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2014年2月2日
『罪と律法』
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 4章21〜31節)
『お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。それは私があなたがたといっしょにいるときだけではありません。私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 4:12〜20)


・あなたがたの喜びは、今どこにあるのですか?

   クリスチャンになって3年くらいたった人の悩みの一つに、救われた時の喜びがなくなってしまったと聞くことがあります。時間が経つにつれて、礼拝が義務のようになってしまい、つらく感じるというのです。パウロはその原因を次のように述べています。

『律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 4:21)

   クリスチャンがつらくなる原因は、律法の下に戻ってしまうからです。せっかく律法から解放されたのに、なぜまた律法の下に戻るのか、だったら律法の言うことをきけばいいじゃないかとさえパウロは言っています。しかし、そんな生き方をしても、ますますつらくなるばかりです。ここから抜け出すにはどうすればいいのでしょうか。

『そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今エルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 4:22〜31)

   パウロは、旧約聖書を引用し、そこに隠されている神の福音を、現代の私達に教えています。アブラハムには、自由のない奴隷の子と、自由の子の二人の子どもがいました。パウロは、救われた時の喜びを失ってしまったクリスチャンに、あなたは自由の子として生まれたのに、奴隷の子に戻ってしまったのだと言います。それは、律法の下に戻ってしまったということです。律法の下に戻るとはどういうことでしょうか。


・律法とは何か

   アダムの子カインが弟アベルに激しい怒りを燃やした時、神はカインに対して、罪があなたを恋い慕っているから怒りを治めるようにとおっしゃいました。しかし、カインは怒りを収めることができずに、弟アベルを殺し、世界で最初の殺人者になってしまいました。
   私達は、罪とは悪い行いのことだと考えがちです。しかし、聖書は、すべての悪い行いの原因は怒りだと教えています。怒りがあらゆる悪い行いや妬みを引き起こしているのです。私達はなぜ怒りや敵意を持つのでしょうか。

『ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:15,16)

   敵意すなわち怒りは、律法によって生まれます。律法とは、様々な規定から成り立っている戒めで、あなたの心を拘束している「〜でなければならない」という思いのことです。
   例えば、人の目が気になるというのも、心の中に何らかの「ねばならない」という規定がある証です。子どもが勉強しないと言って親が怒るのも、「勉強しなければならない」という律法を持っているせいです。
   私達は、自分の中の「ねばならない」という律法に反するものと出会った時に、怒りを感じます。ですから、律法が怒りを生み出しているといえるのです。 人は一人一人様々な律法を持っています。容貌に関する律法や、能力・学力に関する律法、行いに関する律法など、その基準は異なりますが、自分の律法に反する人を見ると腹が立ち、さばいてしまいます。その結果、殺意を抱き、殺人にいたることもあるのです。

『律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:15)

   人を憎んだり裁いたりする敵意は、心の中にある「ねばならない」という律法が作り出しているのです。
   私達は、自分の心の中に「ねばならない」という何かしらのルールを持ち、その律法で人を見て、素晴らしいとか、たいしたことないとか、人の価値を判断しています。そして、同じ律法で自分と人と比較して、落ち込んだり嫉妬したりします。また、律法に反する人を見て怒ります。
   私達の心は律法に支配され、律法にがんじがらめにされて、苦しんでいます。聖書はこの状態を、「律法の下にいる」とか「律法ののろいを受けている」と言っているのです。


・なぜ律法が生まれたか

   律法の目的は、心の食事をすることにあります。心の食事とは人との関わりを表し、「ほめられる」という美味しい食事と、「ダメだと否定される」まずい食事の2つのパターンがあります。おいしい食事がもらえなければ、まずい食事でも、ないよりはましです。
   人間の心は、人との関わりを求めており、ほめられるという食事がほしくて、相手の期待に応えようと頑張って生きています。一人一人持っている律法が異なるため、ほめられるためには、その人が持っている律法に合わせなくてはいけません。このように、律法は、心の食事を得るためのツールとして使われています。なぜ心の食事に、律法を使うようになったのでしょうか。
   本来人間は、神によって造られ、神から無条件で心の食事をもらって満たされていました。しかし、悪魔が人を欺いて罪を犯させ、神との関係が壊れたために、人は神から心の食事を受け取ることができなくなってしまいました。神以外のところから、心の食事をせざるを得ない状況に陥った人間は、人との関わりにそれを求めました。
   これが、律法が生まれた背景です。心の食事を得るために、ほめられるための基準を作り、それをクリアすることで、心を満たす生き方をするようになったのです。つまり、律法によって心の食事をするシステムは、私達の心が作り出したものです。神との関係が壊れた中で心を満たすには、人に心を向けるしかなかったのです。
   もし、親が突然姿を見せなくなったら、子どもは、自分は親に愛されていない、愛される価値がなくなったんだと不安になり、恐れを感じます。神との関係が壊れた私達も、このような不安からくる恐れを抱いています。その不安・恐れを取り払うために、「〜ができれば大丈夫」と、お互いに認め合い、ほめ合うことで、自分の価値を確認する新しい基準を持つようになりました。これが律法です。自分は愛される価値がないと思っているから、新しい愛される価値を作ったのです。こうして、心を神に向けない罪が生まれ、新しい価値基準である律法が誕生しました。
   ところが、この新しい価値基準である律法は、自分はだめじゃないことを確認する道具としてだけではなく、律法の基準に合わないものをお互いにさばき合う結果を生み出しました。

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:16)

   「死」とは、「神との関係が壊れること」です。神との関係が壊れると、「自分は愛されていないという不安」を持ちます。これが「とげ」です。つまり、「死のとげ」とは、「神との関係を失って自分は愛される価値がないという思うこと」です。なぜ、これが罪かというと、罪とは「神に心を向けないこと」だからです。神との関係があった時には、心は神に向いていました。しかし、その関係を失って神からの食事を受け取れなくなると、人の心は、食べ物をくれる人のほうに向くようになりました。これが「死のとげは罪」という意味です。
   人は、神との関係を失い、自分はダメだという不安が生まれ、その不安を消すために、自分の価値を人の言葉に求めるようになり、相手の期待に応えてほめてもらうことで心を満たそうとするようになりました。これが、律法が生まれた背景です。
    しかし、この生き方は、自分自身を苦しめる罪の生き方でした。律法は、私達を苦しめ、私達を不自由にして奴隷にしているのです。そこから私たちを救い出すために、キリストがこられたのです。


・十字架で贖われるとは

   人間の律法は、救われるためには良い行いをしなくてはいけないと教えますが、キリスト教は、信じるだけで救われると教えます。それを人が信じる時、律法の支配は破られます。ですから、救われた時には、誰もが自由を得た喜びで、調子が良くなります。
   ところがそれは、救いに関してだけ律法の支配が破られた状態なので、親や社会から言われた「ねばならない」というその他の律法がまだ生きています。そのため、次第にそちらの勢力が強くなって、救いの喜びを飲み込んでしまうのです。そのために、多くのクリスチャンが、せっかく救われたのに、時間とともに聖書の言葉が律法に聞こえてきて、つらくなってしまうのです。
   しかし、それは大きな勘違いです。イエス・キリストの十字架は、律法から贖い出すための十字架だったはずです。
   すべての怒りのもととなり、私達を苦しめている「ねばならない」という律法から私達を贖い出すためには、私達の心が人からの食事をやめ、神から食事をするように変えるしかありません。
   私たちが律法に頼って心の食事をしているのは、自分は愛される価値がないと思っていることが原因です。ですから、人は、自分は愛されているという価値を知らなければ、神からの食事を食べることができないのです。私達が自分自身の本当の価値に気づき、行いに関係なくいのちそのものが素晴らしいものであること、自分は本当に愛されているという価値を知れば、律法は必要なくなるのです。つまり、律法ののろいから解放されるには、私たちがどれだけ愛されているかに気づくしかありません。そのためにキリストは十字架にかかったのです。
   イエス・キリストの十字架は、あなたがどれだけ愛されているかを教えるための十字架です。「あなたのためにいのちさえ惜しまない。私はあなたを愛している」ということを伝えるための十字架です。
   聖書は、「神は愛である」と言い、繰り返し「神はあなたを愛している」と教え、イエス・キリストは、あなたを愛している証として十字架にかかったと語り続けます。なぜでしょうか。
   それは、私達を律法ののろいから解放するのは、私達が愛されていることに気づくしかないからです。あなたがどれだけ価値があって素晴らしいかに気づくしかないからです。そうしない限り、私達は、見えるものにしがみついて、見えるもので心を満たそうとし続けます。しかしその結果、同じ律法で人や自分を見るから、ますますつらくなります。人をさばき、怒り、敵意が生まれます。そして、私達の中から喜びが消え失せてしまうのです。
   この問題を解決するのは、十字架しかありません。イエス・キリストは、十字架にかかり、「私はあなたを愛している」という強烈なメッセージを伝えてくださいました。神の愛はなぜ必要なのか。それは律法ののろいから私達を贖い出すためだったのです。

『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:13)

   イエス・キリストの十字架は、私達を律法ののろいから贖い出すためのものです。そのために十字架にかかり、私達に愛を示されました。律法ののろいから解放するものは、愛しかないからです。
   イエス・キリストの十字架の愛で贖い出されるとは、私達が律法から解放されるということです。自分がどれだけ愛されているのかを知りたければ、自分の罪を言い表してみなさいと聖書は教えます。自分の罪を言い表すその時、神はあなたを無条件で赦してくださいます。これが神の恵みです。
   この世で私達を苦しめている罪の原因は律法です。私達は、その律法から贖い出されたのです。