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2014年2月16日
『愛によって働く信仰』
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5章2節〜)
『もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:2〜4)

   割礼とは、神を信じる男子が行う旧約時代の儀式の一つで、聖書では、行いの象徴として記されています。この世は行いで報酬を得る方式で成り立っているので、救いにも何らかの行いが必要だと人は考えました。その代表的な行いが割礼です。しかし、イエス・キリストは、行いとは関係なく信じれば救われると教えてくださいました。これが福音です。
   ガラテヤ教会の人々は、救われた後、天国に行くにはやはり行いが必要なのではないかという古い考えに戻ってしまいました。パウロは、このような考え方は、恵みから外れていると教えています。
   報酬を得るために何かをしなければいけないと考える背景には、すべての人が、自分はダメだという潜在意識を持っていることがあげられます。そのままではダメな存在なので、何かをすることで報酬を得て、自分の価値を上げようとするのです。
   人は、体の食事の他に心の食事が必要で、それは人との関わりです。人との関わりでほめられると、これが心の食事となります。人は、ほめられるという報酬を得るために、何を頑張れば良いか基準を作りました。これが律法で、律法とは、行いの規定と定義されます。
   これは神が作ったシステムではありません。神が作った関わりは、その人をありのままで受け入れるというものです。つまり、お互いを大切に思い、愛し合う関わりです。ところが、悪魔によってこのシステムが壊されてしまったので、人は、行いによって報酬を得るという心の食事のシステムを作りました。こうして人は、認めてもらおう、特別なものになろうとして頑張り、評価されて嬉しくなることを、繰り返して生きているのです。
   このようなシステムを、聖書は律法の世界と呼びます。律法の世界とは、罪の世界です。このイメージで神を見るために、天国に行くためには何かをしなくてはいけないという、考え違いが生まれるのです。
   この世の心の食事のシステムは、自分はダメなものだという前提で成り立っています。これを人間に思い込ませているのは死です。死とは自分をありのままで愛してくれる神との関係が壊れることであり、そのために人は、自分はダメだと思うようになったのです。しかし、今日人々は、自分がダメな原因は、神との関係が壊れたせいだなどとは思わず、何かができないせいだと考えます。そこで、これができないから、あれができないから、とダメな理由を見つけ、この基準を越えられれば大丈夫という目指すべき律法を作り上げたのです。さらに、他の人も同じ基準で判断して、自分の基準でさばきます。すると今度は、他の人の基準で見ると、自分はどうなのだろうと人の目が気になるようになります。
   このように律法を作ったのは死です。何かの基準で自分を見て、自分のことをダメだと思うのは、律法のせいです。自分はダメだと思っているから、良いものになろうとして律法にしがみつき、人の目を気にして不安になる、これが律法の奴隷という意味です。イエス・キリストは、ここから私達を自由にするために、十字架にかかりました。

『私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:5,6)

   義とされるとは、神から価値あるものとされることです。それは、行いではなく、信じることで手に入れることができます。その理由を考えてみましょう。

・なぜ信じるだけで義とされるのか

1.罪が病気だから

   聖書は、罪はその人から出たものではなく、死によって持ち込まれた病気だと教えます。イエス・キリストは、罪という病気をいやし、本来の姿を取り戻させるために、この世に来られたのです。
   私達は、罪はその人の本質から出たものでその人の責任だと考えて、裁きます。そして、自分はさばかれないように、律法を守って立派な人間になろうとします。その結果、そうすることで神の国に入れると勝手に思い込むようになりました。しかし、神がもともとアブラハムに教えていたのは、信仰による救いです。イエス・キリストは、人が勝手に神の計画を変えて信じるようになった間違いを正すために来られ、神の契約を信じるだけで救われると教え直してくださいました。
   義とされるとは、罪を取り除かれることです。罪とは、神に心を向けないことで、神に心を向けるとは、具体的には御言葉に従うことです。御言葉は、神を愛し、人を愛するという二つに集約されますから、神を愛さないこと、人を愛さないことが罪ということになります。
   私達が人を愛せないのは、律法のせいです。律法という「ねばならない」というものさしを持っているために、そのものさしに合わない行動に敵意や怒りを覚えてさばくのです。すなわち、人をさばき、怒りや敵意を生じさせているのは、律法です。

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)
『律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:15)


   死によって罪が人に入り、心を神に向けさせない力が、律法を作りました。この律法が怒りを引き起こし、違反を行わせています。

『しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 11:3)

   蛇は悪魔の象徴です。死が人に入り込んだのは、悪魔が蛇を利用してエバを欺いたからです。人は、その恐怖によって見えるものにしがみつくようになり、それが、神に心を向けさせない力となりました。その力が律法を作り出し、律法によって様々な問題が起こっています。
   つまり、私達を苦しめている罪は、悪魔が持ち込んだものです。しかし私達は、罪とは、その人の本質から出ていて、人の価値と連動していると思っているので、人の行いをさばいて価値がないと思うし、自分の罪を見て価値がないと落ち込みます。しかし、罪と人の価値はまったく連動しません。だから、神は信じるだけで義とするのです。
   私達は、罪を見て人の価値を判断していますが、それは正しい判断の基準ではありません。罪は、その人から出たものではなく、その人の価値を表すものでもありません。確かに聖書は、人の欲が罪を生むと教えますが、欲はこの世の律法によって生まれます。それゆえ、罪は病気と言えるのです。
   いずれにしても、聖書がくり返し教えているのは、あなたは良いもので、罪は私たちの価値と関係ないということです。罪は病気と同じです。ですから、救いというギリシャ語には、もともと癒すという意味があるのです。
   神は一貫して、人は良きものというものさしで私達をご覧になります。このことが理解できると、神のさばきとは何かがわかります。神のさばきとは、人の行いに対して罰を与えたり、天国に入れなかったりすることではなく、この世の君である悪魔をさばく事です。
   人は良きものであり、罪はその人の本質とは関係のない病気です。病気に罰を与えるなど意味のないことです。神は私達を憐れみ、その病気を癒したいと考えるのです。

   このように、罪は病気であるので、神は人を見るとき「良き者が罪という病になってしまった」とご覧になります。ですから、人が良き者の姿を取り戻せるよう、人に住みついた罪という病を取り除くことで、良き者の姿を回復させようと考えておられます。それゆえ、人は行いを頑張って「義」と認められる必要はなく、イエスを神と信じる信仰だけで「義」とされるのです。聖書はそのことを何度も説明しているのですが、人間は律法が常識になっているため、なかなかこれが理解できず、律法を通して価値あるものとなろうとしてしまうのです。

2.神は人をご自分に似せて造られたから

   神に似せて造られたということは、人間は良きものだということです。神が良きものとして造ったのですから、その価値は普遍です。
   私達は罪を見てダメだと落ち込んだり怒ったりしますが、それは私達の本質ではありません。聖書は、罪とは、ただあなたにまつわりついているだけのものであり、罪の汚れを取り除けば、あなたは雪のように白くなると語っています。(ヘブル12:1、イザヤ1:18)
   私達は良きものゆえに、行いで自らの義を立てる必要はまったくないのです。

3.誇らせないため

   神は、人が自分の行いを誇ることがないように、行いでは義と認めないと言われました。
   自分の行いを見て、自分の価値をはかることをやめましょう。大事なのは、愛によって働く信仰だけなのです。

『キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:6)
『また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:2)


   信仰とは神を信じることです。愛によって働く信仰と、肉によって働く信仰の違いは、信じる土台が愛か肉かということです。肉によって信じることが間違っているとか悪いとか言っているわけではありません。しかし、神にとって値打ちのある信仰とは、愛によって働く信仰です。愛とは何でしょうか。

『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:4〜7)

   この御言葉の前半は愛の具体的な行為を教え、後半はその行為を作り出す神への信頼について語っています。愛とは神への信頼です。神を信頼すればするほど、人に対して親切に優しくなれるし、文句を言ったりしなくなります。神は、私達が、愛によって生かされる信仰を持つことを望んでおられます。神を信頼することが、すべての鍵です。
   愛によって働く信仰とは、神を信頼する心から生まれた信仰です。それに対して、自分の願いから生まれた信仰を肉による信仰と呼びます。初めは皆、肉による信仰からスタートし、自分の願望を達成するために、自分のことばかり祈るものです。イエス様はそれでいいと言っておられます。それは、どんなことでも祈っていくと、少しずつ神を愛する心が育ち、自然に自分の願望よりも神の御心を行いたいという思いに変わってくるからです。自分の願望のため、自分を喜ばせるためではなくて、神は私に何を望んでいるのか、その働きを全うしたいという心に変わってくるのです。これが愛によって働く信仰です。


・愛によって働く信仰の特徴

1.何があってもつぶやかない

自分の願いが叶えられなくても、神への信頼がありますから、つぶやかず、喜ぶことができます。しかし、肉による信仰は、自分の祈ったことが叶えられないと、祈ったのにどうして聞かれないのかとつぶやいてしまいます。

2.忍耐して待つことができる

   これは、言葉を変えると、委ねられるということです。神を信頼する人は、自分の考えよりも神の方が優れていると考えますから、委ねることができ、待つことができます。それに対して、肉による信仰は、物事が自分で決めた方向に行かないと文句を言います。ですから、神が道を用意しても、それを選べないのです。

3.人に優しくなる

   神を信頼する心は、人を愛する心につながります。肉による信仰は、自分の願望を満たすために、人に対して怒ったりさばいたりします。自分がどういう信仰を持っているのかは、人に対する接し方でわかります。聖書は愛によって働く信仰が大切だと教えます。
   では、肉による信仰から、神を信頼する愛による信仰には、どのように成長していくのでしょうか。その方法はひとつしかありません。

『ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。』(新約聖書 ルカの福音書 7:41〜43)

   イエス様は、多くの罪が赦された者が多く愛するようになると言われました。自分がどれほど愛されているかがわかれば、神を愛するようになり、誠の信仰を持つようになります。これが鍵です。

『そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけをしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』(新約聖書 ルカの福音書 7:44〜47)

   当時のペテロは、一生懸命頑張って認められようという生き方をしており、自分が罪深い人間だという意識はありません。しかし、この女性は自分が罪深い者であり、その罪が神によって赦されたことを知り、嬉しくて神を愛する行動をとりました。「罪が赦されている」という宣言は、すべての罪は神によって赦されているのですが、それを本人が知る必要があるということです。
   多くの人は罪というと行いを見ますから、立派な行いをすればするほど、自分が罪深いという意識がないものです。しかし、当時のものさしで最も立派な行いをしていたパウロは、自分のことを「罪人のかしら」と呼びました。それは、彼は自分が律法に従って生きていたことに気づいたからです。それが自分の罪深さだと気づいたのです。 私達は、どれほど律法に縛られ、律法で人を見てさばいていることでしょうか。パウロは、律法に縛られ、キリストを迫害し、弟子に対しても敵意を抱き、殺そうとしました。この罪が赦され、言葉に尽くしがたい感謝を抱き、パウロは罪の本質がわかったのです。
   罪の本質は律法でさばくことです。私達は、どれだけ人をさばいているでしょうか。どれだけ自分をダメだと思い、どれだけ人に怒りを抱いているでしょうか。ほとんどの人は、それが罪だという意識はありません。自分は正しいと思ってさばいています。自分は正しいと思わなければさばけません。
   自分が自分と人をさばくものさしを持っていることに気づくと、それが自分の罪深さだとわかります。そして、その罪を神が帳消しにしてくれることを知ると、神を愛するようになるのです。自分の罪深さに気づけば、十字架の愛がわかります。こうして、肉の信仰から愛の信仰に変わっていくのです。