ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2013年9月1日
『愛とは何か?』
 (新約聖書 ローマ人への手紙 13章1節〜)
   ローマ人への手紙は、12章で神にゆだねる生き方を語り、人を裁いたり自分を責めたりすることをやめ、主はすべてを益としてくださると信頼して、ゆだねて祈ることを教えています。それによって、私達はイエス・キリストの十字架の愛に触れ、人を愛する者に変えられていくのです。そして13章からは、神にゆだねる生き方がさらに具体的に教えられています。

『人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 13:1)

   神にゆだねる生き方を実践するとは、まず教会の権威に従うことです。ここでの上に立つ権威とは、社会の権威ではなく教会の権威です。第2次世界大戦の際、ドイツの教会がこの御言葉からヒットラーを支持したのですが、戦後それは誤りだったと認めた例があります。まず従うべきは、神に立てられた権威すなわち教会の権威です。

『したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 13:2〜6)

   神のしもべとは、献身して神に仕える人々のことです。神のしもべを信頼して従うには、神を信じ、神にゆだねなければ、安心して従うことはできません。従うとは、ゆだねるということであり、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る(ローマ11:36)と、御言葉を信じることです。

・従うことによってもたらされる益とは何か

1.自分が守られる

『あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:7)

   神のしもべたちとは、教会の指導者のことです。私達が悪の道に進むことがないよう、日々とりなして祈っています。ですから、彼らに従うことによって、自分自身が守られます。

2.平安を手にする

『また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 3:18)

   従わないことは主を信頼しない不信仰であり、不信仰な人は神の平安を受け取れません。信仰とは神の言葉を信じることであり、信じるとは御言葉に従うことです。

3.恵みを拒否しない

『それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:4〜5)

   かたくなとは、神が与えようとする恵みを拒否する心であり、悔い改めとは、神に憐れみを求めるために心の向きを変えることです。つまり従うとは、神の恵みを拒否しない姿勢なのです。
   このように、従うことによって、魂が守られ、平安と恵みを受けることができます。神にゆだねるには、従うことが不可欠です。

『あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 13:7)

   続いて、社会に対して従うことが教えられています。これは自分自身の義務を果たすことです。小事に忠実なものは大事に忠実であると聖書が教えるとおり、社会に対して忠実に義務を果たすことは、神に対しても忠実に生きることにつながっていきます。
   また、社会に対して従うとは、この世の権威にも従うことです。子は親に、仕事では上司に、所属する団体のルールや国の法律などに従うことです。ただし、第一に従うべきは神の権威であり、御言葉に反することには従ってはなりません。

『だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 13:8)

   社会において従うことは、社会に対して借りを作らないことにもなります。借りがあると言いたいことが言えず、福音を伝える妨げになります。また、借りを作らないようにとは、人を頼るのではなく、神だけを頼るようにという教えでもあります。
   ただし、私たちが互いに愛し合い、愛を受けることは借りを作ることではありません。愛を受けることを拒否してはいけません。なぜでしょうか。それは、愛がすべてを完成させるからです。

『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。』(新約聖書 ローマ人への手紙 13:10)

・愛とは何か

   では、愛とは何でしょうか。
   人が考える愛と、神が教える愛とは、大きく異なります。聖書で神の愛を表すギリシャ語には「アガペー」が使われます。これは当時一般的に愛を表す言葉として使われていた「フィリア」と区別するために、使われ始めました。「フィリア」は、友情・友愛などの愛情です。人の愛と神の愛は、いったいどのように違うのでしょうか。

『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:4〜7)

   愛とは、第一に人に対して寛容であり親切であることです。しかし、これだけならば、人が考える愛となんら変わりません。その違いは、行為に至る思いの違いです。同じ寛容・親切という行為であっても、ねたみから生まれるものであれば、愛ではないと聖書は教えます。
   ねたみとは何でしょうか。その根底にあるのは、人から良く思われたいという思いです。それによって、自分よりも良く思われている人をねたむのです。つまり、寛容や親切でも、人から良く思われたいという見返りを求めての行いであれば、聖書が教える愛ではないのです。
   自慢や高慢も、人からよく思われたいという心の表れです。礼儀に反して相手の感情を害するのも、自分の利益を優先させたいという見返りを求める行動です。怒りとは、自分の思い通りにならなかった時に起きるものですから、裏を返せば、人を自分の思い通りにしたいという心から生まれる感情です。人のした悪を思うとは、人の行いを裁き、いつまでも忘れない様子です。自分自身も人から良く思われたいという願望があるので、その基準で人を裁くのです。
   しかし、神の愛は、相手からの見返りを求めません。愛とは、人から良く思われたいという見返りを求める生き方を捨てることです。
   よく、相手を愛していると言いながら、こんなに尽くしたのにわかってもらえなかったと言って別れる恋人同士がいますが、それは愛ではなく、自分の利益、自分の満足のために人を利用したに過ぎません。親子であっても、夫婦であっても、相手が分かってくれないと言って嘆いたり怒ったりするのは、見返りを求めたに過ぎず、愛ではありません。
   愛は、相手に理解してもらえなくても腹を立てません。無視されても、感謝されなくても、平安でいられます。

   では、見返りを求めなければ、愛なのでしょうか。そうではありません。見返りを求めずに欲を捨て、感謝して生きることは、修練によっても達成できます。しかし、Tコリント13章は、続けて次のように教えています。

『すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:7)

   これは、人に対してではなく、神に対してすることです。神の言葉を信じ、神に期待するがゆえに、人に期待し、人を信頼することができるのです。神を愛するがゆえに、人を愛することができるのです。
   つまり、神を信頼する心が土台になければ、いかなる愛の行いも意味がないのです。
   それは、神を信頼する土台をしっかり持つことで、神の言葉を信じることができるようになり、神の言葉で平安を得るように変わるからです。例えば、「神が私を愛している」という福音の言葉を信じられるようになると、これまで経験したことのない喜び、平安を体験します。すると、人の言葉で心を満たそうとする欲求がなくなり、人からの見返りを求める気持ちがなくなります。それが、聖書が教える愛です。
   愛の根拠は神への信頼です。修練を積んで、見返りを求めないようになっても、悟りを開いても、それは、愛ではありません。神を信頼することが原点でなければ、愛ではないのです。
   聖書が教える愛とは、ただ行いだけを指すのではなく、神への信頼から始まって、見返りを求めない心を持ち、行いに至るという流れのあるものです。その愛をお互いに受け合うように教えているのです。愛は、神から発しているのです。
   神への信頼は、私達の犯した罪を神が赦してくださり、そのことを通して、自分は愛されていると知るところから始まります。多く赦された者は多く愛するようになると聖書に書かれている通り、どれだけ神に愛されているかを知ることが、神への信頼を生みます。信頼が誠の行動につながるのです。それが愛です。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:9〜11)

   愛の流れは、神からスタートしています。愛を自分の力から始めることなどできません。神がまず私たちを愛してくださり、それが見返りを求めない心となって、寛容・親切といった行いになるのです。
   自分の生き方を見て、ずれている箇所を見つけて、神に助けを乞いましょう。自分の罪が赦され、借金が帳消しにされる愛を受けてください。すべては神の愛を受け取るところから始まります。