ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2014年月3月16日
『人生は宝探し』
(新約聖書 エペソ人への手紙 1章)
『神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 1:1〜7)

   神は私達を祝福し、恵みと平安を与えようとしておられる方です。その平安とは、あなたが神の子とされ、神との関わりを持つことで得られる平安です。人間は一人では生きられないように造られており、神との交わりを失った人間は、見えるものにしがみついて平安を手にしようとしてきました。そんな人間に対して、神は、私達を神の子として救い出し、神との関わりを持つ者としての平安を与えようと定めておられるのです。神は、天地を造る前から私達を選び、一人一人に計画を持っておられます。
   今、あなたは何によって平安を手にしようとしているでしょうか。あなたが神の子として神と共に生きる平安こそ、神が用意しておられる真の平安です。恵みの栄光がほめたたえられるとは、神を愛し、神を信頼することなのです。
   神は、この平安を与えるために、十字架の贖いによる罪の赦しという恵みを用意してくださいました。この恵みは二つあります。イエスを信じて救われ、神との関係が回復する恵みと、救われた者が罪から贖い出されて、罪が取り除かれる恵みです。
   罪が取り除かれるとは、恐れが取り除かれることです。罪とは、心を神に向けないことであり、それは恐れに伴う行動です。人は、恐れによって神以外のものを頼り、それにしがみついて安心しようとしているからです。罪を生み出す恐れは、神と切り離された死の恐怖から生まれたものです。キリストは、私達から恐れを取り除くために、この地上に来られたのです。
   神が立てた計画とは、神を愛せないようにさせている罪を取り除き、私達が神の子として神と交わり神を愛して生きていけるようにという計画です。イエス・キリストは、十字架でそれを完成させたのです。

『この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 1:8〜11)

御国への凱旋
   この赦しの恵みによって、キリストは私達をひとつに集め、御国に凱旋させる計画を初めから持っておられました。キリストの計画は、この地上で罪が赦され、神との関係が回復するだけでなく、救いを完全なものとするために、これからなされる神の御業まで含まれているのです。
   私達の人生は必ず終わりを迎えます。また、この地球もやがて終わりを迎えます。終わりの時について多くの方は恐怖を感じるものですが、聖書はこの世には終わりがあることをはっきり語っています。ただし、それがいつどのような時かということはわからないように記されています。それは、私たちはそのことを心配しなくていいということです。子どもが知らなくてもいいこと、心配させたくないことについて、親は詳しくは語らないものです。
   しかし、はっきり教えられていることは、終わりの時とは、恐れるものではなく、勝利の時であるということです。

『終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:52)

   私達は、将来に対して、不安になったり、恐れたり、心配することはありません。神が共におられるからです。終わりの時とは、神が私達の体を朽ちないものに変えて復活させて下さる勝利の時なのです。

『朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:23〜55)

   神を信じる私達にとって、終わりの時は、神の約束が完成される勝利の時です。死を恐れて不安になる必要はありません。
   「死は勝利に飲まれた」「死のとげ」という言葉は、旧約聖書ホセア書の引用です。「勝利」という言葉のもともとの意味は、「仕事」という意味です。つまり「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか」とは、「死の成果はどこにあるのか」という意味です。死の成果とは、人の中に罪をもたらしたことです。そのために、怒り、妬み、敵意等の罪を生み出す律法が、その力となりました。つまり、律法は死が生み出した仕事です。それが「とげ」です。しかし、死は飲み込まれ、死の成果はすべて消えてしまいました。

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)

   この御言葉の原文には動詞がありません。つまり、「死のとげは罪、罪の力は律法」と、非常にインパクトを与える書き方になっています。例えば、「人生はお金です。」と言われるよりも、「人生、金!」と言ったほうがインパクトがあります。罪が完全に滅ぼされることを大変強調して書かれているのです。

『しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:53〜57)
『ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことをしっているのですから。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:57,58)

   私達にとって終わりの時とは、勝利の時であり、ただ体がよみがえるだけでなく、私たちを苦しめてきた罪が完全に滅ぼされる時です。終わりの日には、死は飲み込まれ、それまで罪の中で不安や恐れに苦しんできた私達は、罪から完全に解放されます。
   今私達が罪と戦って生きる時、なかなかうまくいかなくても、あきらめてはいけません。必ず勝利できる日が来ます。病気と戦い続ける人々は、本当に治るのかと時折不安になるものです。同様に、罪という病気と戦っている私達に対して、必ず癒される日が来るから動かされることなく罪と戦うように、聖書は励ましているのです。
   このように神は、生きている人間だけでなく、すべての人が完全に贖い出されて真の平安を得る計画を持っておられます。あとは、私達がそれを受け取るかどうかの問題です。神は繰り返し、神を信じよと教えておられます。神の恵みを拒否する者に復活はありません。しかし、この恵みを受け取るなら、終わりの時に朽ちない体に変えられ、神の恵みの中で永遠に生きるようになります。この恵みを受け取ることが人生の宝です。神は、十字架で二つの宝を用意してくださいました。

1.イエス・キリストという宝
   イエス・キリストを信じれば救われ、永遠のいのちが与えられるという宝です。
   神は存在するのか、キリストは神なのか、なぜキリストを通してでなければ救われないのか、これらは証明されることではなく信じることです。人は理屈によって救われるのではないからです。
   もし神を信じなければ、科学でも宇宙の始まりを説明することができません。進化論は物質がぶつかり合うことでこの世界は自然に発生し、この世の法則はすべて自然に発生したもの、命は偶然に存在するものと考えます。しかし、もし命が偶然ならば、死んでからの希望はありません。果たしてそれでいいのでしょうか。
   聖書は、神は計画をもって私達を造られたと教えます。このことを信じると、人生の見方が180度変わります。自分は神によって造られ、私の人生には計画があると知ることは、なんという希望でしょうか。さらに、死んだ後どうなるかを知っていれば、この地上でも希望を持って生きていくことができます。
   神は私達に、神がおられることと、神がこの世界といのちを造ったことを教えておられます。あなたは、偶然生まれた自分はどうでもよく、死を恐れて生きたいですか。それとも、神の希望を持って生きたいと願いますか。

2.平安という宝
   もしあなたが、神がひとりひとりに用意しておられる平安という宝を見つけ出したいなら、次のようなステップを踏み出す必要があります。

1.自分が造られた目的を知る
   神は、あなたを目的を持って造られました。それは、私達が互いに協力し合うことで神の働きが前進するためです。自分が造られた目的を見出し、ビジョンを持って生きていくのか、目的がわからず、それに対して何もしないで生きていくのかでは大きな違いがあります。自分は何のために生まれ、生きているのか・・・これを見出さなければ、真の平安という宝は見つけられません。
   自分が造られた目的を知る一番良いチャンスは、行き詰まった時です。そういう時こそ、自分は何のために生まれてきたのか、目標が見えてきます。
   ペテロは、イエス様を裏切るという人生最大の行き詰まりによって砕かれ、初めて自分は何のために生まれたのかを知りました。彼は、復活したイエス様に「私を愛するか」と問われ、「私の羊を養いさない」と言われました。この時、ペテロは、自分は何のために生まれてきたのか、何をすべきかを悟り、立ち上がったのです。
   人生の行き詰まりは失望ではありません。私たちは、行き詰まりというものを悪く考えますが、神はそれをチャンスにせよと教えておられます。八方ふさがりの中で、神しか頼るところがなくなった時、自分は何のために生まれ、何をすべきか、あなたは神の答えを知ることでしょう。神は、その答えを用意して、待っておられます。
   神があなたに与えたビジョンは、大きなことや偉大なことである必要はありません。神の前に仕事の大小はありません。家族の救い、会社での証など、神はそれぞれに計画を持っておられます。人と比べられるものではありません。

2. ビジョンに従って踏み出す
   神が自分に与えているビジョンがわかったら、勇気を持って一歩を踏み出しましょう。それは、いかなる場合であっても、勇気がいるものです。しかし、踏み出せば必ず神が用意してくださった宝が見つかります。それは、困難から脱出する道も主が用意しておられるという体験を通して、神を信頼する平安を持つという宝です。神は、試練には脱出の道が用意されているから、あきらめないで前進するように何度も教えています。

『あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 10:13)

   聖書に書いてあることは真実です。御心を確信して一歩を踏み出すならば、神が備えてくださっている道を見つけることができます。その後も、困難が生じても祈って一歩を踏み出すたびに、必ず問題を乗り越えることができます。このように、神は必ず助けてくださるという体験を通して、神への信頼が増し加わります。
   行き詰まっても、困難だと思っても、ちゃんと神は解決の答えを用意しておられますから、その答えを見つけることを通して、私達の不安や恐れが取り除かれ、平安を手にすることができるのです。
   あなたの人生にも、神の宝が用意されています。主が道を備えておられるのですから探しましょう。御心を知り、一歩を踏み出すならば、あなたはその宝を見つけることができます。試練の中にあってこそ見つけられる平安、この平安こそ、神が与えたいと願っておられる二つ目の宝です。