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2014年2月9日
『キリストは自由を得させる』
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5章1節〜)
・キリストは何から私達を解放してくださったのか?

『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:1)

   キリストは、罪の奴隷という苦しみから、私達を解放してくださいました。罪の奴隷として苦しんでいたとは、いったいどういうことでしょうか。
   一般に「罪」は、自分自身の中の欲が引き起こすものと考えられます。欲とは、欲しがることです。なぜ人間は欲しくなるのか、それは、そこに価値を見出したからです。私達の心の中には、何かに価値を見出す基準があり、この物差しによって欲望は駆り立てられます。この物差しを律法と言い、私達は心の中にたくさんの律法を持っています。
   律法とは「行いの規定」と定義されます。聖書は、神がモーセに与えた神の律法のほかに、人間が自らの心の中に作った「ねばならない」という律法があることを教えています。神の律法の目的は、私達を罪に気づかせ、キリストに導くことです。ところが人間が作った律法は、人の価値をはかり、自分が愛される者と認められるために用いられます。
   両方とも行いの規定なので、律法という言葉が使われますが、このように中身と目的はまったく違うものです。ところが、私達は価値を見出すために律法を使う世の中で生きているために、神の律法も同じように使うという誤りを犯しています。聖書は言葉の意味を正しく使い分けていますので、正しく理解するには注意が必要です。

『すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:16)

   この世は律法に支配された世界です。すべての欲望は、人がそれぞれの心の中に持っている律法によって生まれます。これは、御父から出たものでも、私達の中から自発的に出たものでもなく、この世の価値観から出たものです。私達は、この世から提供されている価値観で価値あるものを欲し、価値のないものは欲しません。そして、この欲望が、悪い行い、いわゆる罪を犯す動機となっていくのです。つまり、私達を罪のつらさで苦しめている根源は、この世の価値観という律法です。

『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:14)

   いろいろな定めとは、律法のことです。人が心の中に持っている律法とは、「頑張らなくてはいけない」「良い結果を出さなければいけない」「牧師なら(○○なら)、△△しなくてはいけない」などの「ねばならない」という思いです。
   それは、借金を取り立てる債務証書のように、私達の心を毎日責め立てています。
   私達は、親や社会から「〜しなければいけない」という律法を叩き込まれて育ち、それに応えようとして頑張って生きてきました。人はみな律法を持って頑張っているので、無意識に他人を責め立て、人はそれに応えようと、一生懸命頑張って生きているのです。これらは、律法に責められ、律法が生み出した罪という借金を、行いで支払おうとする行為です。
   すべての欲はこの世から出たものであるとある通り、私達が悪いことをしてしまうのは、この世の律法によって、「〜しなければいけない」という思いに責め立てられ、それに応えようとした結果です。責め立てられれば責め立てられるほど、私達は結果を出すために、嘘をついたり、ごまかしたり、人を蹴散らすようなことをしてしまいます。
   また、律法に応えようとすると人が気になりますから、人と自分を比べては、嫉妬し、敵意や怒りも抱きます。こうして、人を愛せなくなっていくのです。私達が人を愛せなくなり、憎んでしまうようになったのは、律法に責められないように頑張って生きる生き方から始まりました。つまり私達を奴隷にして苦しめているのは、律法なのです。
   このからくりがわからないと、私達は、いったい何から自由にされたのか意味がわからなくなってしまいます。自分の病気がわからないと、医者から病気が治ったと言われてもピンと来ないし、感謝も生まれないのと同じです。
   律法が、私達を苦しめている病気なのです。「人からよく思われなくては」「愛されなくては」「価値あるものにならなくては」・・・、私達には皆そういう潜在意識があり、毎日その思いに責め立てられて生きているのです。


・あなたには価値がある

   私達が律法の支配を受けている背景を探っていくと、自分は愛される価値がないという恐れを抱いていることに行き着きます。この恐れに罪の律法がつけこみ、愛されるためにこうしなければならないと、毎日のように心に要求し、それに応えようとすればするほど、落ち込んだり、妬んだりして、人を愛せなくなるのです。   
   人は、神との関係を失った時から、自分は愛される価値を失ったと思っています。しかし、私達の価値はまったく失われてはいません。神は、私達は大変素晴らしい価値があると言っておられます。   
   私達は、コンセントが抜けて映らなくなってしまったテレビを、もうテレビとしての価値がなくなったと考え、テーブルや棚など、他の目的のために使っているような状態です。コンセントを差し込みさえすれば、元通り、素晴らしい性能と個性を持ったテレビとして使うことができます。このように、本来作られた時の目的とは別の使い方をさせているものが律法であり、このコンセントを差し込んだのが十字架です。
   イエス・キリストは、あなたがどれだけ愛される価値があるかを教えるために十字架にかかってくださったのです。このことがわかると、私達は、律法の要求に対して、抵抗することができます。律法は、あなたには価値がないことを前提にして、律法をクリアして価値を見出すように要求してきます。しかし、イエス様に繋がり、神に愛されていることを知れば知るほど、律法の要求に惑わされる必要がなくなるのです。
   キリストの十字架は、私達を律法の奴隷から解放し、福音を完成してくださいました。これが、自由を得させてくださったということです。
   昔の人々は、自由になるとは、自我に死んで完全に罪を犯さなくなることだと考え、悪いことをしないように、自分の努力で必死に頑張りました。しかし、これは単に、私達の中に「クリスチャンはこうでなくてはいけない」という新しい律法ができただけで、自由になったと言いながら、ますます不自由になっていたのです。そして、このつらさから逃れるため、日曜だけクリスチャンらしくふるまおうとする、二重生活が生まれてしまいました。人々がまったく罪を理解していなかったために、このような生き方が生まれてしまったのです。   
   罪とは「ねばならない」という律法です。この律法が要求しているものは、たった一つ、愛されるものになれということです。この基準をクリアすれば、神に愛され神の国に行けるのだと信じて頑張っていた人間に、そんなものをクリアするしないにかかわらず、神は、「あなたを愛している」と教えてくださったのです。これは私達にとって衝撃的でした。
   人間は、自分の価値は自分で築いていくものだと思っています。自分の価値を上げるために、良い肩書きを築き上げようと一生懸命努力し、お互いに肩書きを見て、価値あるものとないもののレッテルを貼り、価値あるものは報酬を受け価値のないものは報酬を受けない・・・これが、私達が作り上げた社会です。この社会が様々な欲望を駆り立て、人を憎み、敵対する関係を作り上げてしまいました。
   憎しみや怒りを解決し、本来の自分の姿を取り戻す道は、自分がどれほど価値あるものかに気づくしかありません。そのために、イエス・キリストは十字架にかかられたのです。私達は律法をクリアするかしないかに関係なく、素晴らしい価値があります。この事実を認めることが、私達の中から「ねばならない」という律法を取り除きます。律法が取り除かれることによって、神を愛し人を愛せるようになり、神の律法が成就するのです。


・罪の律法を終わらせ神の律法を成就する

『キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:4)

   この「律法」は、人が作った律法のことです。人が作った律法は、義と認められるためには、一定の基準を満たさなければならないと教えます。そのため、良い行いができるようにならなければ、神は受け入れてくれないと考えました。しかし、このような律法主義の考え方をキリストが終わらせたので、人は皆信じるだけで義と認められるようになりました。キリストの十字架によって、私達は、律法の奴隷から解放されました。   

『わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。』(新約聖書 マタイの福音書 5:17)

   キリストは律法を終わらせるためではなく成就するために来た、というこの御言葉は、先ほどのローマ10:4とは、違う意味で「律法」が使われているのだとわかります。この「律法」は神の律法です。同じ言葉が複数の意味で使われるので、聖書を読む時は、気をつけて正しく理解しないと、混乱してしまいます。   
   さて、イエス・キリストは、罪の律法を終わらせて、神の律法を成就するために、この世に来られました。神の律法は、神を愛し、人を愛するものです。私達が自由になると、愛せなかった人が愛せるようになるのです。
   今までは、自分の価値を見出そうとしていたために、人を愛せなかったのですが、自分が愛されていると気づけば、神を愛し、人を愛せるようになるのです。これが、イエス・キリストが教えている、私達にとっての自由です。私達は、本来神を愛し人を愛するように造られているのです。
   このようにして、イエス様は、間違ったテレビの使い方をしていた私達に、正しい使い方を教えてくださいました。私達は、使い方を知らずに間違った価値を見出していたのですが、コンセントを入れれば、ちゃんと本来の素晴らしさがわかるのです。私達がキリストにつながれば、神を愛し、人を愛する本来の素晴らしい姿がわかります。イエス様は、それを私達に取り戻させるために来られたのです。

   私達を苦しめている罪の律法があり、私達が成就すべき神の律法があります。神の律法を成就するためには、罪の律法を捨てなければなりません。しかし、これは自分の力で捨てることはできません。私達が律法を捨てることが出来る方法はただ一つ、神の愛に気づくしかないのです。神にどれだけ愛されているか気づく方法、それは、自分の罪を言い表すことです。私達が自分の罪を言い表すなら、神はその罪を赦してくださり、そうすれば神に愛されていることに気づくことができると、聖書は教えています。
   イエス・キリストの十字架は完了し、その愛はすでに私達に示されています。「罪を言い表せば赦される」とは、「神に心を向ければ十字架の愛が見える」という意味です。口先だけで罪を言い表すのではなく、心を神に向けるからいやされるのです。
   神は、人が罪を言い表すのを聞いてから、赦すか赦さないかを決めているわけではありません。そもそも神は罪を裁くつもりなどないのです。神が裁くのは悪魔です。私達は、罪は裁かれるものだと思っているので、このことがなかなか理解できないのですが、イエス・キリストは、人を裁くためにこの世に来られたのではありません。神にとって人の罪は病気ですから、いやす対象でしかないのです。間違ったテレビの使い方をしている私達を裁こうなどとは考えず、正しい使い方を教えたいと願っておられるだけなのです。
   主は、私達の罪を取り除くために、十字架でまったき愛を示し、あなたがどれだけ素晴らしいものかを表してくださっています。この十字架は、ただ一度で十分であり、ただ一度の十字架ですべて完了しています。だから、動物のいけにえはもういらないと教えているのです。    「罪を言い表せば赦される」とは、「神に心を向ければ十字架の愛が見える」ということです。十字架の愛が見えたら恐れは締め出され、お前は愛されていないのだから、愛されるためにこれをしなければいけないという律法の要求を、全く不要なものだとはねのけることができるようになります。それが、『私たちが自分の罪を言い表すなら、神はその罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださる』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)という意味なのです。

   私達の心から恐れを締め出して罪を取り除くとは、あなたが愛されていることに気づくことです。聖書は、ただこの一点を教えています。私達は、「罪が赦された」とは、「罰」が赦されたのだと勘違いしがちですが、そうではなく、私達が潜在意識の中にずっと抱えてきた「自分は愛されていないのではないか」という恐れが、解決されたということなのです。だから何も心配する必要はないと、神は言っておられるのです。
   私達が、神のこのメッセージを、なかなか正しく理解できないのは、私達が律法に支配されて生きているからです。行いには罰がある、いろんな苦難があっても仕方がない・・・、すぐにそういう間違った発想になってしまいます。しかし、もしそうなら、聖書が「患難を喜べ、試練を感謝せよ」などと教えるはずはないのです。
   聖書で使われる罰というギリシャ語は、私達の発想とはまったく意味が違います。キリストの十字架は神の怒りをなだめるための供え物ではなく、私達が愛されていることを教えるための十字架です。罪を取り除くには、私たちが愛されていることに気づくしかありません。
   私達は勝手に自分の価値を見出そうとして、様々な使い道を見つけ出し、流行りのものを追いかけ、少しでも人から愛されてようとして生きてきました。そのために、お互いを比べ合い、お互いを愛せなくなり、苦しんでいます。キリストは、私達からその苦しみを取り除くために十字架にかかったのです。そして、私達を自由にしたから、もう2度と同じくびきを負って、律法に責め立てられることがないようにしなさいと教えておられるのです。