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2013年12月22日
クリスマス礼拝より『幸せって何?』

   皆さんにとって幸せとはなんでしょうか。今、世界中でクリスマスが祝われるのは、人々がそこに何らかの幸せを見出したからです。それは、どのような幸せなのでしょうか。
   人間が共通して幸せを感じるのは、愛されていると実感する時です。人々は、イエス・キリストの誕生を通して、自分が愛されていることを実感し、幸せを感じたのです。そして、この人々がさらに他の人にもこの幸せを届けたいと願い、世界中にクリスマスが広まりました。自分は愛されていると知り、あなたは愛されていると伝えたい、そのためにプレゼントを贈る習慣が生まれました。
   イエス・キリストは、あなたは愛されているということを、どのように教えてくれたのでしょうか。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(新約聖書 ヨハネ第一の手紙 4:9,10)

1.罪を赦す

   自分の罪が赦される時、私達は愛されていることを体験できます。この社会は、罪を犯したら赦してはくれません。罪を犯した人を責め、裁き、責任を取るように求めます。これは、昔も今も変わらず、イエス様がいた時代も同じでした。そのため、人は自分の罪を隠して生きています。自分の悪事を隠し、バレたらどうしようとビクビクして生きているのです。
   ところが、イエス・キリストは、罪を赦しなさいと教えました。裁いてはいけない、赦しなさいと語るキリストの教えは、衝撃的なものでした。人は初めて「罪は赦されるものだ」と聞いたのです。

   ある時、イエス様が人々を教えている所に、姦淫の現場で捕えられた女性が連れてこられました。律法学者たちが、こんな汚い女は律法の通り石を投げて打ち殺すべきではないかとイエス様に尋ねたところ、イエス様は、「この中で罪を犯したことのない人が、この女に最初に石を投げなさい。」と言われました。それを聞いて、人々はその場から静かに去り始めました。誰もいなくなった時、イエス様はその女性を、「あなたの罪は赦された」と励まし、帰してやりました。イエス様は、裁くのではなく赦す方です。イエス様は、「私はさばくために来たのではない」とはっきり言われました。
   聖書は罪を借金にたとえています。借金は、誰かが払わないと許されません。イエス様はその借金をすべて肩代わりし、あなたの罪を問うことをしません。だから、あなたも人の罪を問うのはやめなさいと言われました。
   互いに裁き、互いに赦さない社会の中で、イエス様は全く逆のことを教えました。イエス様は、あなたを何も責めないで赦すと言っておられます。あなたの罪を肩代わりして十字架に架かってくださいました。そこまでされて、自分は本当に愛されていると思わないでしょうか。この教えを聞いた時、人々は自分がどれほど愛されているかを実感したのです。
   人々がキリストに愛されていると実感する一つの大きな理由は、キリストが無条件で私達を赦してくださったことにあります。

2.私たちに対して良き者として接してくださった

   すべての人は例外なく、自分はダメな者というセルフイメージを持っています。そのため、互いにダメな者だという接し方をしていました。自分がもっと良くなったら愛される、あなたがもっと良くなったら愛してあげると、互いにもっと良くならなければ・・・、と考えています。
   イエス様は、そんな私達に、あなたは良き者であり、愛される者だと接してくださいました。あなたがどんな人間であろうとも、私には良い者としか映らないと言われます。だから、良い者として接されるのです。

   イエス様がある村に入った時、一人の金貸しが木に登ってイエス様を一目見ようとしているのをご覧になりました。この金貸しはザアカイと言い、暴利を貪り、人々から嫌われ、本人もどうせ嫌われるのだから人から何と言われようと金さえあればいいと思っているような人でした。イエス様はこのザアカイに近づくと、「今日、私はあなたの家に泊まることにした」と言われたのです。人の家に泊まるとは、「いのち」を預けるということであり、信頼し、親しい交わりをしたいということです。ザアカイはそれを聞いて驚き、幸せだと思いました。そして、食事の席で自分の悪事を告白し、これからは心を改めて生きると人生の転機を迎えたのです。
   イエス様はただの一度もザアカイを責めたりせず、良き者として接されました。良き者としてありのまま受け入れられるということは、どれほどの幸せを感じるものでしょうか。

   イエス様はただ人を励ますために良き者として接したわけではありません。その理由が聖書にはちゃんと書いてあります。それは、私達は神の作品であって良き者として造られているということです。私達の体は物質から造られましたが、その中に神の「いのち」で造られた魂を持っています。私達は、神の「いのち」を持つ者、すなわち良き者として最初から造られているのです。
   ところが、悪魔がアダムとエバを騙して人間と神との関係を壊したことによって、人類に死が入り込みました。そのために、人は罪を犯すようになってしまったのです。
   聖書でいう罪とは、心を神に向けないことです。神との関係が壊れたことで、人は死ぬものとなりました。人は皆死を恐れ、見えるものにしがみついて、見えるもので安心しようとして生きています。なんとか死なずに少しでも長く生きたいとお金で安心しようとしたり、人から良く思われようと頑張ったりするのは、死の恐怖が私達の心を見えるものに向けさせ、見えるものを貪るという罪を犯させているからです。ザアカイの心の根底にあったのは恐怖です。

   今日私たちが自分はダメだという行いをしてしまうのは、死の恐怖が入り込んだからです。これは、死という病原菌が私たちの中に入ったためであり、病気と同じです。ですから、死を滅ぼして、罪という病気から救い出すというのが聖書の福音です。
   もし自分の子が病気になり、本来の姿ではなくなったら、親は我が子を見てダメな奴になったと思うでしょうか。そうではなく、助ける方法があるなら、なんとしてでも助けたいと思って、自分を犠牲にしてでも助けようとするのではないでしょうか。
   私達は神の子であり、罪という病気にかかっています。そこで神は、自らを犠牲にし、助ける道を用意されました。神は、私達をずっと変わらずに良き者だと思って接しておられます。

   私達は自分の中に善き人がいることをあまり理解していませんが、身も知らぬ人を助けるために、自分を犠牲にする人は大勢います。こうした行動を愛他行動と呼びますが、先の大震災でも、多くの人が、他の人を助けようとして命を落としていらっしゃいます。普段は人を憎んで裁く生き方をしている人でも、危険な状況に陥っている人を助けずにいられないのです。人間は普段そこまで人を愛することをしませんが、普段は、そのような自分がいても、罪という病気に覆われて隠れてしまっているのです。
   罪が赦されるとは癒されることであると聖書にあります。神の目には、私達には皆良き者として映りますから、良き者として接してくださるのです。

3.イエス・キリストは共に生きてくださる

   子どもの頃、自分が辛い時にお父さん、お母さんが話を聞いてくれないと言って、自分はなんと不幸かと思った経験はないでしょうか。つらさとは、周りに誰もいないと倍増するものです。誰かがいつも隣にいて、励ましてくれたら、なんと幸せでしょうか。イエス様とはそういう方です。
   イエス様は、弟子達と24時間共にいて慰め励まして生きてくださいました。復活され天に帰られる時も、私が天に戻るのは、あなたがたに助け主の神を送り、その神が共に住み、いつも主と共にいられるようにするためだと言われました。私たちが愛する神イエス様はいつも共にいてくださいます。今もそのことを実感でき、私はひとりじゃないと感じることができます。
   自分にはどうすることもできない問題にぶつかった時、私達は祈ることができます。祈れるということはなんと幸せなことでしょうか。問題にぶつかった時、頼れる方がいるのはなんと幸せか実感します。

   世界に影響を与えたアブラハムリンカーンは敬虔なクリスチャンでした。リンカーンが生きていた当時は、世界中どこの国にも身分制度は存在し、人は差別されるのが当たり前の時代でした。しかし彼は、神は人を差別して造っておらず私達は皆平等だと立ち上がりました。これに対して猛反発が起こり、ついに戦争になりました。南北戦争です。
   この戦争のさなか、このようなエピソードが残っています。
   ある時、当時の有名俳優ジェームズマードックがホワイトハウスに招待され、客間に泊まっていたところ、夜中に突然大きな叫び声が聞こえました。何事かと思って、その声が聞こえる方に行き、そっとドアを開けてみたところ、リンカーンがひざまずき、「神よ。どうか最後まで神と共に歩めるようにお守りください。勇気を失わないように助けてください。」と叫びながら、床を叩いて祈っていたというのです。その姿を見たジェームズは、彼についていこうと決心しました。
   リンカーンはホワイトハウスでよく祈る人でした。彼は、自分がここまで来ることができたのは、いつも共にいて自分を励ましてくださる方がいたから、と言っていました。それがイエス・キリストです。私といつも共にいて励ましてくださるイエス・キリストがいたからこそ、私はここまで来れたし、これからも神と共に生きていく、それがリンカーンの生き方でした。
   リンカーンには、自分の信仰の10箇条として、いつも自分に言い聞かせていた言葉がありました。そのいくつかご紹介しましょう。

      私は礼拝生活に力を注ぎます。
      私は聖書を読み実践します。
      私は助けてくださる神に祈り、日々謙遜に生きます。
      私は私の思いではなく神の御心に従います。
      私は弱いけれど神の助けにより頼みます。

   どんなに自分は強い人間だと思っても、いずれ死が訪れます。いずれ何かに頼らなくてはいけなくなる時が来ます。今自分がどんなに幸せに見えても、問題にぶつかった時、あなたはいったい何に頼るのでしょうか。リンカーンは、「私は弱い、だから神が必要だ。」と言い、「神を必要とするから幸せになれる。」と悟りました。
   「共に生きてくれる神がいる。」「私達は弱い。」それはなんと幸せなことでしょうか。キリストはそういう愛を私達に示してくださいました。
   その幸せをひとりでも多くの人に伝えたい――それがクリスマスの始まりです。