ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2013年10月13日
『権力によらず 能力によらず』

(新約聖書 ローマ人への手紙 15章14節〜)
   聖書で使われている言葉は、一つの言葉にいくつかの意味があります。例えば、「律法」という言葉には、「神の律法」「罪の律法」「律法主義」という3つの意味があり、「罪」という言葉も、イエス様を信じない不信仰の罪と、そうではない他の罪を指している場合があるので、それぞれの場面でどの意味で使われているのかを正しく理解しないと、よくわからなくなってしまいます。しかし、聖書全体を整理して考えてみると、非常にシンプルでわかりやすいことを言っていますので、今日も御言葉を整理して学んでいきましょう。

『私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵にみたされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 15:14)

   パウロは、ローマのクリスチャン全員が、知恵に満たされて互いに訓戒し合うことができると「確信している」と言っていますが、実際にはそうではありませんでした。この御言葉を通して、主が私達に教えようとしておられることは何でしょうか。それは、現実と信仰にギャップが生まれる時、私達にとって大切なことは、現実がどうあるかではなく、神を信頼することだということです。

『信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1)

『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)


   旧約聖書に登場するアベル、エノク、ノア、アブラハム、サラといった人々は、神様が約束してくださったことを実際に見ることはありませんでしたが、信仰でそれを見て、すでに喜びを持っていました。
   パウロも、ローマ人のクリスチャンが知恵に満たされ訓戒し合うことを願い、神様はそうしてくださると信じました。このように信仰で信頼することが確信です。
   私達はどうしても見える世界で生きているので、見えるものに結びつくことで安心しようとしてしまいます。見えるものとは、人からよく思われることとお金です。しかし、これが偶像礼拝であり罪なのです。主は、人からよく思われて安心しようとしたり、お金を持つことで安心しようとする生き方をやめ、神に結びつき、そこから安心を得るように教えています。見えるものがどうあるか、現実がどうあるかとは関係なく、神を信頼することができれば喜べるのです。
   私達は見えるもので安心する方法しか知りませんでした。しかし、神を信じることでも安心を得ることができます。いえ、この安心の方がはるかに素晴らしいものです。これを聖書では安息と呼びます。
   神様を信頼し、見える問題がどうであれ、神から平安をいただきましょう。問題にぶつかるたびに祈り、必ず助けられると確信し、その平安に基づいて具体的に何をするかを考えるのです。大切なのは神への信頼を持った上で問題に取り組むことです。

『ただ私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 15:15〜17)

   パウロは、キリストにあって異邦人に仕える者となりました。聖書が異邦人と呼ぶのは、神の律法を持たない人々のことです。この当時、ユダヤ人以外唯一の神を信じる民族はいませんでしたから、律法を知らない異邦人は救われないと考えるのが普通でした。しかし、パウロはイエス・キリストに出会い、神の一方的な愛によって、人は行いで救われるのではなく、神が与えてくださる信仰によって救われると知りました。そして、律法の行いで救われるのではないなら、律法を持たない異邦人も神は救ってくださると気づいたのです。この「信仰によって誰でも救われる」ということが、聖霊によって聖なるものとされるという言葉の第一の意味です。
   二つ目の意味は、救われた者が神を信頼する者に成長することを指します。救いとは信仰によって神との関係を回復することですが、それだけでは神への信頼を回復したわけではないので、見えるもので安心しようとする生き方は変わっていません。この生き方が、神を愛し信頼することを妨げる罪です。主は、この罪を取り除くため、私達を悔い改めに導き、見えるもので安心する生き方をやめて神を信頼する者にしようとしておられます。

『わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』(新約聖書 黙示録 3:19,20)

   悔い改めるとは、反省とか後悔ではなく、心の向きを変えることです。見えるものを頼ることをやめ、神に向くことです。
   ある時イエス様は神殿で、取税人とパリサイ人が祈っている場面に出会いました。パリサイ人は自分が達成できた良い行いについて祈り、取税人はただ「罪人の私をあわれんでください」と祈りました。この時イエス様は、神はこの取税人の祈りを聞かれると言われました。
   このように、ただ神に助けを求めること、ただ神に心を向けること、これが悔い改めです。たとえ悪い行いを深く反省したとしても、神に心が向いていなければ悔い改めではありません。多くの人が勘違いしていることですが、聖書に「罪を悔い改める」という言葉はありません。罪とは神に心が向いていない状態です。悪いことをしたと反省することが悔い改めではなく、神に向いていない自分に気づき、神に心を向けることが悔い改めです。
   神に心を向けるとは、神に心を開くことです。イエス様は、あなたが神に心を開くことができるように心の扉を叩いています。もし、自分が責められるのではないかという恐れを持っているならば、神に心を開くことはできません。しかし、私達は放蕩息子の話を通して、神はあなたを責めずに受け入れてくださる方であることを知っています。神はあなたと一緒に食事をしてくださいます。これが私達に平安をもたらすのです。平安がないのは、心を見えるものにしがみつかせたまま心を閉ざしているからです。
   神に心を開く時神は共に生きてくださる、この愛こそがまったき愛です。これが、罪の赦しでありいやしです。いやしとは、神と共に生きるように造られた本来の姿に戻ることです。

『私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行いにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。』(新約聖書 ローマ人への手紙 15:18〜21)

   パウロは、誰も福音を知らない土地を選んで宣教しました。当時、各地にユダヤ人がいて、ある程度旧約聖書の土台もあったので、そのような地域の人々のほうが福音を受け入れやすかったかもしれません。しかし、頼る人が一人もいないところで福音を語るには、神を信頼するしかありません。その結果、パウロは聖霊の力で福音が広がるところを見てきたのです。
   土台も頼る人もない状態から何かをやろうとする時、私達は自分を見て不安になるものです。しかし、自分の力ではなく、神の力によってやるんだと決心して進むならば、必ず主が成し遂げてくださいます。パウロは、しるしと不思議をなす力、御霊の力により、宣教が成し遂げられていくのを目の当たりにしました。私達も、自分の力ではなく神の力によって救われ生かされています。ならば、これからも神の力によってことはなると、悟って生きて行きたいものです。

『これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。』(旧約聖書 ゼガリヤ書 4:6)

   イスラエルはダビデ王の時代に強大な国家を築きましたが、ソロモン王の死後、北と南に分裂し、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、南ユダ王国はバビロニヤに滅ぼされてしまいます。国を失い、人々が神への信頼を失う中、神は預言者を通して人々を励まし、もう1度国を再建するから神殿を建てよと命じました。ゼカリヤはそのような預言者の一人です。その後、ペルシャによって、捕らわれていた人々は解放され、ついにB.C.516年に神殿を回復します。国は再建されないもののユダヤ人の自主権は回復され、人々は神への信仰を回復し始めます。そのような時にイエス・キリストが生まれました。やがて、ユダヤ人によって、イスラエルの国が本当に再建されるのは1948年です。
   神は、人間の権力や能力によらず、ことを成し遂げてくださるお方です。自分の力や権力を見れば不安になります。しかし、あなたには神がついていてくださいます。あなた自身を建て上げるのは神ご自身であり、神が共におられ、神が助けてくださいます。この前提に立つことが神への信頼です。

『兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。』(新約聖書 ローマ人への手紙 15:30〜33)

   パウロは、お互いに助け合うことを22〜30節で述べた上で、私のために祈って欲しいと願っています。自分のためになら誰でも祈ります。しかし、神様のために生きたい、神様のために何かしたいと願うなら、一番にすべきことはとりなしの祈りです。周りの人々のため、家族のため、教会のために祈ってください。
   聖書は、神は愛である教えます。愛とは、とりなしをするものです。私達がとりなしをする時、主が共におられます。バラバラな私たちを結ぶのは、ギブアンドテイクのパイプでつなぐ互いの人間関係ではなく、愛でなければなりません。
   例えば、家族という最も近しい人間関係の場で、私達は自分の思い通りにならないと怒り、力関係で収めようとしてはいないでしょうか。思い通りにならない時こそ、家族のために祈りましょう。
   私達は、自分のために背後で祈ってくれている人がいたから今の自分があることを忘れてはいけません。あなたのために、とりなして祈ってくれる人がいるのです。今、「八重の桜」というドラマで取り上げられている同志社大学も、アメリカの多くのクリスチャンの祈りと献金によって創設され、多くの牧師を輩出し、日本のプロテスタントの土台を作りました。新改訳聖書が生まれたのも、日本人に福音的な聖書を届けたいと願ったアメリカの団体からの多額の献金によるものです。東日本大震災に際しても、世界中から驚くほど多くの献金と祈りが捧げられています。日本人の救いのために毎日熱く祈る隣国の韓国の兄弟姉妹が大勢います。
   私達は愛によってつながっています。彼らの献金によって私達は祝福を受け、彼らの祈りによって私達は救われました。私達はこの箇所からもう一度その事を学びましょう。パウロが活動できたのも、とりなす人達がいたからです。皆さんもぜひ、この奉仕をしていただきたいと思います。自分の家族、友人、すべての人々のために、教会、牧師、世界中のリーダーたちのために祈っていきましょう。