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2013年12月1日
『恵みと平安があるように』
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 1章@)
『使徒となったパウロ―私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです―および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 1:1〜3)

   パウロは12弟子の一人ではありませんでしたが、よみがえられたイエス・キリストから訓練を受け、使徒となりました。「恵みと平安」とは、キリスト教で大変良く使われる言葉ですが、聖書が教える恵みと平安とは、いったいどのようなものでしょうか。
   恵みは、大きく分けると二つに分類されます。一つは、私達と神との関係が回復するという恵みです。永遠のいのちを持つ、救われるという言葉と同じ意味です。私達が、自分を造ってくださった神を信じられるようになるということです。
   もう一つは、救われた人と神との関係がさらに深まるという恵みです。私達の神への信頼が増し加わることです。このことを、イエス様は、永遠のいのちが豊かになるという言い方をなさいました。

『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:10)

   私達が神を信じて神のいのちを得、さらにそのいのちが豊かになるために、イエス・キリストはこの世に来られました。いのちが豊かになる、すなわち、神への信頼が増し加わって神を信頼できるようになればなるほど、心の中に平安が増し加わります。恵みと平安はコインの裏と表の関係であると言えます。

『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:27)

   世が与える平安とは、見えるものを手にして安心するという平安です。見えるものとは、人から良く思われることやお金のことで、これがある時は安心していられます。しかし、神が与える平安とは、神を信頼できることからくる平安です。
   この世の平安は、失敗したら評判を失うかもしれない、お金を使ったらなくなるかもしれないと、常に恐れを伴っており、本当の平安とは言えません。その上、この世界でしか通用しないものですから、死んでからは何の役にも立ちません。
   しかし、神を信頼するところから生まれた平安は、そうした世の平安とは全く異なります。主は、この平安は、盗まれることも錆び付くこともない、天に蓄える宝だと言われました。永遠なる神を信頼するところから生まれた平安なので「永遠」なのです。これが、神が私達に与えたい平安です。

   この恵みと平安を人に与えるために、イエス・キリストがしなければならなかったみわざが十字架です。
   神を信じられないこと、見えるもので平安を得ようとすること、聖書はこれを罪と言います。罪とは、心が神に向いていない状態です。罪を取り除かない限り、恵みと平安を手にすることができません。そこでイエス・キリストは十字架にかかり、この罪を取り除いてくださいました。

『キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 1:4)

   現在の世界が、「悪の世界」と言われているのは、人々が見えるものに目を向け、見えるもので安心しようとして、心が神に向いていないからです。
   悪というと、一般的には不道徳な行いをイメージするものですが、そうした悪い行いをする目的は一つです。不道徳な行いはすべて、見えるもので安心したいという願望が引き起こすものです。騙すのも、殺すのも、嘘をつくのも、少しでもお金を手に入れよう、人に良く思われよう、自分の価値を認めさせようという願望から生まれる行いです。ですから、見えるもので安心しようとし、心を神に向けないことが罪であり、悪であると聖書は教えているのです。この罪を何とかしない限り、この世界は、戦争、争いを繰り返します。
   私達が見えるものにしがみつく原因は、生まれながらに神との関係を持っていないことにあります。そこで、神と人との関係を元の関係に回復するために、イエス様が十字架で罪を背負って、罪の報酬である死を廃棄してくださり、あなたを救うため、神の側から一方的に恵みとして信仰を与えてくださったのです。このように、神が信仰を与えてくださり、神との信頼関係を回復できること、これが恵みです。

   では、信仰とは何でしょうか。信仰とは、神が私達に恵みを与えるために与えてくださったものです。そして、この信仰によってますます神を信頼できるようになるという賜物です。信仰によって、見えるものから平安を得るのではなく、神を信頼することから来る平安を手にすることができるのです。
   神の恵みは素晴らしいものです。人は、幸せになりたい、平安が欲しいと願っていますが、この世のものしか知りません。しかし、神の恵みは、賞賛やお金によって手にする幸せとは、比べ物にならない幸せです。それを手にするために必要なのが、信仰です。神から与えられた信仰を使って、さらに神を信頼する3つのステップを、イエス・キリストの誕生を告げられたマリヤの信仰から学んでみましょう。

『御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。』(新約聖書 ルカの福音書 1:28,29)

   考え込む、これが信仰の第一段階です。人は、いきなり信じられるようになったりしません。まずは考え込むことから始まります。例えば、死んだらどうなるのだろう、この先自分はどうなるのだろうと、考え込むようになったら、それは信仰の第一歩なのです。聖書は、患難に出会ったら忍耐して、逃げずに患難と向き合うように教えています。それは、向き合うことが信仰の第一段階だからです。
   人には必ず死が訪れます。死んだらどうなるのかという問題と逃げずに向き合うならば、信仰の第一段階に入って、必ず答えが見つかります。信仰が見えてきます。しかし、現実から逃げてしまったら、答えは見つかりません。
   マリヤも突然の出来事に戸惑い、いきなり信じることはできませんでしたが、問題に向き合い、考え込むというステップを通って、信仰に行き着きました。人は、患難にぶつかったら誰しも悩むものです。このつらさと向き合うならば幸いです。

『すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」』(新約聖書 ルカの福音書 1:30〜33)

   信仰の第二段階は、理解しようとする段階です。マリヤは御使いとのやり取りの中で、御使いの言葉を一生懸命理解しようとしました。突然やってきた御使いを拒否したり、逃げ出したりしないで、御使いの言葉を一生懸命聞いて、一生懸命理解しようとしました。
   私たちにとって次に必要なのは、神の言葉を一生懸命理解しようとする姿勢です。神の言葉とは聖書です。聖書の言葉を一生懸命理解しようとするならば、必ず答えを見つけることができます。聖書は、信仰とは聞くことから始まると教えています。
   聖書には、永遠の命があるとはっきり書いてあります。問題は解決すると書いてあります。この神の言葉を理解しようとすることが、信仰の第二段階です。

『御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。』(新約聖書 ルカの福音書 1:35〜38)

   マリヤは最終的に「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言いました。これが、第三段階の飛び込む段階です。決心・決断・選択の段階と言い換えることもできます。
   この第三段階を、聖書では悔い改めと言います。聖書で使われる悔い改めという言葉の意味は、世の中で使われる意味と全く違います。世の中で悔い改めという場合は、反省することを指しますが、聖書の悔い改めは、決心をすること、信じること、心を神に向けることを意味しています。マリヤは最終的に、「信じるしかない」と決心して、信仰の決断をしました。これが信仰の最終段階、飛び込む段階です。
   残念なことに、この段階に来ても、なかなか飛び込むことをしない人もいます。そのため、聖書は幾度となく、「恐るな。ゆだねなさい。」と繰り返し語っているのです。
   聖書は通販カタログのようなものです。カタログは、見ていると楽しいものですが、決断して契約し、お金を振り込まない限り、何も手に入れることはできません。信仰には決心が必要です。問題を解決するにあたっても、決断が必要なのです。
   最後は信じて飛び込むしかありません。聖書が、「信じなさい」「必ず助ける」と言っているのですから、神の言葉を信じて飛び込むしかないのです。こうして信仰が、本物になるのです。
   マリヤも信じて決心をしました。信仰を使って決断をしなければ、せっかく神が用意してくださっている恵みを手に入れることはできません。あなたがその一歩を踏み出すならば、神はあなたの不信仰を取り除いて、助けてくださいます。神は私たちの罪、すなわち、不信仰を取り除いてくださり、平安をくださるお方です。あなたが、この一歩を踏み出すことによって、神の恵みとは神を信頼するところからくる平安だとわかるようになるのです。