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2014年1月5日
『信仰に生きるとは』
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:4〜)
『あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。しかし律法は、「信仰による」のではありません。「律法を行う者はこの律法によって生きる」のです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:4〜12)

   神は、アブラハムを通してイスラエルに祝福を約束されました。ユダヤ人は、その祝福とは、自分達の行いが神に認められれば、神が国家を再建し栄光を取り戻してくださることだと思っていました。しかしパウロは、神を信じる人こそが神が約束したアブラハムの子孫であり、神の約束はすでに現実に起きていると言って、その考え方を否定しました。
   人は、自分の環境にどんな変化が起きるのか、出来事の中に神の祝福があると考えがちです。しかし、神の祝福は、神を信じられるところにあるのです。義人は信仰によって生きます。私達が救われたのは、行いによってではありません。あなたは信仰によって救われたにも関わらず、なぜ古い生き方を続けているのかと、パウロは問いかけます。

   世の中には、二つの生き方があります。信仰による生き方と律法による生き方です。
   律法による生き方は、行いを基準にします。「こんなことができるなんてすごい。」「こんなこともできないなんてだめだ・・・。」と、行いで人の価値を判断し、罪を判断します。また、律法に生きる人は、行いの達成を目標にします。達成感を心の拠り所として頑張って生きているのです。これが、この世界では当たり前の生き方です。
   このような生き方をしてきた私達は、神もそれを望んでいると勘違いしてしまいます。しかしイエス様は、献金や奉仕がこんなにできるようになったと感謝するパリサイ人ではなく、あわれみを求めた取税人を義とされました。神は行いを基準にはしないのです。

   信仰によって生きる人の第一の特徴は、行いで罪を判断しないということです。信仰が基準ですから、罪とは不信仰のことだと考えます。信仰さえあれば行いはどうでもいいのかという反論がありましたが、不信仰と戦うようになると行いも変わるものだと、パウロは言います。
   悪い行いの根底には、自分が愛されていないという不安があります。不安なので、どうすれば愛されるか、人の関心を買う行動をとるようになり、ものや人にしがみつき、富を欲するのです。それが争いや嫉妬のもととなり、悪い行いへと発展するのです。
   これが死の恐怖から生まれた不安です。人と神の関係は、罪によって壊れました。これが聖書が教える死です。神との関係が壊れたことで、私達は愛されていないという不安を持つようになりました。
   そのため、私達の心は、常に愛を求めています。聖書はこれを不信仰と言っています。なぜなら、神は私達を愛していると言っておられるのに、それで安心できないというのは、神の言葉を信じられないということだからです。
   不信仰との戦いは、神に愛されていることを信じる戦いです。そして、心が神に向けば、当然行いも変わります。その根本を解決しないで、いくら行いを良くしようと戦っても、何の意味もありません。
   信仰で生きる人は、不信仰を罪と感じます。もちろん悪い行いも罪だと感じますが、戦うのは、行いの動機となる不信仰です。
   信仰によって生きる人の第二の特徴は、行いで人を見ませんから、人の価値をうわべで判断しない、つまり、人を裁かないということです。
   そして、第三の特徴は、信仰によって生きる人が目指すところは、神への信頼だということです。律法に生きる人は行いを目標にしますが、信仰に生きる人は神への信頼を目標にします。

   あなたの人生の目標は何でしょうか?もし、人から褒められることが目標なら、律法に生きています。神に近づくことが目標なら、信仰に生きています。
   信仰とは、神から与えられた賜物です。そして、信仰には二つの働きがあります。
   一つは、神を信じることができるという働きです。
   二つ目は、神を知るだけではなく、その方を信頼できるようになる働きです。
   ところが、私達は、律法に生きることによって、その信仰の働きを止めてしまっています。多くの人が、神を知ってからも、昔と同じように、行いに心を向け、何ができるかできないか、行いの達成を目標にして生きています。行いが達成できればできるほど、この世界では評価されるからです。しかし、信仰によって生きるとは、与えられた信仰を使って神への信頼を増し加え、神に近づいていくことです。私達が目指すべき目標は、神に向かって生きることです。あなたの心は今どちらを向いて生きているでしょうか。信仰に生きるとはどのような生き方か、具体的に考えてみましょう。


・信仰による生き方とは

1.試練をチャンスだと考える

   律法に生きる人は、試練を罰だと考えます。見える行いを目標とするので、悪いことが起きるのは、罰だと思ってしまうのです。
   しかし、神は罰を与える方ではありません。主がこの地上に来られたのは、裁くためではなく救うためです。私たちが正しい行いができないのは、罪という病気が原因です。病気になり、体の自由がきかない人に、なぜ取れないのかと裁いたりするでしょうか。むしろ代わりに取ってあげるのではないでしょうか。
   ですから、つらい出来事に出会うとき、それを神の罰やわざわいだと考えてはいけません。信仰に生きる人の目標は信仰です。ですから、信仰に生きる人にとって、試練は信仰が育つチャンスです。

『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1:2,3)


2.恐れと戦う

   不信仰の土台は恐れです。恐れは、私達の根本にある、愛されていない不安から生まれます。信仰に生きる人は、自分の中の恐れ・不安と、神の言葉で戦います。
   罪とは、死のとげ(Tコリント15:56)であり、それは死の恐怖です。これは、神との分離による自分は愛されていないという種類の恐れです。本来、私達のいのちは、神の命との関わりの中で生きるように造られました。羊は牧者を知っているとあるように(ヨハネ10章)、私達のいのちはそれを知っています。ですから、他の物では満足できず、見えるもので喜びを手に入れても結局虚しさを繰り返します。
   目に見えない神がわからず、愛されていないと思っていた私達ですが、イエス・キリストが現れて、自分が牧者であることを示してくださり、いのちは平安を得ました。ところが、古い生き方がこの平安を邪魔します。これが罪です。この罪を支えているのが、自分は愛されていないという不安です。これを取り除かなければ、私達の心は自由になりません。
   愛されていないという不安・恐れが、心が神に向かない、神の言葉を信じられないという不信仰を生み出します。この不安・恐れそのものが不信仰という罪です。信仰に生きるとは、この思いと戦うことです。愛されていないという恐れを取り除くには、愛されている経験を積むしかありません。

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:10)

   私達を苦しめてきた恐れを取り除くことができるのは、全き愛だけです。全き愛とは、イエス・キリストの十字架です。
   あなたがどれほど愛されているかを教えるためにイエス様はこの地上に来られ、私達の罪を取り除くために十字架にかかりました。イエス様は、「友のために命を捨てる以上に大きな愛はない、このような愛は誰も持っていない」つまり「私が十字架にかかり、あなたをどれだけに愛しているかを見せよう。」と言われました。イエス様は、愛されていない恐れ・不安という罪を取り除くために、十字架にかかったのです。この全き愛がわかれば、私達の心から恐れが締め出されます。

   ところで、「なだめの供え物」という訳ですが、新改訳以外の聖書では、「あがない」と訳されています。「なだめる」というと、怒りを鎮めるというニュアンスがあり、神の怒りをイエス・キリストの十字架で収めたという誤解を生じてしまいます。しかし、神は私達を怒っておられるわけではありません。
   イエスの十字架は誰のためかという昔からの議論に対して、古典的解釈では、アダムとエバが犯した罪を神は怒り、罰として人間との関係を断ち切ったが、イエスがその罰を代わりに受けて赦してくださったとされてきました。
   しかし、そうすると、父なる神と子なるキリストとの思いは分かれていることになり、三位一体を否定してしまいます。
   父なる神は怒り、子はそれをなだめるなどということはあり得ません。もし、父が怒るならば、イエス・キリストも同様にお怒りになります。
   しかも、神との関係を失ったことで私達は見えるものにしがみつくという罪を犯すようになったわけですから、神が罪を作ったことになってしまいます。自分で罪を作り、罪と戦い、罰を受けるという、すべてが神の一人芝居になってしまい、福音が成立しません。
   では、一体どういうことでしょうか。なだめの供え物すなわちあがないが必要だった理由は二つあります。
   アダムとエバを欺き、私達に死をもたらしたのは、悪魔です。聖書は、死の力を持つ者は悪魔であるとはっきり語っています(ヘブル2:15)。ですから、私達を死から贖うためには、悪魔を滅ぼさなければなりません。
   悪魔は初めから悪魔として、神に敵対し邪魔するものとして存在していました。神が悪魔を造ったのではなく、悪魔の存在を許したわけでもありません。悪魔は、私達が想像する以上に手ごわい存在であり、神は戦っておられたのです。
   神は悪魔からアダムとエバを守るため、間違ったものを食べるなと注意を与えましたが、悪魔は巧みにふたりを騙しました。そこで神は、悪魔を必ず滅ぼすと約束したのです。蛇に騙された二人に、「彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」と神が言われたのは、十字架のことです。神は、ご自分のいのちと刺し違える覚悟で悪魔を滅ぼすことを約束されました。これが第一の十字架の奥義です。
   十字架の奥義の第二は、神は、この十字架でどれだけ私達を愛しておられるか、全き愛を示しておられるということです。なだめの供え物とは、この全き愛がわかれば、あなたの中から恐れが締め出されるという意味です。
   死は私達に恐れをもたらし、不安をもたらしました。なだめの供え物とは、神の怒りを鎮めるものではなく、あなた自身の不安を消すためのものなのです。イエス・キリストの十字架は、全き愛を示すため、私達のための十字架です。愛されていないと言って恐れを抱く私達の罪が要求した十字架なのです。
   悪魔を滅ぼすとは、主権を奪って捕虜にしたという意味です。悪魔は終わりの時に処刑されるのを待つ状態にあります。アダムとエバの時は、神との関係を悪魔に壊されてしまいました。しかし、悪魔はもう二度と救われた者を神から引き離すことはできません。それは、神が悪魔を完全に滅ぼし、その主権を奪ったからです。
   イエス様は、私達を救うために、十字架でご自分のいのちを差し出しました。悪魔は滅ぼすと同時にイエス様も死に、一見相打ちのように見えましたが、三日目にイエス様だけが復活し、勝利されたのです。
   大切なことは、神が勝利したという事実です。悪魔がどこから来たのかなどについて、聖書が詳しく教えていないのは、私達がそれを知る必要がないからです。私達が知らなければならないことは、神はあなたを助けるためにご自分のいのちを捧げてくださったという事実です。なぜそのようなことをなさったのか。それは、あなたを愛しているからです。これがわかれば、恐れが締め出されます。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

   神の愛を知り、自分のものにするために、あなたがすることは自分の罪を神に告白して祈ることです。神はあなたがどのような状況でも愛していると言い、何も裁くことなく、すべて赦してくださいます。
   自分で罪かなと思うことを、どんなことでも告白して祈ってみましょう。罪を言い表すと、十字架の癒しを体験し、全き愛を体験します。「すべての悪」すなわち恐れから解放され、愛されていることを知り、告白すればするほど平安になります。イエス様の十字架は私のため、愛されてないと思っていた私に愛を教えるために十字架が必要だったのだと理解できれば幸いです。

3.怒りと戦う生き方

   信仰に生きる生き方の第三は、怒りと戦う生き方です。怒りは、心が神ではなく見えるものに向いているときしか起きません。行いに目が向き、人を行いで判断するから、怒りがわきます。
   信仰で生きようとする生き方を、真逆の方向に引っ張るものもが怒りです。信仰によって生きるつもりなら、怒らないように、裁く心と戦う覚悟が必要です。そうしないと、心が見えるものに縛られ、神に向いていきません。

   罪に気づいたら素直に言い表しましょう。そうすることで、心が神に向けられ、信仰が育ちます。これが、私たちが目指す生き方です。
   信仰によって救われたのですから、これまでの律法による生き方はやめて、信仰のまま生きていきなさいとガラテヤ書は教えています。