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2013年12月21日
『ガラテヤ2章』
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2章)
   今年の流行語大賞に、「今でしょ」が選ばれました。クリスチャンにも、「今でしょ」と言える大切なことがあります。それは、神の恵みです。神の恵みは、明日でも未来でもなく、今、私達の中に現れているのです。

『それから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした。しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:1〜5)

   パウロが異邦人伝道からエルサレムに戻ってきた時、ギリシャ人テトスも一緒にいました。
   当時、伝統的ユダヤ人は非常に厳格な行いの規範(今日のユダヤ教)を持っており、この律法を守られなければ、神の恵みを受けることはできないと考えていました。割礼とは儀式のひとつで、行いを象徴するものです。
   神は無条件で私達を愛しておられるにもかかわらず、人は、神と人との間に、行いという律法を持ち込み、良い行いをしなければ神に愛してもらえないと考えてしまいました。
   奴隷に引き落とそうとしたとは、身分制度上の奴隷ではなく、このような「ねばならない」という律法に仕える生き方に引き戻そうとしたということです。にせ兄弟達は、パウロ達がイエス・キリストにあって得た自由を奪い取ろうとしました。しかし、このことに対して、パウロ達は一時も譲歩しませんでした。
   私達は今、何に仕えて生きているでしょうか。もし、人の目を気にして、どうすれば人に褒められるか愛されるかを気にして生きているならば、奴隷と同じです。あるいは、お金が関心の中心となり、どうすれば富を手に入れられるかにばかり気を取られているなら、奴隷と同じです。
   神の福音は、私達を奴隷から解放して自由にします。それは、無条件で愛される体験と、人の目を気にしないで生きられる人生が与えられることです。富や見えるものに縛られることなく、ただ神を信頼すればよい、それがキリスト者の自由です。神はこの自由をもたらすために、この世に来られたのです。

『そして、おもだった者と見られていた人たちからは、―彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません―そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。ペテロのみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:6〜14)


   パウロは、人の目を恐れず、権威を持った人でも分け隔てなく福音を伝え、その異邦人伝道の働きは、使徒達からも認められました。ところが、使徒であるペテロ(ケパ)達は、伝統的ユダヤ教徒達に良く思われようとして、彼らに合わせて行動したため、パウロは非常に憤って注意をしたと書かれています。
   私達も、人の顔色を伺って自分の意見を変えたり、気に入られるために人に合わせたりしないでしょうか。実は、ここに罪の本質が隠れているのです。
   一般的に罪というと、盗み、嘘、姦淫などを思い浮かべますが、聖書は罪とはもっと本質的なものであると教えます。それは、神の言葉を食べずに人の言葉を食べて生きていくことです。
   人の言葉で心を満たそうとすると、すべての人から気に入られるために、どこかで嘘を言ったり、ごまかしたりしなくてはいけません。そのようなプレッシャーがストレスになり、それを発散するために快楽に走ることが、一般的に罪だと思われている肉の行いにつながります。
   つまり、肉の行いはすべて、神の言葉を食べない結果生じているものです。ですから、罪の根源は、神の言葉を食べて生きようとしないことだと聖書は教えています。パウロは、ペテロ達がユダヤ人にも異邦人にも良く思われようとして、心が神に向いていないことを注意しているのです。
   人間は、この世の物質(ちり)で体を造られ、神のいのちの息が吹き込まれて生きるものとなったと聖書に書かれています。「生きるもの」とは、神という言葉の動詞が使われています。つまり、人は神との関わりの中で生きられる魂を与えられたのです。主は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と言われました。私達は神の言葉を食べて生きるように造られているのです。それにも関わらず神の言葉を食べないこと、これが罪だと聖書は教えます。戦争も妬みも、あらゆる悪がこの罪のために起きるのです。すべての悪の原因は、人の言葉を食べて、神の言葉を食べないことにあるのです。
    私達はこのことに気づかなくてはいけません。皆さんの心に平安が来るかどうかは、心が何を食べるかによります。体の健康が食事によって決まるように、私達のいのちを平安で満たしたいなら、神の言葉を食べることが必要です。


『私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:15〜18)

   どんなに立派な行いをしたところで義とは認められず、イエス・キリストを信じることで救われるという福音の原点が、ここで確認されています。イエス・キリストを信じることが、神の言葉を食べる第一歩であり、この一歩を踏み出すことで、いのちが与えられて救われ、このいのちは、さらに神の言葉を食べて生かされていきます。
   信じて救われたにもかかわらず、また行いで義を立てようとするなど、全く本末転倒です。そんなことをしても、何の意味もありません。


キリストが私のうちに生きておられるとは

『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:20)


1.喜びは今あなたの中にある

『なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 14:17)

   義とは神が共におられること、平和とは神と共に生きること、聖霊による喜びとは神と交わることです。
   私たちはどうしても見えるものに喜びを見出そうとし、見えるものに幸せがあると思い込んでいます。しかし、名作「青い鳥」は、幸せの青い鳥は結局自分の家にいたと教えています。同様に、本当の喜びは、飲み食いとかお金とか人からどう思われるかとか、そんなところにはあるのではなく、神と共に生きる自分の中にすでにあったのだと気づかなければなりません。救われて、キリストと共に生きていることこそが、あなたの喜びです。


2.神の恵みは今ここにある

   ユダヤ人は、いつかイスラエルの国家が再興されることに、喜び・幸せがあると思っていました。現代のクリスチャンにも、いつ終わりの時が来て、神が私達に何をしてくださるのかに関心を持つ人は多いものです。しかし、このような未来に幸せを見出そうとする見方に対して、キリストは、あなたが求めている幸せはすでに来ていると教えました。
   イエス・キリストがこの地上に来てくださったのは、私達の死んでいた魂を救い、神のいのちを与えるためです。主は十字架でその救いを完成させ、人格も、民族も、歴史も関係なく、全ての人に、神の言葉を食べて生きられる恵みがもたらされました。キリストはすでによみがえって、あなたと共におられ、あなたの内におられます。つまり、神の恵みは今あなたの中にあるのです。

『私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 6:1〜2)

   今が救いの時であり、恵みの時です。ところが、多くの人がそれを忘れて、神は、何かこれから良いことをして、自分を幸せにしてくれるという錯覚に陥っています。確かに神は、未来にも幸せを与えてくださいます。しかし、あなたはもうすでに自分が求めている幸せを受けていることに気づき、神の恵みを無駄にしないようにしなければなりません。
   終わりの時が来て朽ちない体に変えられて、復活してよみがえることだけが希望なのではありません。すでにそのいのちを与えられて、キリストと共にいるのですから、実質的に、私達はよみがえってキリストと共に神の国にいるのです。

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:17)

   あなたはすでに新しく変えられました。あなたのいのちが新しく変えられ、神とつなぎあわされて、誰も切り離すことができなくなったのです。一番重要なものはすでに与えられています。ですから、神がこれから何かを与えてくださるかのように、もっと頑張って神に愛されよう、救いをいただこうと律法に走る必要はありません。キリストはすでにあなたの中におられます。


3.私たちは今神の国の中にいる

   クリスチャンは神の国を信じていますが、どのようにその日がやってくるのかは誰にもわかりません。多くの人が黙示録の解釈を試みましたが、終わりの日の予定表を作ることは不可能です。はっきりわかっていることは、歴史の終わりがあってキリストが立たれること、個人の人生の終わりがあってキリストが立たれるということです。
   これらのことが、聖書に比喩的に書いてあるのは、私達はそのことを具体的に知る必要がないからです。あなたの恵みはすでに与えられているから、終わりの日のことは、何も心配しなくて良いのです。主は、「明日のことは思い煩うな。大切なことはあなたが新しいいのちを得て神の国のただ中にあるということだ。」と教えておられます。

『さて、神の国はいつくるのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』(新約聖書 ルカの福音書 17:20,21)

   イエス・キリストを信じるなら、あなたのいのちは神の国にいて、神と共に生きています。未来が幸せかどうかにばかり関心を寄せて、今の幸せに気づかないなら、幸せを無駄にしてしまいます。あなたは、いつになったら幸せになれるのか、いつになったら喜びが来るかと勘違いしてはいないでしょうか。人は見える世界に幸せを求め、状況の変化に目を留めがちですが、今あなたのただ中に神の国は確かに存在し、あなたが求めている喜び幸せはもうあなたのただ中にあります。「神の国」とは、この喜びの象徴です。
   イエス・キリストは、喜びと幸せを私達と共に生きるために、神と人との間を邪魔している罪をご自分が背負って十字架に掛かられました。救いとは、神が私達をとらえて私達の中に住むようになってくださったことです。神はあなたの中に住もうとして、あなたの心を叩いておられます。今こそ恵みの時なのです。
   イエス・キリストを信じた者は、自分で気づいていないだけで、古い命は過ぎ去って、新しいいのちが与えられました。すでにあなたの魂はよみがえり、神の国にいるのです。
   私達にとって幸せ喜びは明日来るものではなく、今私たちの中にあります。そのことに気づかれれば幸いです。