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2013年8月4日
『かたくなな心』

(新約聖書 ローマ人への手紙 10章14節〜)
   イエスは救い主であると告白することで誰でも救われ、その救いは取り消されることはありません。信じて救われた人の心には、イエス・キリストという土台が据えられたので、その土台の上に今までと同じ生き方をすると、虚しさを感じるようになります。その土台にふさわしい建物を建てて、平安を築きましょう。それは、人からよく思われることや、富を得て平安を得る生き方ではなく、神の言葉を食べて平安を手にするという生き方です。
   神の言葉が、私達に喜びと平安をもたらします。その救いのスタートは、イエス・キリストを信じることから始まります。

『しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:14〜15)

   イエス・キリストが救い主だと知らなければ、信じることができません。ですから、救われた私達がすべきことは、キリストを伝えることです。信じて救われた私達は、同時にイエス・キリストを伝える責任を負ったのです。
   まずはその人が救われるように祈ることから始めましょう。救いに導くのは、あなたではなく、信仰を与えてくださる神様だからです。
   次に私達がしなくてはならないことは、つまずきを与えない生活をすることです。人は、自分にとって不快な人の話を聞こうとは思いません。
   パウロは、自分にとっては自由であっても、それを食べてはいけないと考える人がいる前では食べないと言いました。神の前に正しいからといってそれを押し通すのではなく、相手が不快に感じるとわかっていることは行わないと言ったのです。
   聖書には、「妻は夫に従うように」「夫は妻を愛するように」「子どもをイライラさせないように」「上に立つ者に従うように」「敵を愛し、あなたを憎む者に親切にするように」等々の教えがあります。これらは相手をつまずかせないためにも有益です。自分の心の状態に関わらずこれらを実行するのは難しいことですが、自分にはできないことを認め、悔い改め、神の助けを求めれば、砕かれる良いチャンスとなります。
   すべては福音のためです。救われた私達には、伝える義務が生じていることを忘れてはなりません。信仰は聞くことから始まります。あなたが伝えることで、友達・家族が福音を聞くことができます。

『しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:16〜17)


■福音を伝えれば救われるか

『でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現した。」またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:18〜21)

   パウロの同胞の多くは、福音を聞いてもイエス・キリストを拒否しました。つまずきを与えず、福音を伝えても、全ての人が救われるわけではありません。何が神の言葉を拒絶させるのでしょうか。

『それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:4〜5)

   神が悔い改めに導こうとしているにも関わらず、かたくなな心がそれを拒否させます。御言葉を信じさえすれば救われるのに、それをしないのはかたくなな心が問題なのです。


■かたくなな心とは何か

   神は、人を創造した時にひとりひとりに人格を与えてくださいました。人格とは、自分で考えて判断し、自分で選択できる能力のことです。
   神は人が自らの選択で神を愛するように造られたのです。
   ところが、人間は自らの違反のために神との関わりが壊れ、潜在意識の中に死の恐怖を抱くようになり、無意識に安心を選択しようとしています。神との関係が壊れた人間が安心のために依存するのは、人とモノという見えるものです。つまり、人の歓心を買い、見えるものに自分の価値を重ねることで安心を得て、死の恐怖とのバランスをとっているのです。人からよく思われることと富、さらにこの二つで満たされないと、人は快楽を求めるようになります。これらが人の選択の動機であり、かたくなな心の正体です。

   神の言葉を信じて食べることで平安を得るためには、今まで平安の縁としていたものを一旦手放さなければなりません。しかし、イエス様を握りなおすために一旦手放すという行為が、不安で仕方ありません。クリスチャンになっても握っているものが手放せないために、それ以上先に進めず、身動きが取れなくなってしまいます。
   聖書は繰り返しゆだねることを教えています。見えるものが悪いのではなく、それで平安を得ようとすることが問題なのです。自分が安心のために握っているものから手を放し、イエス・キリストとしっかり手をつなぐように聖書は教えています。それなのに、一旦しがみついた手をなかなか離すことができない状態、これがかたくなな心です。
   このかたくなな心をなんとかしない限り、人は心を神に向けることができません。どうしたらよいのでしょうか。
   実は、ここに神の深い愛があるのです。
   神は万物を造られた全能の方ですから、別に十字架にかからなくても、神の権威を使って、罪を帳消しにすることもできました。しかし、わざわざ人の姿をとって私達が本来支払うべき死を十字架で背負い、私達に永遠の命を与える道を選ばれたのは、私たちのかたくなな心を砕くためです。
   神との関係を回復しても、もし、かたくなな心がそのまま残っていたのでは、心を神に向けられず、コミュニケーションが取れません。かたくなな心を取り除くには恐れを締め出さなくてはならず、恐れを締め出す方法は、愛しかありません。そこで神は、人が理解できる最高の愛を示してくださったのです。
   最高の愛とは、共に生きる愛です。欲しい物を与えてくれることが愛ではありません。共に苦しみ、共に悩み、あなたを理解して助けてくれる愛です。
   イエス・キリストは、私達を救うために、愛するために、人の姿となってこの世に来られました。それは、人間の弱さを知り、共に生きる道を歩むためです。共に生きるという愛に触れて、人はキリストに心を開くことができるのです。
   その代表的な人物がザアカイです。それまでザアカイは、上辺で判断され、裁かれることしかされず、誰もザアカイと心を開いて交わろうとはしませんでした。そんなザアカイと主は共に過ごそうと言われたのです。パリサイ人はその様子を見てイエス様をも裁きました。しかしイエス様は、何を言われようとも私はあなたと共に生きる、という態度を貫きました。そして、ザアカイがイエス様を受け入れた時、イエス様ははっきりと「今日、この家に救いが来た」と宣言されたのです。
   イエス様が十字架にかかったのは、私たちの心から恐れを締め出し、共に生きるためです。ただ罪を赦すだけでなく、かたくなな心を砕いて私たちの心を神に向け、神を愛することができるように、十字架で死んでくださったのです。

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:9〜10)

   イエス・キリストが十字架にかかったのは、全き愛で恐れを締め出すためです。私達が心を閉ざしているのは恐れがあるからです。恐れがあるかたくなな心のままで御言葉を聞いても、信じれば救われると言われても、受け入れることはできません。全き愛しかこの恐れを締め出すことはできないのです。
   神様は、人が心を開くことができるように、私達が理解できる最高の愛の形を自ら示してくださいました。皆さんが伝道する時も、愛しか人の心を開くことはできないことを覚えておいてください。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

   イエス・キリストは、あなたの罪をすべて背負って十字架にかかり、その罪を赦してくださいました。あなたが責められるのではないかと心配して隠している罪を告白することで、その心配をやめられるように取り計らってくださいます。キリストは、私があなたを弁護して助けるから、守ってあげるから、私に任せなさい、と言って、あなたの心を開こうとしておられます。
   イエス・キリストは優秀な弁護士だから、安心してお任せすることができます。心配しないで心を開きましょう。

『私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための―私たちの罪だけでなく、世全体のための―なだめの供え物です。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:1〜2)

   宗教改革を論理的にサポートしたカルバンは、イエス・キリストは私達の罪を罰して裁く方だという当時のローマ教皇の教えを信じる人々に対して、上記の御言葉を引用して反論しました。当時は、ローマ教皇は聖書の教えに勝る権威を持ち、聖書にはない教えが横行していた時代です。
   あなたは神にどのようなイメージを持っているでしょうか。神は愛です。神はどこまでもあなたを弁護してくださいます。心配しないで、イエス・キリストを信頼して頼るなら必ず助けられます。かたくなな心を開き、主と共に生きましょう。

『わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』(新約聖書 黙示録 3:19〜20)

   かたくなな心を開かない限り、神の言葉を信じることができないから、イエス・キリストは、あなたの心をノックし続けておられます。イエス様は、十字架にかかってあなたの罪をすべて帳消しにし、あなたを弁護するから何も心配いりません。すべてを主に任せましょう。主が共に食事をしようと言われるのは、喜びも悲しみもともに分かち合い、共に生きようという意味です。心のドアを開きましょう。

   私達は、信じるだけで救われます。神の言葉を食べるだけで平安になります。それを妨げているのはあなたのかたくなな心であり、それを砕くのは十字架の愛しかありません。
   神はあなたを本気で愛しておられます。私の目にあなたは高価で尊いと言い、何も心配しないで私の愛を信じて欲しいと心の戸をノックしておられるのです。