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2014年3月9日
『十字架だけが誇り』
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6章)
『兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:1)

   ここで語られている「あやまち」とは何を指すのでしょうか。ガラテヤ人への手紙は、ここまで、律法による生き方から御霊による生き方への解放を語ってきました。律法に生きる結果生まれるものは、「肉の行い」、すなわち『不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:18〜21)です。つまり、私達が日頃罪だと思っている悪いことは、律法から生まれます。しかし、御霊によって導かれるならば、私達は律法の下にはいないと、ガラテヤ書は教えています。
   つまり、ここでの「あやまち」は、律法に生きることを指します。「律法」とは、「行いの規定」のことですが、それを「価値を見出す基準」に使うことが律法に生きることであり、律法主義と言われるものです。それは、「○○ができれば、素晴らしい・価値がある」という基準によって、「○○しなければならない」「○○すべきである」、あるいは「××したらバチが当たる」「○○したら幸せになれる」という考えることです。
   この世は、「行い=価値」」と考え、いろいろな律法を作り出し、律法をクリアした人を互いに賞賛するシステムで成り立っています。子どもに律法を与えて頑張らせ褒美を与えるのも、何かをすることで価値を認められ褒美が与えられるのもこのシステムです。
   人が生きるためには、関わりが必要です。関わりは心の食事です。人は心を満たすために、人が定めた様々な律法をクリアして、良い評価を得る関わりを求めますが、律法によって心の食事をする仕組みは間違ったものであると、聖書は教えています。
   神は、行いによって人を判断するのではなく、そのままの相手を認めて受け入れるように、すなわちありのままの相手を愛することを教えています。律法の世界に生きている私達は、律法をクリアできず罪を犯す人を、ダメなやつだと拒否します。しかし、イエス・キリストは、罪を赦し、条件をつけずに受け入れ、共に生きてくださいました。有名な放蕩息子のたとえはそれを教えています。罪ある者を受け入れ、共に生きる、それがキリスト教です。
   神は私達に、新しい心の食事のシステムを提供してくださいました。今なお、行いに価値を見出す誤った心の食事をしている人を、柔和な心で正してあげるようにと、教えているのです。
   自分が律法で生きているかどうかを、簡単に見極める方法は、怒りです。行いで人を判断する時、人は必ず、怒りを感じたり、自分はダメだと思ったりするものです。怒りや敵意を感じる時、自分が律法に生きていると認められれば幸いです。神は、そのあやまちを正したいと願っておられるからです。
   人は関わりがなければ生きられません。聖書が教える通り、行いを通して関わることをやめ、相手がどういう状態でも受け入れ、愛する関わりを始めましょう。まずは、家族の中で正しい心の食事のシステムを作りましょう。それは、親や配偶者や子どもに対し、自分の願望を満たしてくれたら関わろうとするのではなく、相手がどういう状態であろうとも関わることです。

『互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:2)

   神がまっとうするように教えている「律法」とは、行いの価値を見出すために人間が作った基準のことではなく、神が定めた律法のことです。それは、 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:14)とある通り、「神を愛し、人を愛せよ」という教えです。
   この教えをまっとうするために互いに負い合う重荷とは、すべての人が抱える弱さのことです。それは、誰も単独で生きることはできないという弱さです。
   人は、神の命によって造られ、本来、神の命との関わりによって生きるように造られています。イエス・キリストは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる」と語っておられます。私達の魂は、神の言葉を食べなければ生きられないのです。もし人が、独立して一人で生きていけるなら、弱くありません。しかし、人は神との関わりがなければ生きられない、一人では生きられない存在なのです。「神なしでは生きられない」という人の性質、これが、聖書が教える弱さです。
   神と人間は、本来絶対的な信頼関係で結ばれる友として造られました。ところがアダムとエバが悪魔に騙されて罪を犯したために死が入り、この信頼関係は壊されてしまいました。悪魔は、嘘の情報をまるで神の御心であるかのように言ってエバを騙し、エバがその言葉を信じた瞬間、神と人との信頼関係が壊れ、神と一つではなくなってしまったのです。
   今まで神とのつながりによって安定していた人間が、突然そのつながりを失い、不安定になりました。そのため、安定を取り戻そうとする力が働き、神とつながれなくなったその手を人に結びつけようとし始めました。こうして人から良く思われようとする世の心遣いが誕生しました。人から良く思われるために、物に結びつこうとする場合もあり、これが富の惑わしの原点です。
   このように、私達が人からよく思われたいと願うのは、人は何かと結びつかなければ、不安で生きていられない弱い存在だからです。そのために、人と結びついて愛されることで安定しようとして、肉の行いを頑張り、努力し、価値を見出すための律法を作ったのです。神との関わりを失った人間には、それしか安定の道がなかったからです。
   神との関わりがなければ生きられない弱さを抱えた人間は、その関わりを失って、人との関わりをその代用にする社会を作り出しました。よい心の食事を得ようとして、互いを賞賛し合う律法を作り出しましたが、この律法によって罪も生まれます。つまり、私達が律法の下で罪を犯すのは、もともと人が持っている弱さが原因です。すべての人が抱えている重荷とは、見えるものにしがみつく弱さのことです。このことを互いに理解し合って、相手を責めたりせず、互いに受け入れ合って神の愛を実行するように教えているのです。

『だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:3〜5)

   人間は、努力や頑張りやその成果を、互いに誇り合い、互いに認め合う社会を作ってきました。そのため、自分の努力や成果を見ると、何か自分が立派であるかのように思ってしまうものです。しかし、自分をよく見てみれば、自分の誇りは、そういうものにしがみつかずにはいられない弱さがあったための頑張りであることがわかります。ですから、自分の弱さに気づけば、誇れると思ったこともそうではないし、負うべき自分の重荷に気づくことができるでしょう。
   私達は、子供の頃から、自分のものを誇り、「わぁ、すごい」とほめられることを求めて生きてきました。人は、人の言葉を食べずには、生きていられないのです。何かにしがみつかずには生きていけない惨めな自分に気づくなら、あなたは幸いです。なぜなら、その弱さは、神と結びつくために、もともと神が人間に与えた弱さだからです。
   普段、私達は、見えるものに覆われて生きているために、自分が弱いことになかなか気づきません。むしろ、握っている経歴や成果やそこに至る努力を誇り、自分は立派で強い存在だと思っています。しかし、実はそれらの動機を探っていくと、何かにしがみつかずにはいられない恐怖におののく自分がいるのです。それこそ、神と結びつくために、神が人に造った、神なしでは生きられないという弱さなのです。

『みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:6)

   あなたの弱さ・恐れを克服する本当の方法は、あなたの魂に神の言葉を食べさせるしかありません。本当の自分に気づき、弱さに気づいて、お互いに御言葉を分かち合って、御言葉を食べて生きていくように、聖書は教えているのです。

『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:7,8)

   肉のために蒔くとは、行いを誇るために、人に良く思われよう、人の歓心を買おうとして生きているということです。この世で生きている限り、誰もがそういう思いを持っています。しかし、この世でどんなに人から褒められるようなものを築き上げたとしても、自分の死とともに結局は滅びてしまいます。なくなるもののために生きるのはやめましょう。
   御霊のために蒔くとは、御言葉を聞き、御言葉を食べて生きることです。聖書が教える種とは御言葉のことです。この種をまくならば、永遠の命を刈り取ることができるのです。「永遠の命」という言葉も意味が二つあり、この場合に刈り取ることのできる「永遠の命」とは、天国入ることができるという意味ではなく、御霊によって刈り取る実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)という、神を信頼することによって得られる平安・安息という意味です。神の言葉を食べて生きようとすると、多くの平安を手にすることができます。これが永遠の命を刈り取るということです。

『善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:9〜10)

   善とは神の言葉を食べて実行することです。そうすれば、御霊の実がなります。特に信仰の家族に対して、御言葉を実行するように教えられているのは、御言葉を食べて生きようとする人と交わることで、自分自身も御言葉で生きようとするようになるからです。私達の物の見方や文化は、生まれながらに持っていたものではなく、人々と交わることによって育ったものです。御言葉で生きようとする人と交わることによって、御言葉で生きようとするようになります。しかし、ただ世の楽しみだけで生きようとする人と交わると、そういう生き方になります。
   肉による交わりではなく、御霊による交わりをしなさいと聖書はくり返し教えます。御言葉によって慰め、励まし合うことに交わりの喜びを見出さなければ、人の言葉を食べる生き方になってしまいます。
   私たちの魂は神の言葉を食べなければ生きていけず、喜びは来ないように造られているのです。人の言葉は、一時の喜びを与えることはできますが、神の言葉は永遠の不動の喜びを与えます。どんなに人からほめられても、死を目前にした時、そのような賞賛は役に立ちません。全ての人に必ず死は訪れます。本当の平安を与えてくれるのは、神の言葉しかありません。神の言葉こそ、真の宝です。信仰・御言葉を大切にして生きましょう。

『ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:11〜13)

   割礼とは律法を象徴する言葉です。律法を強調し、ねばならないということを強調して生きるのは、外見をよくして人からよく思われたいと願うためです。自分がクリスチャンであることを明らかにせず伝道できないのは、キリストの十字架のための迫害を受けたくないからです。人と調子を合わせていたほうが楽だとか、自分を誇るために律法の行いを頑張ろうとか、そんな生き方はもうやめましょう。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:14)

   私たちの誇りは十字架以外にありません。人間は神なしには生きられない存在です。死が入り込んだことで神との関係が断ち切られ、不安定な状態にあることが、人間にとっての恐怖であり、すべての問題の根は、この恐怖から発しています。問題を解決するには、この不安定な状態を解決して、恐れを取り除くしか方法がありません。それは、神としっかり結びつき、自分が神にどれほど愛されているか知るしか道はないのです。
   イエス・キリストの十字架は、神と私達を結び付けてくれるものです。あなたは愛されている、あなたは素晴らしい、あなたは価値があるということを教え、恐れを締め出してくれる唯一のものです。だから、私達が誇りとするものは十字架以外にはないのです。

『割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:15,16)

   律法を守るか守らないかを人の価値の基準とすることなく、イエス・キリストを信頼し、十字架を誇りとする生き方をしていきましょう。