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2013年11月3日
『患難に耐える』

『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:3,4)

   患難は決して良いものではありません。しかし、人生の中で患難は避けられません。そこで主は、患難の中に恵みを用意し、神の栄光が現れるチャンスとしてくださいました。患難によってこれまで平安や安らぎを与えてくれていたものを失う時、神を信頼することによって得られる平安に入れ替えることができるのです。神による平安は永遠に失われることはありません。この信頼を手に入れることが、神のわざです。患難はつらいものですが、つらい患難すら喜ぶことができる道を、主は用意してくださったのです。

『望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:12)

   聖書が教える「忍耐」とは、ただ我慢することではなく、「逃げ出さないでとどまる」という意味です。つらさをいろいろなものでごまかす方法もありますが、逃げるのではなくつらさと向き合いなさいと聖書は教えています。
   人間は、つらいことがあると反射的に逃げ出してしまいます。多くの人がまず逃げ道に使うのが怒りです。怒ることで、自分は悪くないと訴え、つらさから逃れようとします。それには、私達が無意識の中でつらい出来事は自分に対する罰だと考えている背景があります。自分が罰を受けることを認めたくない、自分は悪くないという反発から、怒ってつらさから目をそらそうとするのです。
   その他につらさをごまかす方法として、気晴らしをしてつらいことを忘れ、問題を見ないようにする方法もあります。また、つらさをもたらした物や人にしがみつくことをやめ、新しく自分を満たしてくれそうなものに乗り換える方法もあります。
   神の言葉を知っていても、途中で逃げ出すために、神の恵みを手にすることができない人が大勢います。ですから聖書は繰り返し患難と向き合うように教えているのです。
   患難と向き合うと何が起きるのでしょうか。あなたと患難がたった二人で部屋に閉じ込められたと想像してみましょう。無視したくても、適当にごまかしたくても、なんとも気詰まりな状況に追い込まれ、やがて自分の本音が引き出されます。そして、本当の自分の姿、それは神抜きには生きられない存在だということに気づくのです。これが自分の弱さに気づくということです。


・人とはどのような存在か

   人間は神のいのちによって造られました。木の枝が幹とつながっていなければ生きられないように、人間は神のいのちと結びついていなければ生きられません。しかし、そのつながりを悪魔が壊し、私達は枝が折れた状態で生まれてきました。これが死であり、私達は皆、死への恐れを潜在意識の底辺に抱えています。この恐れから逃れようとして、見えるものにしがみつき、本当の自分の姿を見ないようにしているのです。
   水という物質は、酸素と水素が結びついて出来ます。酸素と水素が離れたら水ではなくなり、非常に不安定な物質になり、他に結合する物質を求めます。私達人間も、神と結びつくことで初めて人となり、安定した存在となります。神と離れたら不安定になるので、他に結びつくものを探します。
   このような神がなくては生きられない性質を、聖書は弱さと呼びます。弱さは恐怖の感情を生みます。人間はまだこの恐怖を実際に体験してはいません。イエス・キリストだけが、十字架に掛かり、罪人の一人としてよみにくだり、完全に神と切り離されるという体験をなさいました。イエス様は十字架に掛かる前、ゲッセマネの園で血の汗を流して祈り、神抜きで生きるつらさを、弟子達に示されました。
   私達は、自分がしがみついているものが不安定になるとつらさを感じます。しかし、それは本当の自分が見えるチャンスです。例えば、病気になると、これからどうなるのだろうと不安を感じます。しがみつくものが弱くなると、神を必要としている自分の姿が見えるようになり、それが神と結びつく強力な力となるのです。
   自分の本当の姿を見ることは恐ろしいことです。惨めな自分を知ることになるからです。自分の本当の姿が見えた時、ヤコブは自分を虫けらと呼び、ダビデは自分を獣だと言いました。惨めな本当の自分は、神と結びつきたいと願っているのですが、それに気づかず、見えるものにしがみつき、それを頼ろうとしています。これが私達の問題である罪です。
   つらさは、今自分がしがみついているものが役に立たなくなってきたというサインです。つらさと向き合うことによって、神と結びつきたいと願っている本当の自分に気づけば、あなたは神にしがみついて、誠の平安を得ることができるのです。
   イサクの子ヤコブは、兄を騙し、おじを出し抜き、長子の権利と富を得ましたが、かつて騙した兄との再会を非常に恐れました。故郷が近づくにつれ、彼のつらさは増し、ついにつらさと向き合うしかなくなったその時、彼は一晩中神にしがみつき、助けてくれと叫び、神と強力に結びつくに至りました。 私達は、怒りや気晴らしを使ってつらさから逃げ、それを封じ込めようとしてしまいがちですが、つらさにきちんと向き合うことで、自分の本当の姿に気づき、弱さが神の栄光に変わります。自分ではどうすることもできず、神に助けを求めるしかないところまで追い込まれ、「主よ、私を憐れんでください」と叫ぶ時、神としっかり結びつくことができます。人の同情を引いたり、気晴らしをしたりすると、本当の姿は見えません。すると、患難にあっても神の栄光にならず、ただつらいだけで終わってしまいます。
   患難と向き合うのは、惨めな自分を思い知る大変つらい作業ですから、祈って神の助けを受けながら進まねばなりません。パウロも最初はつらさから逃げようとしましたが、向き合わされ、自分の本当の姿に気づくことができました。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 12:9,10)

   パウロは自分の弱さに気づいた時、そこに神の力が働くことを発見しました。神抜きでは生きられないという弱さに気づいたなら、それが神と結びつく力になります。患難は、弱さに気づき、キリストと結びつくことのできるチャンスです。患難を避けることはできませんが、むしろそれを利用し、神と結びつくならば、患難は恵みに変わります。どのように患難を栄光に変えるのか、ヨブ記を通して学びましょう。


・ヨブの患難

『主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。』(旧約聖書 ヨブ記 1:8〜12)

   ヨブは神にも認められる正しい信仰の持ち主でしたが、サタンはこう言いました。ヨブが神を信頼しているのは、神が彼を祝福して多くのものを与えたからだ、彼は見えるものに信頼しているに過ぎないと。こうしてサタンはヨブのものを奪っていきました。
   サタンは、今日の私達の中にある罪の型を示しています。私達の中にある罪が見えるものにしがみつくために、見えるものが壊れる時、つらさを引き起こすのです。つらい出来事が起こると、なぜ神はこのようなことをするのかと、考えるかもしれませんが、神が患難を引き起こしているわけではありません。
   この時、ヨブは子ども達と全財産を失いましたが、つぶやかず、このように言いました。

『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。』(旧約聖書 ヨブ記 1:21,22)

   ヨブの信仰は確かなものでした。しかし、患難はこれだけで終わりませんでした。ヨブは健康を奪われ、全身腫瘍に冒されて、目も当てられない状態になってしまうのです。

『すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私達は幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。』(旧約聖書 ヨブ記 2:9,10)

   妻が忍耐を失っても、なお主を信頼しようとしたヨブでしたが、肉体の苦痛が長い期間におよぶと、ついに愚痴をこぼし始めました。

『その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。』(旧約聖書 ヨブ記 3:1)

   ヨブはまず怒りに逃げました。「なぜ自分は生まれてきたのか。こんなことなら生まれなかったほうがましだ。」・・・・・・本当に患難に耐えて祈り続けるのは困難なことです。ヨブもついに逃げ出して愚痴をこぼし、怒りがこみ上げ始めました。
   この時、ヨブを案じて友人達がやってきます。そして、このようなことになったのはあなたが犯した罪のせいなのだから悔い改めなさいと迫るのです。
   神は悪いことをしたら罰を与える方だと考えるのも、よく人間がしてしまう誤りです。苦しみが神の罰ならば、神が十字架にかかって人間を苦しみから救うはずがありません。苦しみは神の罰ではないからこそ、主は私達を助け出し、それを栄光に変えてくださるのです。この3人の友人は、後に神の怒りを買うことになります。
   さて、ヨブの友人の言ったことは確かに間違いでしたが、ヨブはそれを聞いて、自分は悪くないと腹を立てました。自分の正しさを主張して、怒りが膨れ上がったのです。これが問題でした。彼は怒りに逃げ、怒りでつらさをごまかそうとしたのです。しかし、彼はこの問題に気づいていませんでした。

『すると、ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフが怒りを燃やした。彼がヨブに向かって怒りを燃やしたのは、ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたからである。』(旧約聖書 ヨブ記 32:1)

   この時、ヨブの問題に気づいたのは、3人の友人に同行していたエリフという人物です。エリフはヨブに、なぜ自分を正しいとするのかと言って、次のように忠告します。

『聞け。私はあなたに答える。このことであなたは正しくない。神は人よりも偉大だからである。なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに神がいちいち答えてくださらないといって。』(旧約聖書 ヨブ記 33:12,13)

   エリフの言葉が真実を捉えていることに気づいたヨブは、反論をやめました。すると、それまで黙って見ておられた主がヨブに語りかけ、ヨブは自分の本当の姿に気づき始めます。

『ヨブは主に答えて言った。ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。』(旧約聖書 ヨブ記 40:3〜5)

   ヨブは、傲慢にも自分は神がいなくても生きられると言っていたのだと気づきました。主に語りかけられ、主の偉大さを知り、ついに彼は心を変えます。

『それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。』(旧約聖書 ヨブ記 40:6)

   この「悔いる」という言葉は「ナーハム」が使われており、心を神に向ける悔い改めとは区別されています。自分はちりや灰のような存在であるという意味で、神なしでは生きられない存在であることに気づいたという告白なのです。ヨブは患難と向き合い、激しい葛藤の末に、自分の本当の姿・弱さに気づき、神にしっかり結びつきました。そして、神様は以前の2倍の持ち物をヨブに与えられました。

   神は私達に、自分の弱さに気づいてもらいたいと願っています。神に造られたいのちが自分の中にあることを認め、自分は神抜きでは生きられないと知ってもらいたいのです。そのことに気づかず、自分は立派だと言って傲慢になり、人を裁き、怒っても、神と結びついていなければ、私達は単なるちりと灰に過ぎません。神に結びついていない自分は何者か、それに気づくことが最高の祝福の時です。本当の自分の姿に気づく時、私達は神にしがみつかずにはいられません。それが真の悔い改めです。その時、神はあなたの手をしっかりとつかみ、主の栄光を現してくださるのです。
   患難は、神の恵みを受けるチャンスの入り口です。患難から逃げずに向き合い、つぶやかず、愚痴をこぼさず、へりくだって祈るなら、ヨブのように誠の平安を手にすることができます。私達は自分の弱さのすべてを知ることはできませんが、少しずつでも垣間見、神の手を握り締めることを繰り返して、神との関係を築き、平安を手にすることができます。これが患難を喜び、平安に変える道なのです。