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2013年9月15日
『人のいのち』
 (新約聖書 ローマ人への手紙 14章7節〜)
   皆さんは、頑張って目標のものを手に入れても、しばらくすると心にポッカリと穴があいたような虚しさを感じたことはないでしょうか。そのような虚しさに疑問を感じて教会の門を叩く方が多いわけですが、この虚しさの原因は、私達が達成しようと目標にしているものが、実は自分の魂が欲しているものではなかったことにあります。人は、自分自身が何を求めているのか、実はわかっていないのです。

『私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるめに、死んで、また生きられたのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 14:7〜9)

   人間は、誰ひとり例外なく、主のために生き、主のために死ぬとありますが、人は、通常そのような意識を持っていないものです。
   私達は、命というものは一人に一つだと思っています。しかし、聖書によると、命には、肉の命と、神から与えられた神のいのちの二つがあります。神から与えられた神のいのちとは、霊的ないのち・魂と考えるとわかりやすいでしょう。
   人は通常、肉の命だけを見て、それを満足させるために生きていますが、実はもうひとつのいのちが神のために生きたいと求めているのです。そのため、肉の命を満足させても、虚しさから逃げることができません。
   自分が何者なのかがわからなければ、どのように生きればいいのかがわかりません。聖書には次のように書いてあります。

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」』(旧約聖書 創世記 1:26)

   人間は、神に似せて造られました。神がご自身を「われわれ」と呼んでいるのは、神とは三位一体の方だからです。父・御子・聖霊というそれぞれに人格があり、三位合わせてひとつの人格を作っています。それぞれの神様は、上下関係はなく、互いに信頼関係で完全に一つに結ばれています。神は、この信頼という関わりの中に私達を入れるために、人を造りました。
   神を愛するとは神を信頼することです。愛とは、信頼です。神が、見返りを求めることなく一方的に人を愛することができるのは、信頼関係によって満たされているからです。その愛の中にあなたも入りなさい、と言われているのです。

『神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』(旧約聖書 創世記 2:7)

   神が人を造った時、まず土のちりで形を造られました。これが肉の命です。その後、神は人にいのちの息を吹き込まれました。これは、他の生物にはしなかったことです。人は、肉の命の他に、神のいのちが与えられました。それは、神と交わるためです。「生き物となった」とは、「神といのちの関わりを持つ」ことです。
   ところが、悪魔がこの関わりを壊そうとして、蛇の姿をとってアダムとエバをだまし、彼らが罪を犯したことによって、神との関係が壊れてしまいました。神との関わりを持つことで「生き物となった」人間ですから、神との関係が壊れたとは、すなわち死の状態です。
   人は、罪によって、生まれながらにして神との関係がない状態で生まれてきます。関係がなくても、いのちがなくなったわけではないので、魂は神との関わりを欲し続けているのですが、関係が壊れているのでそれを得ることができません。
   飢え渇いた魂は、人との関わりで心を満たし魂を潤そうとするようになりました。
   しかし、この生き方には副作用があります。人からよく思われるためには、自分を隠したり、よく見せようとする必要が生じ、求めたもので満たされないと怒り・嫉妬・妬みが生まれます。神を知る前は、そう生きるしかないと思い込んでいた私達ですが、その限界に気づき、神の愛に出会ったのです。

   私達の身の回りで起きる様々な問題は、神によって造られた魂を、神との関わりではなく人との関わりで満たそうとしているところから起こります。それは、神との関わりが失われたことが原因です。ですから、問題解決の答えは、神との関わりを回復し、その関係を築き深めていくことしかありません。私達の魂が欲しているのは、神との交わりだからです。 このことを、イエス・キリストが教えているたとえ話があります。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:1〜5)

   「羊」とは、神が私達に与えたいのちのことで、それぞれ名前があります。壊れた関係を回復するために、神が門から入って羊の名を呼ぶと、呼ばれた羊は神と出会い、その声に聞き従います。これが救いです。羊は、自分にいのちを与えた方を知っているので、その牧者にしか従いません。これは、次のような意味があります。
   私達のいのちは、造り主を知っているので、他の物で満たそうとしても、拒否します。肉の命は見えるもので心を満たそうとしますが、魂が拒否するために虚しく感じるのです。見えるものを手に入れても虚しさが残るのは、魂が求めているものではないからです。そのことを知らないと、心にぽっかりあいた穴を埋めようとして、また何かを求める生き方を繰り返してしまいます。しかし、このからくりに気づくなら、軌道修正をして正しい方向に向かうことができます。
   肉の命は滅びます。神が備えた本当のいのちは、永遠に残ります。すべての人の中に、神を愛し、人を愛するいのちが眠っています。神は、そのいのちを回復させたいと願い、ひとりひとりに声をかけておられます。

『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」』(新約聖書 マタイの福音書 4:4)

   キリストは、人間の魂は神の言葉を食べることによって生きると教えています。すなわち、神と関わりを持ち、神の言葉を信頼して生きるように、人は造られたのです。
   神の言葉を食べられないと魂は飢え渇きますが、その魂の叫びが聞こえないのは、心に多くのよろいを着せ、魂を閉じ込めているせいです。よろいとは、心のよりどころで、ゲームやカードを手に入れたりすることから始まり、100点を取るよう頑張ったり、仕事を頑張ったりして、人からの愛情や賞賛や達成感を得ようとします。しかし、それでも虚しさを感じるので、求めたものが間違っていたのだろうと、別の新しいよろいを求めることを繰り返し、多くのよろいを身にまとっています。よろいの奥の魂の声は聞こえなくても、虚しさだけはわかります。何をやっても不安だったり、怖かったりするのは、魂が神の言葉を食べず、神との関わりがないからなのです。

   人は神の体の一部だと、聖書は何度も教えています。人は皆、神のために生き、神のために死ぬように造られています。
   このことがわかれば、問題の解決がわかるようになります。それは、神の言葉を信頼する戦いをすることです。これが罪との戦いです。肉の思いに騙されず、肉の思いに生きる生き方を捨て去り、神を信頼する生き方に飛び込むことです。
   神との関わりの中で生きるように造られたことを忘れて、他の物で満足させようとしてしまうと、心は神から離れ罪を犯します。それが、様々な人との間に問題を生じさせ、人をさばくというという行為に至ります。では、ローマ14章に戻り、さばかないで、神を信頼する生き方を学んでいきましょう。

『それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 14:10)

   さばくのは、肉の命を見るからです。肉の命は滅びるものですから、本当のいのちを見ないでさばいても意味がありません。

『主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。』(新約聖書 ローマ人への手紙 14:14,15)

   弱い人に対して配慮するように教えられています。クリスチャンは、キリストの十字架によって律法から自由になったことを知っていますが、そのことを知らない人や信じていない人の前で、汚れていると思われているものをあえて食べたりしたら、相手の心が傷つくでしょうから、やめなさいと言われているのです。

『なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。』(新約聖書 ローマ人への手紙 14:17〜19)

   行いやうわべのことをさばいたり、つまずきを与えたとさばくことをやめなさいと言われるのは、義と平和と聖霊による喜びこそ、私達が目指すものだからです。
   まずは平和を求めることが第一です。さばいたり、つまずきを与えたりすると、争いを生じます。そのようなうわべのことにとらわれると、本来目指すものを見失い、本末転倒になります。
   二番目は、霊的成長に役立つことを求めることです。これは、神との関わりに役立つこと、という意味です。互いに神との関わりに役立つことを求めて生きていきましょう。

『食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまづきを与えるような人の場合は、悪いのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 14:20〜23)

   私達が目指すべき生き方は、信仰に生きることです。神を信頼する心を育てることです。信仰は、神と私達をつなぐ橋です。与えられた信仰を使って、神との関係を回復し、大切に育てると、さらに関係を深めることができるようになります。神への信頼がまし加わるように、すべてを信仰によって行いましょう。
   神への信頼に結びつかないことは、何をやっても罪なのです。罪とは心の向きです。心を神に向け、神を信頼し、一つ一つの問題を、神なら解決してくださると信じる戦いをしましょう。問題に出会うことは、神を信頼するチャンス・信仰を育てるチャンスです。神に向く生き方とは、信仰を育てる生き方です。
   問題にぶつかったら、まずは神に祈りましょう。まずは信仰で神は必ず解決してくださると信じ、そして問題に具体的に対処していきましょう。
   苦難にぶつかるのは、神様との距離を近づけ、主を信頼していつまでも変わらない平安をいただくチャンスです。苦難にぶつからなければ、祈りは形式的なもので終わってしまいがちです。しかし、問題が大きければ必死に祈ります。祈る者は必ず神へのゆるがない信頼と大きな平安をいただくことができます。さばかないで生きましょう。