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2013年11月17日
『患難が生み出す希望』

   患難とは、自分にとってつらい出来事のことです。しかし、それは私たちにとってチャンスだと、聖書は教えています。なぜなら、つらさを通して、神としっかり結びつくことができるからです。
   ところが、これは敵である悪魔にとっても、私たちを神から引き離すチャンスとなります。私たちが、つらい出来事から逃れようとして見えるものに安心を求め、それをしっかり握り締めて離さなくなると、見えるものを大切にする心が育ち、神に心が向かなくなるのです。
   しかし、つらい出来事にきちんと向き合えば、自分にとって本当のつらさとは何かに気づき、自分の本物の感情に気づきます。それは、神に造られた私たちが本来持っている神を愛する感情です。その感情が自分の中にあることに気づくと、人はしっかりと神に結びつくことができるのです。
   人は、自分の本当の感情を知らないで生きています。人から愛されること、見えるものを手にすることが自分を安心させると信じ、それが自分の本当の感情だと思っているので、必死になってその感情を満たそうとしています。しかし、それはニセモノの感情であって、本物の感情ではありません。心理学で、脅されて違う感情に変えられた感情をラケット感情と呼びますが、私たちが今日抱いている感情は、死の恐怖によって変えられたラケット感情です。
   私たちが本来持っていた感情は、神を愛する感情であり、それは、人を愛する感情でもあります。それに気づきさえすれば、神の御手にしがみつくことができます。ですから、神は、私たちを、肉のつらさと向き合わせ、その中にある本物の感情に向き合わせようとなさいます。これが患難はチャンスである所以です。
   この時、つらさと向き合わせようとする神と、つらさから逃げ出させようとする敵との間で激しい攻防が繰り広げられます。私たちの中にある肉の思いは逃げようとしますが、御霊の思いは逃げないでつらさと向き合うことを願うので、自分の中に葛藤が生まれるのです。

『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:3〜5)

   患難は忍耐を生み出し、私たちに真の希望をもたらすものです。「忍耐」とは、原語で「踏みとどまる」という意味です。患難があなたを踏みとどまらせることができるのは、患難の先に真の希望があるからだと聖書は教えます。患難から逃げ出す人は、その先にある希望を知らないから逃げてしまうのです。もしその真の希望を知っていれば、決して逃げ出したりしないでしょう。
   この真の希望を生み出す「練られた品性」とは、直訳すると「本物であることの確証・証拠」という意味です。本物であることの確証とは何か、それは、聖書が教える希望とは何かがわからなければわかりません。聖書が教える希望は、この世の希望とは全く異なります。この世の希望は、見えるものを信頼するところから来る希望です。しかし、見えるものは変化し、失われることもありますから、本当にうまくいくかどうかはわかりません。それに対して、聖書の希望は、神を信頼するところから来る希望です。神の約束は必ず守られるという確信から来る希望であり、そこに不確実なところはまったくありません。
   この確信は、私たちの中にある本物の感情に気づくところから生まれます。本物の感情とは、神によって造られた私たちが本来持っている、神を愛したいという感情です。自分の中にこの思いがあることに気づき、神が差し伸べておられる手をつかむなら、心に平安が得られます。それによって、神の言葉は本当だという確信を得ることができ、神を信頼することができるようになるのです。
   つまり、聖書が教える希望を生み出すカギは、自分の本当の感情に気づくことです。この感情のことを、聖書は「弱さ」と呼びます。自分は神なしでは生きられない、私には神が必要だと気づくことです。それによって、神の言葉を信頼できるようになります。それが練られた品性と言われるものです。
   練られた品性とは、知識や努力によって得られるものではなく、患難から逃げないで自分のつらさと向き合うことで、私には神が必要だというあなたの本物の感情に確信が持てるようになるということなのです。
   このように、神なしでは生きられない自分に気づくことが、希望につながります。この希望は、神としっかり結びつき、神を絶対的に信頼するところから生まれる希望なので、失望に終わることがありません。神が患難を通して私たちに与えたい答えとは、この希望なのです。

   例えば、病のいやしを祈り求める時、私たちは何をもって問題の解決と考えるでしょうか。病には二種類のつらさがあります。一つは体のつらさ、もう一つは病によって生じる恐れ・不安という心のつらさです。もちろん、神はどちらのつらさも取り除くことができます。
   神は病をいやすとき、医者を通して治すこともあれば、薬を通して治すこともあります。そして神ご自身が直接いやすこともあります。神は、人ができることは人にさせるという原則を持っておられますから、どのようにいやされるかはわかりません。しかし、いずれにしても、神がいやしてくださることに変わりありませんから、私たちは、肉体的なつらさが取り除かれるように、祈りながら治療を進めていきます。
   この時、肉体的ないやしが与えられれば、心に生じているつらさも解決すると私たちは思っているのですが、実は、それは聖書が教える解決方法ではありません。体のいやしだけに頼って解決しようとすると、治療が長引いた場合やうまくいかなかった場合には、心のつらさはまったく消えないことになります。また、たとえうまくいったとしても、心に生じた恐れ・不安は消えたわけではなく、今度は、再発したらどうしよう・・・という新たな恐れになって住み続けるのです。こうした思いを抱えて生きることはとてもつらいことです。
   ですから、心のつらさを解決するためには、医者にかかると同時に、もうひとつしなければいけないことがあります。それは、祈りによって、神がこの問題を解決してくださったと信じる平安を手にすることです。
   病に限らず、私たちが受けるつらさには二面性があります。痛みや困難などの現実の苦痛と、それによってもたらされる心のつらさです。そして、心のつらさは、「神はこの祈りを聞いてくださった」という神への信頼の確信を手にしない限り解決しません。
   主は、「願ったことはすでに叶えられたと信じなさい。必ず私は答える。」と約束しておられます。このことを信じることができれば、見えるところに関わらず、心に平安が訪れます。見えるところの一時的な解決ではなく、真の解決をし、この平安を得て欲しいと、神は望んでおられるのです。

『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:14)

   「神に祈れば必ず答えてくださる」、これが確信です。そして、この確信から来る平安こそ、神が私たちに与えたい希望です。この希望を手にしたら、見えるところがいやされていようがなかろうが、見える問題が解決されていようがなかろうが、平安でいられます。
   私たちは、この希望を求めることなく、見えるところの解決でなんとかしようとすることをやめなければなりません。大切なことは、神の言葉を信頼できるかどうかです。
   現実には、その約束を信じて平安を手に入れた後に、病がいやされる人もいれば、いやされない人もいます。パウロはいやされませんでした。しかし、彼は平安を手にし、自分の弱さに気づき、これこそ神の恵みが働く場所だったと発見したのです。

『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)

   信仰によって神の平安をつかんだ人々は、願いは叶えられたと信じて、はるかにそれを見て喜びを得ました。実際には何も起きませんでしたが、そんなことは問題ではありませんでした。

『信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1)

   私たちには、このような信仰が与えられているのです。神の言葉は事実だと確信できれば、どれほど平安になるでしょうか。ですから、患難から逃げずに本当のつらさに気づき、主にすがって、この確信を手にして欲しいのです。

   つらさを感じる時、霊的なつらさなのか肉体的なつらさなのか、人にはなかなか判断できませんが、主の答えを手にする過程の中で、気がつかないうちに、必ず霊的なつらさに出会います。ですから、霊的なつらさかどうかを意識する必要はあまりありません。私たちは、つらさを主に告白し祈り求める中で、気づかないうちに自分の弱さを垣間見て、神にしがみついているものです。そして、気づけば平安を手にしています。これが、患難がもたらす希望です。

『そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群集のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。』(新約聖書 マルコの福音書 2:3〜12)

   この男性は、体が動かない病気でした。患難に出会った彼は、友達に頼んでイエス様のもとに連れて行ってもらいました。彼は、知らぬうちに自分にはイエス様が必要だと気づいたのです。群衆のためにイエス様に近づくことができない状況でも彼はあきらめず、屋根からおろしてくれと友人に頼みました。その信仰を見て、イエス様は「あなたの罪は赦された」と言われたのです。
   彼が病気であることは一目瞭然であるにも関わらず、主は、「病はいやされた」とは言わず、「罪は赦された」と言われました。
   罪とは、不信仰、すなわち神を信頼しないことです。それがすべての恐れ・不安の原因です。この中風の男性は、「私にとって必要なのはイエス様だ」と信じ、イエス様を求めました。そこで主は、罪が赦されたと宣言されたのです。それは、「不信仰が取り除かれて、私を信頼するものとなった」という宣言です。
   ところが、この場にいた律法学者が、イエスという人物は何の権威があって病気をいやすのかとつぶやきます。そのために、主は、神の権威を教えるために、彼の病をいやされました。主が彼の病をいやしたのは、神の権威を教えるという目的のためです。
   主が与えたいものはあくまでも、見えるものによって得られる平安ではなく、神を信頼することによって得られる平安です。それが、私たちが求めている本当の答えだからです。それがわからないと、見えるところがうまくいかないとつぶやくようになります。しかし、神を信頼することができれば、見える状況によらず、心は平安でいられます。中風の男性は病がいやされる前にそれを得ていました。
   人は、自分の弱さに気づくと、この中風の人のように、必死にイエス様に近づこうとするものです。それが、イエス様が私たちに与えたい平安であり、安息です。患難は私たちにこうした希望をくれるのです。
   私たちが本当にその希望を知るならば、もう患難から逃げ出すことはありません。私たちの真の心が求めていた本当の平安がそこにあるのに、どうしてそのチャンスから逃げ出すでしょうか。つらさに出会ったら、逃げ出さないで本当の希望をつかみましょう。見えるところに左右されない、神の約束を手に入れるという平安が、もう目前まで迫ってきているのです。