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2013年8月11日
『何のために倒れたか』

(新約聖書 ローマ人への手紙 11章1〜32節)
『・・・(7節)では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。・・・』(新約聖書 ローマ人への手紙 11:1〜10)

   イスラエルの人々は、旧約聖書の言葉を今日の私たちに伝えてくれました。彼らは、神の言葉を大切に守ってきたのです。しかし、彼らが信じていたのは、その教えを完全に守ることで救われるという誤った考えでした。そのため、イエス・キリストを救い主であると信じ、信仰によって救われたのは極一部の人でした。1〜10節は、難しい説明のようですが、そのことが書かれています。

   では、このことにどのような意味があるのでしょうか。11節でこう述べられています。

『では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 11:11)

   彼らは行いにおいて救われると信じ、聖書の言葉を守り生きてきました。そのため、彼らは確かに倒れてしまいました。しかし、それによって、全世界には、正しい福音が伝わり、多くの人たちがイエス・キリストを信じる信仰を手にし、救われました。
   それでは、イスラエルの人たちは倒れるためだけの存在だったのでしょうか。そうではありません。彼らは、信じるだけで救われるという教えによって救われた異邦人を見て、ねたみを持つようになります。そのねたみから、何が本物であるのかを見極めるようになり、神の福音に立ち返ることができます。ですから、彼らがつまずいたのは、倒れるためではなく、彼らが救われるためなのです。パウロはそのことを続けて語っています。

『もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 11:12〜14)

   このことから、私たちも学ぶことができます。私たちは、人生において失敗し倒れてしまうものです。しかし、倒れても、それでおしまいではありません。倒れることは、そこから学び、再び神に立ち返ることができる道なのです。神はそのように私たちに働きかけてくださいます。

『もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。』(新約聖書 ローマ人への手紙 11:17〜21)

   枝の中にあるものとは、イスラエルの人々のことを指します。オリーブの根の豊かな養分とは、神の言葉のことです。イスラエルの人々は、神の言葉を持っていながら、信じることはしませんでしたが、神の言葉を伝えるという大切な役割を果しました。彼らの働きのおかげで、異邦人(野生種のオリーブであるあなた)も神の言葉にあずかり、救われました。ですから、異邦人はイスラエル人に対して、自分たちが救われたことを誇ってはなりません。いくら誇ったところで、自らの功績で救われたわけではないからです。私たちを救い、支えているのは神です。

   さて、自分を特別だと思って誇るというこの意識について少し触れておきましょう。人は人との比較の中で、自分を特別だと思い、幸せを感じます。醜い考えですが、「人の不幸は蜜の味」ということわざがあるように、自分よりもつらい状況に置かれている人を見るとなぜか安心する、これは、肉の価値観のもたらす価値観です。この価値観によって、私たちはみな、自分は特別な者になることを目指して生きています。

   弟子たちもそうでした。彼らのあこがれは、バプテスマのヨハネでした。みなヨハネのようになりたいと思っていました。しかし、イエス様は、そんなバプテスマのヨハネのことを、天の御国では一番低いものだと言われました。「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」(マタイ11:11)。これは一体何を意味するのでしょうか。それは、神の前では、みなが同じように特別だということです。イエス様は、そのことを、別のときにこうも言われました。「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16)。つまり、イエス様が何を言われたかったかというと、私たちはみな、肉の価値観によって特別な者になることを目指そうとしますが、いくら目指したところで、それ以上特別な存在にはなれないということです。もうすでに特別な存在だからです。

   それでも、私たちは特別な存在になろうとしてしまいます。それは、自分をダメだと思っているからです。神が言われるように、自分が高価で尊い存在であることを信じられていれば、何とかして特別な者になろうとすることはありません。しかし、神の言葉を信じられていないので、特別な者になろうとしてしまうのです。
   特別な者になる簡単な方法は、人をさばくことです。人をさばけば、そのときは、自分は特別なんだという意識を持つことができます。しかし、人をさばけばさばくだけ、心にはつらさが訪れます。また、私たちは、見えるものにしがみついて、自分にはこれがあるから大丈夫だと思い、特別な意識を持とうとしてしまいます。
   しかし、いくらそのような生き方をしたところで、私たちはこれ以上特別な存在にはなれません。それが証拠に、神は、私たちが特別な存在であるゆえ、ご自身のいのちをいとわず、十字架に掛かってくださいました。それが、私たちが特別な者であることの何よりもの証拠です。

   聖書はとにかく、特別な者を目指す生き方ではなく、神のいつくしみとあわれみを感謝する生き方をするように教えています。

『見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 11:22)

   神のいつくしみとは、「イエスを救い主と信じれば救われる」ということで、きびしさとは、「信じない者は救われない」ということです。人が救われるのは、信じるだけで救われるという神のいつくしみのおかげであって、もしそのいつくしみにあずからなければ人は誰も救われない、ということを言っています。この御言葉にある「そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。」とは、イエスを信じない者は救われないという意味であって、行いが悪ければ救いが取り消されるという意味では決してありません。

『彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 11:23〜24)

   イスラエルの人たちは、イエス様を救い主だと信じられていませんが、神の言葉を大切に守ってきた人たちです。ですから、一旦イエス様を救い主だと信じることができたなら、それは、すでに救われている異邦人の人たちよりも神の言葉に精通しているので、信仰が強いということを教えています。

『兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 11:25〜31)

   ここでは、自分を賢いと思うことのないようにと奥義が示されました。その奥義とは、イスラエルはみな救われるということです。これは字面どおりのことを言っているのではありません。この書の著者であるパウロは、イスラエルの人たちが救われることの厳しい現状をよく認識していました(14節)。ですから、ここでパウロがこう語ったのは、イスラエルの人たちが救われる、というパウロ自身の信仰を告白しているのです。そして、そう語ることで、神ご自身がすべての人が神を信じ救われることを望んでおられるということを伝えています。
   まだ救われていない人は、神に敵対し不従順で、私たちからすると、とても救われないように見えますが、神がそうした人たちを不従順の下に閉じ込められたのは、あわれむためだと言われています。よく考えれば、かつて神を信じなかった異邦人も、かつては同様の不従順の中にいました。その中から神を信じ救われました。ですから、決して失望することではありません。むしろ、すべての人が不従順の下に閉じ込められたのは、神の知恵なのです。こうした神の知恵のことは、別の聖書の箇所でも述べられています。


『しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:22)

   聖書の言葉を守ることでは、誰も神の前に義と認められることはありません。誰一人、神の言葉を完璧に実行することのできる人はいないからです。これを、聖書がすべての人を罪の下に閉じ込めたといいます。そのおかげで、行いで救われる道は閉ざされました。神が私たちに与えられた救いの恵みは、人が神を信じるだけで救われるというものです。そして、神はもう一つ、悔い改めるだけで赦される恵みを用意されました。こうして、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めることによって、人々が神のあわれみを受けることができるようにされたのです。ここに神の深い知恵があるのです。