇所は、原語では、「死のとげは罪、罪の力は律法」と大変強調した書き方になっています。「死」とは、神との関係が断たれることです。神との結びつきを失った人間は、「自分は神に愛されなくなった」と不安・恐れを感じます。すべての人は、潜在的にこの不安・恐れを抱いており、魂は神を求めています。
   ところが人間は、この不安・恐れを、神と結びつくことではなく、見えるものにしがみつくことで解消しようとしました。これが罪(神に目を向けないこと)です。その結果、人は見えるものを手放すことを恐れて、ますます見えるものにしがみつくようになり、自分の魂の叫びが聞こえなくなり、自分が本当に求めているものが何かわからなくなってしまいました。こうして、見えるものを求め続け、心を楽しませてくれるものを求め、結局、何をやっても満たされず、自分を見失ってしまいました。
   自分の魂の叫びを聞くためには、しがみついているものを手放すことが必要です。そうすれば、魂の叫びを聞くことができ、神にしっかりしがみつくようになるのです。聖書は、この経験を「砕かれる」と言っています。
   見えるものを手放す上で、一番効果があるのは患難です。患難とは、しがみついていたものが役に立たなくなることです。仕事がうまくいかなくなって不安になったり、人間関係がうまくいかなくなって不安になったりするのは、これまでしがみついていたものが、自分に安心を与えてくれなくなったということなのです。
   しがみついていたものが役に立たないということは、本当の自分の叫びを知るチャンスなのです。それは、自分の魂が本当に求めていたのは、神だと気づくことです。人は、神なしでは生きられないように造られました。聖書は、これを人の「弱さ」と呼んでいます。聖書は繰り返し、「患難に耐えなさい」と教えます。患難に耐えるとは、「逃げるな」という意味です。人は、つらい出来事に出会うと、そこから逃げ出し、新しく自分に安心を与えてくれる鎧を求めて、自分をごまかそうとするものです。つらさから逃げ出す一番手っ取り早い方法は、人や出来事に対して怒ってさばく事です。これはつらさを紛らわすのに一時的な効果はありますが、かえってつらさが増し加わります。
   つらい時、見えるものにしがみつこうとしないで、さばくことをやめると、自分の魂の声に気づくことができます。自分の弱さに気づくと、そこに神の恵みが働きます。「私が弱い時こそ、私は強い」と聖書が教えるとおりです。
   このように、死の恐怖が見えるものにしがみつかせる罪となり、この罪が律法を作り出しました。私たちは自分たちが作り出した律法によってお互いの価値を計り、自分に価値があると安心するという社会を作り上げ、その中で生きています。罪過と罪との中に死んでいるとは、自分の犯した罪に苦しむと同時に、死のとげにも苦しんでいるということです。

   さて、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」とは、悪霊のことです。この霊に従って歩むとは、罪の中に生きることです。悪霊とはどのようなものでしょうか。

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:11,12)

   悪霊は、私たちに直接暴力をふるったり、危害を加えたりすることはありませんから、そのようなものを恐れる必要は全くありません。私たちは、悪霊と直接戦うわけではないのです。悪霊との戦い方を知るには、悪霊が用いる武器を理解し、どのような攻撃に備えれば良いのかを知る必要があります。
   悪霊の攻撃パターンは、惑わしです。これは、創世記の時代から変わらず、エバは御心でないことを正しいことだと思うように惑わされました。このように、私達が間違った行動をして、間違った方向に行くように惑わすのが、悪霊の攻撃パターンです。
   そのために悪霊が使う武器が律法です。つまり、私達が実際に戦う敵は律法なのです。
   律法とは、行いの規定です。人はそれぞれ自分の中に人を判断する基準を持ち、価値をはかっています。人と自分を比べて、自分はダメだと思ったことはないでしょうか。反対に、自分はなんと優れた人間かと傲慢になったことはないでしょうか。あるいは、人をダメなやつだとさばいたことはないでしょうか。その判断の根拠になったものが、人がそれぞれ持っている行いの基準、すなわち律法です。
   聖書は一貫して、人は皆良きもので、愛される価値があると教え、繰り返し裁くなと教えているにも関わらず、自分で勝手に判断を下して生きていることこそ、人を惑わす悪霊の攻撃です。この世の間違った判断基準で生きていたことが、すでに悪霊の惑わしだったのです。私たちは、すでに律法のメガネを心にかけさせられ、惑わされているのです。

『私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:3)

「不従順の子らの中に生きる」とは、律法に生きているということです。その結果、肉の欲に生きていたのです。人は、肉の欲こそが罪(罪過すなわち罪の行い)を生み出すもとだと考えがちですが、実は、律法こそが肉の欲をかきたてる源です。
   例えば、ある律法によってこれは価値があると判断されると、今まで価値を見出していなかったものであっても、急にそれが欲しくなるものです。このように、律法によって欲はかきたてられます。 『すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第二 2:16)とあるとおり、すべての欲は、あなた自身の中にあったものではなく、この世すなわち律法から生まれました。
   また、生まれながらに御怒りを受けるとは、生まれながらに神との関係を持たず、罪の律法に生きるものであったということです。つまり、人は皆、生まれながらに死んでいることを教えています。

『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:4〜8)

   私達が生まれながらに死んでいる状態の中にあったにも関わらず救われたのは、神の恵みによるものです。信じていない人は、今も死んだ状態が続いています。しかし、信じて救われた人は神の目から見れば、キリストと共にすでによみがえった状態です。なぜ、死んでいたものが生き返ることができたのでしょうか。それは、信じた人の魂は、神の御手の中にあるので、すでに生き返ったと神は考えるからです。これが救いです。そして、やがて体も朽ちないものに変えられる時がやってきます。これが終わりの時です。
   この救いのわざは、すべて神がしてくださったことであり、人のわざではありません。私たちは恵みによって救われたのです。

『行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:9,10)

   世間の宗教は、良い行いを積むことで救われると教えるのが一般的です。しかし、キリスト教は、行いで救われることはないと教えます。その理由は、良い行いは初めから神が備えたものであり、人が誇るものではないからです。本来私たちは良い行いができるように備えられたものなので、それによって救われることはなく、あくまでも救いは神によるものです。
   聖書が教える良い行いとは、神を愛し、人を愛することです。今日人々が神を愛せず、人を愛せない原因は律法です。人と比べて自分が優っているかどうかで、自分の価値をはかろうとし、妬みや嫉妬や敵意が生まれるのは、律法のせいです。神の目から見て間違ったことを正しいと信じているので、人を愛せないのです。律法から解放されると、人を愛せるようになり、良い行いができるようになります。ですから、行いは救いの条件にはならないのです。
   窮地に陥った時、人を愛する行いをとってしまうことがあるのは、それが本来の人間の姿だからです。誰かが危機に瀕している時、自分の危険を顧みず、瞬間的に助けようとしたり、自分の命が尽きようとする時、多くの人が愛していることを家族に伝えようとしたりするのは、窮地に追い込まれて律法から解放され、本来の自分を取り戻したのだと言えます。私達が普段そのような生き方ができないのは律法のせいです。
   私たちはもともと神を愛し、人を愛するように造られました。ですから、良い行いをしたからといって不思議ではないし、それを誇る必要もありません。そのため、そんなことで、人は救われるのではありません。ただあなたが、自分の弱さに気づいて、主を呼び求めさえすれば、それだけで救われるのです。行いや能力とは関係がない、これがキリスト教の救いの基本です。
   私たちは互いに愛し合うように造られています。律法から解放されて、本来の自分を取り戻しましょう。私たちは、人を愛せる時、心地よさを感じ安心を覚えるものですが、愛せないと辛さを感じます。神に憐れみを求めるならば、神は救ってくださいます。私たちの本来の姿、人を愛し、神を愛する姿を取り戻しましょう。