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2013年12月29日
『信じるだけで救われる理由』
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3章1〜5節)
『ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:1〜5)

   私達は神によって造られましたが、生まれながらにして神との関係がない状態で生まれて来ました。聖書は、このことを「死」と言っています。生まれながらに死を背負っているので、肉体が滅びるとそのまま永遠に死んだ状態になるのです。救いとは、この死んだ状態から生きた状態になること、すなわち永遠のいのちを持つ状態になることです。その結果、この地上で肉体が滅びても、天国で永遠に生きることができるようになります。
   この生まれながらにして死んだ状態は、どのようにして生まれたのでしょうか。このことを正しく理解することが、信仰による救いを理解するために大変重要です。
   多くの人が、アダムとエバが罪を犯したために、神は罰として、神との関係を断ち切ったのだと勘違いしていますが、そうではありません。
   罰とは、悪いことをしたら与えられるもので、その目的は、反省して悪いことをしなくなるためです。だから、この世の考え方では、罰を赦してもらうためには良い行いに変わることが必要だという発想になるのです。しかし聖書は、人は行いによってではなく、信仰によって救われると教えています。
   では、死が罪の罰でないなら何なのでしょうか。

『罪から来る報酬は死です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:23)

   聖書は、死は罪の報酬であると教えています。報酬とは行いに対してあらかじめ定められた対価です。そして、罰の場合は報酬ではなく報いという言葉が使われます。報いとは行いの結果はね返ってくるものという意味です。例えば、手伝いをしたら1000円あげようと言われて1000円をもらった場合は「報酬」で、何も約束していなかったのに手伝いをして1000円もらった場合は「報い」です。このように、死は罪の報酬であり報いではないことが非常に重要です。
   報酬ということは、自動ドアの前に立ったら自動的にドアが開くように、罪を犯したら自動的に死が発生することになっていたということです。つまり、食べたら必ず死ぬと神に言われた実を食べたので、死ぬものとなったのです。

   なぜこれが重要かというと、私達が今日苦しんでいる状況は、神が与えた状況なのか、そうでないのか、という問題があるからです。もし、死は神が与えた罰ならば、私達が苦しむのは神の意思ということになります。しかし、神は私達を苦しみから救うために、この地上に来られました。それは、死が神の意思によって与えられた罰ではないからです。
   死は、ちょうどアダムとエバが犯した間違いによる借金のようなものです。そして、これは私達自身のいのちの借金でもあります。なぜなら私達のいのちは、アダムとエバのいのちを分けたものだからです。
   アダムとエバは、神が食べてはいけないと言った実を食べました。それは、食べても大丈夫だと信じたからです。二人は、神は本当はその実を食べて欲しいかのように言う蛇の言葉に騙されてしまいました。こうして、御心ではないことを御心だと信じた結果、一体何が起きたでしょうか。
   人間は神に似せて造られました。三位一体の神は、完全に同じ思いで生き、互いに信頼し合う関係の神です。人もこの信頼関係の中でしか生きられないように造られたのです。もしこの中に御心に反する思いがあったら、この関係は壊れてしまいます。悪魔はそれを知っていたので、蛇を使って人を騙し、アダムとエバは御心ではないことを信じたために、その時点で神との信頼関係は壊れてしまったのです。
   完全なる信頼関係の中に不純物が入ったために関係が壊れてしまったことが死であり、罪からくる報酬という言葉が意味するものです。この壊れたいのちを、私達は受け継いでいるのです。
   今日私達が死に閉じ込められている状況は、神が与えた罰ではなく、アダムとエバが悪魔によって欺かれて罪を犯したために発生した負債、すなわち借金です。もっとわかりやすい表現を使うと、食べてはいけないものを誤って食べたために、病気になってしまった状態です。 この様子を聖書の記述から確認してみましょう。

『しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。』(旧約聖書 創世記 3:3〜6)

   蛇の言葉を聞いたアダムとエバは、神が食べてはならないと言った木を好ましく思うようになりました。この時点で悪魔の言葉を信じ、神との関係が壊れています。

『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた、それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」』(旧約聖書 創世記 3:7〜10)

   神との関係が壊れ、霊的な神とのつながりが見えなくなった時、人は肉なる自分の姿しか見えなくなりました。今まで肉なる姿は神とのつながりで覆い隠されており、気にならなかったのです。さらに今まで喜んで交わりをしていた神を、恐れて避けるようになりました。これが 神との関係が壊れた様子です。

『すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」』(旧約聖書 創世記 3:11)

   この言葉によって、神との関係が断ち切られたのは、神の意思によってもたらされたがものではないことがわかります。死は、御心ではない悪魔の言葉を信じたために、自動的に支払われた報酬なのです。
   そこで神は、神との関係が壊れたら、これから何が起きるのかという説明をなさいます。この世界は人のために造られたのですが、神との関係が壊れた今、人の体は保護を失い、滅びる体になりました。地上も人間を支えるためのものではなく、敵対するものになってしまいました。本来全て良きものであったのに、これからはいろいろなものが私達を苦しめるものになるというのです。
   そして、その説明が終わったあと、神は人に服を着せてくださいました。

『神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。』(旧約聖書 創世記 3:21)

   これは十字架の贖いを示しています。
   人々は、自然災害や様々な試練に会う時、なぜ神は私達を苦しめるのかと嘆きます。しかし、それは神が与えたものではなく、悪魔によって欺かれて神との関係を壊してしまった私達の借金なのです。この借金をなんとかできるのは神しかいません。神が皮の衣を着せてくださったのは、「心配いらない、私が必ず助けるから」というメッセージなのです。

『神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』(旧約聖書 創世記 3:22〜24)

   人は、神との関係が壊れたために、見えるものに価値を見出し、見えるものでしか安心を得られなくなりました。これが善悪を知るようになったということです。今までは御心を選択するという善なる思いしかなかったのに、これからは御心に反する思いも入ってくるということです。
   そして神は、人がこの価値観に従って、永遠のいのちを取り戻そうとしないように、人をエデンの園から追放しました。永遠のいのちを失ったのは自分のせいなのだから、自分の力でなんとかしなければいけないと考える人間に対して、これは人の行いで解決できる問題ではないと教えるためです。アダムとエバは、自分の力では永遠のいのちを取り戻せないと、あきらめるしかありませんでした。では、どうすればいいのか。着物を作って着せてくださった神の愛にすがるしかありません。そのことをわからせるために、神は二人をエデンの園から追放したのです。
   ここに神は、信じるだけで救われるという福音を示しておられます。行いでは救われない、このことが理解できないと、神の福音が別物になってしまいます。多くの方がここを誤解して、神は人間に対して怒り、罰として死を与えたと考えています。しかし、もしそうなら、神は服を作って着せてくれたりしません。神が二人を追放した目的は、自分達の努力でいのちを取り戻せるなどと考えて欲しくないからです。死という状況は、私達の努力ではどうすることもできません。ただ神の恵みにすがるしかないものです。神はこの時点でそれを明確にしておられます。
   人は、罪によって永遠のいのちを失い、神との関係がない状態で生まれ生きています。生まれながらに死という借金を背負っています。この借金を取り除かない限り救われません。誰がこの借金を支払うことができるのでしょうか。
   死の対義語はいのちです。ところが私達は支払うべきいのちを持っていません。借金を返したくても払うお金を持っていないのです。永遠のいのちを持っていない私達は、どんなに頑張って努力して借金を支払うことができないのです。
   人が行いで救われないのは、死が神の罰ではないからです。罰ならば行いで支払うことができます。罰の目的は行いの是正だからです。むしろ行いでしか救われないことになります。神の前に反省して行いを悔い改めたことを見せ、神からOKのはんこをもらえば、赦されて救われることになります。
   信じるだけで救われるのは、死は罰ではなく借金だからです。私達には支払うことのできない借金だから何もしなくていいと、神は人間を追放なさいました。死とは私達にはどうすることもできない状況であり、この状況を解決できるのは神だけです。そこで神はこの地上に来られ、死という負債をご自分のいのちをもって支払ってくださいました。こうして私達の罪の負債を帳消しにしてくださったのが十字架です。

『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:14)

   イエス・キリストが十字架で支払ったのは私たちの債務証書です。過去から未来における負債をすべて支払い、あなたの借金はもう赦されているのだから、信じて受け取りなさいと主は言われます。それが十字架の贖いを信じるということです。イエス・キリストが私のために十字架にかかって下さり、よみがえってくださったことを信じるとは、自分の罪の負債が帳消しになったことを信じることです。
   なぜ人は行いで救われないのか、それはこの状況は神の罰ではないため、行いで支払える種類のものではないからです。誰かが借金を支払わなくてはいけないから、神は「わたしが支払う、わたしが助けるから待っていなさい」と、創世記で言われたのです。
   創世記には、この後の記述はありませんが、アダムとエバの子ども達が神を礼拝していることから、彼らは救われていると読み取れます。旧約から一貫して、人の救いは信仰にあるのです。信仰によって救われるしか道はありません。
   イエス様は、『わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:47)と言われました。
   これが神の福音です。行いが良くならなければ天国に行けないのではありません。すでに神が借金を支払ってくださっているので、誰でも信じさえすれば救われるのです。