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2014年1月26日
『相続人になった』
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 4章1〜11節)
『ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 4:1〜3)

   相続人とは、クリスチャンのことです。「相続人となる」「信仰によって義とされる」「永遠のいのちを持つ」などの表現は、すべて救いを意味します。
   人間は神のいのちを頂いて造られたので、神と結びついて初めて生きることができます。ところが、アダムとエバが悪魔に騙されて神との関係が壊れて以来、人は霊的に死んだ状態になりました。救いとは、切り離された枝が元の木に接木されるように、死んでいた私達が神につながって関係を回復することです。
   神との関係が回復し、キリストとつながって、その体の一部になったので、私達は神のものを受け継ぐ相続人になりました。しかし、相続人が幼い時は後見人の管理下に置かれるのと同様に、私達がまだ幼稚な教えの下に生きているうちは神の全財産を受け取ることができません。
   幼稚な教えの下の奴隷とは、この世の中にある様々な行いの規定、すなわち、心の中にある「ねばならない」という暗黙の規定に縛られて生きているということです。私達は知らず知らずのうちに、暗黙の規定で人の価値を判断して生きています。聖書はこれを、律法(人が定めた律法)と呼びます。

『しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 4:4〜7)

   この地上で人として生きると律法の制約を受けます。イエス・キリストは、律法の下にある私達を救い出すために、ご自分も律法の下にある者、つまり人としてこの世に来てくださり、救いを達成し、私達に御霊を与えてくださいました。
   「御霊が与えられる」「神が私たちのうちに住まわれる」「神の子とされる」等の表現も、「救い」を表すものです。神との関係が回復すると、神が私達のいのちと結びつくため、神が私達のうちに住まわれるという言い方をします。また、救われて神の子とされたので、私達は、「アバ父」すなわち「天のお父様」と呼ぶことができるようになったのです。

『しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 4:8〜11)

   イエス・キリストが私達を救い出してくださったので、私達は「ねばならない」という律法の幼稚な教えから解放されました。それなのに、多くのクリスチャンが今までと同じ生き方を続け、仏滅や大安を気にしたり、テレビや雑誌の運勢コーナーに気を取られたり、風水などに影響されて方角を気にしたりしてしまいます。そういうものが幼稚な教えであり、律法です。あなたは神の子となり自由になったのです。その証拠として、あなたの心には御霊がおられ、神を父と呼ぶことができます。それが相続人となったということです。
   パウロは人々が未だに律法の考え方に縛りつけられているのを見て、私のしたことは無駄だったのかと嘆いていますが、イエス・キリストも同様のことを次のように語っています。

『しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:7,8)

   イエス様は、十字架で死んでよみがえり天に帰られましたが、十字架にかかる前、ご自分が弟子達の前からいなくなることは弟子達にとって良いことだと言われました。それは、イエス様が天に帰ることで、助け主である御霊が信じる人々に送られるからです。御霊は、律法の幼稚な教えによって私達が勘違いしている誤りを訂正してくださるのです。それは、罪・義・裁きについての間違った理解です。

1.罪について

『罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:9)

   イエス様は、罪とは行いではなく、神を信じないことだと教えておられます。この世では、罪とは行いの規定に違反することであり、心の中で何を思おうとも罪に問われません。御霊はこの間違いを訂正してくださいます。
   この世の人々は、イエスを信じないことは罪だなどという意識は毛頭ありません。「罪とは行いで判断するものだ」と理解し、罪を犯さないように、悪いことをしないようにと気をつけ、行いの律法にしばられた生き方をしています。その結果、行いに頼る生き方になり、行いでしか救われないという思い込みが生まれるのです。
   しかし、罪とは神を信じないことです。その罪は2種類に分けられます。一つは、イエスを信じないという罪で、メッセージの中では罪Aと呼びます。罪Aを犯すと神の国には入れません。
   もう一つは、神の言葉を信じようとしない罪で、罪Bと呼びます。イエスを信じるとは、その言葉を信じることです。もし神の言葉を信じようとしないのならば、それは罪です。ただし罪Bは、天国に行けるかどうかには関係ありません。天国に入れるかどうかは、あくまでもイエスを信じたかどうかだけが問われます。罪Bは信じた私達についた汚れのようなものです。ただし、いつまでもこの汚れに気づかず放置していると、心を神に向けることができず、正しい理解ができません。
   神の言葉を信じないとは、神の言葉に対してつぶやいたり、不信仰を持ったりすることです。この罪を是正しない限り、いくら行いを是正しても全く意味がありません。内側の罪を取り除くことができれば、外側も自然に変わります。しかし、いくら外側に気をつけても、内側の罪に気づかない限り、内面は全く変わりません。イエス様は、見せかけだけを良くして自分の内面の汚れに気づかないパリサイ人に対して、白い墓のようだと非難なさいました。白い墓は、表面は美しいものですが、その下には腐った肉と骨が朽ちているのです。

2.義について

『また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:10)

   イエス・キリストは、弟子達に対して、「義とは私を見なくなることだ」と言われました。それは、「見えなくなってもイエス様を信頼できること」という意味です。イエス様が目の前からいなくなり、見えなくなることを通して、本当に神を信頼する心が育つのです。
   神が目に見えないのは、神が私達に求めているものが、神を信頼することだからです。目に見えるならば、それは認めるものであり、信じる必要はありません。しかし、目に見えないなら、信じるしかありません。目に見えないことによって、神を信頼する心が育つのです。これが義です。
   この世の律法は義として良い行いを求めますが、それは義ではありません。人々は、良い行いが義だと思っているために、肩書きや行いという見えるもので人の価値や正しさを判断し、行いを比べて自分をダメだと思ったり、人をダメだと言ったりします。しかし、それは律法という幼稚な教えに支配されている状態で、自分自身を苦しめる役割しか果たしません。御霊はこれを修正し、神を信頼することを求めるように教えておられます。
   聖書が教える義にも二つの意味があります。一つは、イエスを信じて救われることであり、もう一つは神を心から信頼できるようになることです。もちろん、この二つはバラバラのものではなく、イエスを信じる信仰の先に、神への信頼が育つわけです。いずれにしても、神にとって人間の正しい生き方とは、私達が神を信頼して生きることです。御霊は、何が正しい生き方か、行いに支配されている私達の誤りを、軌道修正してくださいます。

3.裁きについて

『さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:11)

   この世における裁きとは、悪いことをしたら罰を受けることです。律法は、罰を恐れさせて、人々の心に恐怖心を育て、良い行いを強制します。このような世界に生きているので、私達は、悪いことをしたら神から罰を受けるのではないかと恐れるものです。残念なことに、キリスト教でもそのように教える教会があります。しかし聖書には、そんなことは決して書いてありません。
   神の裁きは人に対してではなく、この世を支配する悪魔に対してのものです。神が人の行いを裁くことはありません。聖書が行いに対する報いと言っているのは、「神を信頼する」という行いに対してなのです。神が私達に求める行いは、ただ神を信頼することだけです。『たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:3)とある通り、いくら良い行いを積んでも、そこに愛がなければ何の意味もないと聖書は教えます。そして、聖書が教える愛とは、神への信頼なのです。

   愛とは関わりを表す言葉です。この世の関わりは見返りを求めますが、神は見返りを求めません。相手が罵っても裏切っても変わらない、これが神の愛です。律法に生きている人間には、このような愛の概念はありませんでした。そこで、イエス様はアガペーという言葉を使い、愛について新しい概念を教えてくださいました。愛すなわち神への信頼だけが、永遠に残ります。神を信頼すればするほど、平安を得られます。それが報いです。
   私たちは神のいのちを頂き、神と関わって生きるように造られたので、その関わりが絶たれると死んでしまいます。折られた枝がやがて枯れてしまうように、神から切り離された私達のいのちも確実に死にます。この世は、自分達は生きていると思っているのですが、神の目から見るとすでに死んでいます。死んだ者に、裁きは必要ありません。ですから、神が人を裁くということは論理的にもありえないことです。死んでいる私達にとっての希望は、救いしかないのです。

『神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:17,18)

   イエス様がこの世に来た目的は、世を裁くためではなく、救うためであると、はっきり語られています。「救い」はギリシャ語で「いやし」という意味があり、十字架で罪が赦されたとは、罪がいやされたということです。神との関係が壊れて病気で苦しんでいる人々をいやすためにイエス様は来られたのです。このイエス様が、行いで人を裁くことなどありえません。私達はすでに裁かれ、死んでいるのです。死んだ者を裁く必要はありません。
   神が裁くのは、人間ではなく悪魔です。イエス・キリストの十字架は、悪魔に対しての十字架です。私達の行いがどんなに悪くても、神はそれを裁こうとは考えず、その根本的な原因である罪を取り除いていやしたいと考えるのです。
   罪によってつらいのは私達です。神はあなたのつらさを取り除く方であり、つらさを与える方ではありません。試練も神が与えるものではなく、あなたが出会うつらさや災いですら、神はすべてを益に変えてくださるということなのです。
   ですから私達は、ただ神を信頼して祈り、ゆだねれば良いのです。このように、間違った律法の理解のもとで、福音を誤って理解する生き方をやめることができるように、御霊は誤りを訂正してくださいます。こうして、私達に自由を得させようとしておられるのです。
   イエス様は私達を自由にするために、この世に来られ、恐れを取り除くために十字架にかかったのです。律法の考え方によって行いで人を判断することなく、神を信頼していきましょう。イエス・キリストが、あなたを救うために差し伸べておられるその手を掴み、救いを受け取りましょう。