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2013年7月21日
『神のあわれみ』
(新約聖書 ローマ人への手紙 9章16節〜)
   人は死んだらどうなるのか・・・この疑問に対して、ほぼすべての民族が死後の世界を信じ、死んだ後に天国に行くことを願っています。ローマ人への手紙は、そのような人々に答える形で書かれています。

『したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」』(新約聖書 ローマ人への手紙 9:16〜21)

   神は、人間を造られた時、一人一人に人格を与えられました。人格とは、自分で判断し、選択できるということです。神は、人格を無視して人々を支配するようなことはしません。もし神が、人格を否定して人を操るならば、人間はロボットと同じになってしまいます。アダムとエバが善悪の知識の実を食べた時も、彼らの選択を神は支配しませんでした。神は人間に良い情報を提供しますが、一人一人の意志と選択を尊重されます。
   神が人をあわれむとは、神を求めない者の人格を操って強制的に支配することではありません。神は全知全能ですから、提供した情報を誰が信じるのかあらかじめ知っておられるので、求める者に信仰をお与えになるのです。
   神が信仰を与えなければ救われないのに、なぜ神は救われない人をさばくのかと疑問を抱く人々に対して、そもそも造られた人間が造った方に対して文句を言うことはできないとパウロは言います。その上で、神には深い計画があることを教えています。

『ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容を持って忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 9:22〜24)

   神は私たちを自由に造ることができると同時に、自由に滅ぼすこともできます。陶芸家は、自分の気に入らない作品を、釜から出した瞬間に壊してしまいます。しかし、私達が生きているということは、神には私達を生かす意味があるということです。人と比べては自分をダメだと言い、滅ぼされても文句の言えない罪人であるにも関わらず、生かされている意味とは何でしょうか。
   それは、神が私達を救いたいからです。パウロは、罪深い生活をしているあなたがたが生かされているのは、憐れみを受ける器として造られたからだ、異邦人にもかかわらずイエス・キリストを知り救い主を信じることができたのは、神の憐れみを受けたからであり、この憐れみを受けるために神はあなたがたを生かしているとは思わないかと問いかけます。
   異邦人とはイスラエル以外の民族のことです。神がご自身を啓示したイスラエルしか救われないと考えられていたのに、なぜ異邦人である自分たちが救われたのかを考えてみれば、神が私達を憐れもうとしておられることがわかるだろうとパウロは訴えます。
   旧約時代のノアの箱舟は、滅びから救い出す神の憐れみを私達に教えています。神は、すべてを滅ぼす大洪水からノア達を助けるために箱舟を作らせました。人々は神の計画を信じるノアを笑いましたが、ノアの家族は信じて箱舟を作り、救われました。
   今も多くの人々が世の中で楽しく生きることに気を取られ、やがて訪れる死をなかなか考えようとしません。しかし、人間は皆生まれながらに死を背負って生きています。造り主さえ知らず、霊的にも、肉体的にも死んでおり、時が来れば皆滅びます。そんな私達のために、今日、神はイエス・キリストという船を用意されました。イエス・キリストは十字架にかかって、自ら私達の死を背負われました。イエス・キリストを信じるならば、誰でも助けると約束されています。
   放置すれば滅んでいく罪人の私達を神が放っておかないのは、ただ助けたいからです。私達が自らの意志でイエス・キリストを信じる選択をするのを、忍耐して待っておられるのです。私達は自分の理解できないことに対して、つい「なぜ?」と神に文句を言ってしまいます。しかし、文句を言うのではなく、神の憐れみを知り、神の計画があると知ることができればなんと幸いでしょうか。

『では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。』(新約聖書 ローマ人への手紙 9:30〜33)

   イスラエルの民は、神から律法をいただいて義(救い)を追い求めたにもかかわらず、それに到達できませんでした。一方、異邦人は、救い主がおられることも天地万物を造った神がおられることも知らず、別の教えを聞かされてきましたが、今多くの異邦人が救われています。
   なぜそのような違いが生まれたのでしょうか。それは、イスラエルが、信仰によって追い求めることをしないで行いによるかのように追い求めたからです。一方異邦人は、信仰によって救いを手に入れました。
   人間は、本人が意識するしないにかかわらず、死に怯えて生きています。そして、無意識に死を克服したいと願い、行いによって救われる希望を抱いているのです。それはこの世の生き方の延長で死後の世界を考えるため、立派な行いや徳を積むことで、なんらかの憐れみを受け、死後も救いを受けるのではないかと思っているからです。これは神の律法を与えられたイスラエル人も例外ではなく、律法を頑張って行えば天国に行けると信じ、それを厳格に守ろうとしました。しかし、そのような行いによって、神の国に行くことはできません。
   神が律法を与えて行いの基準を示したのは、人間はそれを実行することのできない罪人であることを自覚させるためです。自分が罪深い人間であることを知り、神に憐れみを求めるようになるためです。
   ところが、人々は正直に自分を認めて神に憐れんでもらう代わりに、自分の出来ることを誇り、人と比較しては、できない人をさばくようになりました。そして、行いによる階級システムを作って、上の階級の人は天国に行けると信じるようになりました。上位階級に行くための一つの条件はお金であり、お金をたくさん持っている人は神に愛されていると信じられていました。 人から認められれば、富を手に入れれば、死んだあともなんとかなるだろうという考えたわけですが、行いで神の国を目指した人は、神の国に入れませんでした。

   茶道を完成させた千利休は、茶室に、にじり口という小さな入口を設けました。その狭い入口から入るためには、武士は刀を外さなければ長い刀が引っ掛かってしまい、中に入ることができませんでした。こうした入口をわざわざ利休が設けたのは、茶室では身分の上下はないという意味を示したかったからでしょう。秀吉は金の茶室を作りましたが、利休の作った茶室はそれとは対照的な質素で素朴な茶室です。
   実は利休は、有名なキリシタン大名の高山右近の親しい友人であり、利休の妻もクリスチャンでした。当時その地域ではキリスト教が公に認められていたため、利休もキリスト教の教えを受けていました。その中でも特に利休が感銘を受けた教えが次の聖句です。

『狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:13〜14)

   狭い門とはイエス・キリストを指します。行いではなく、十字架にかかられたキリストを通してでしか救われないという教えに、利休は感銘を受けました。茶の道を極めたほどの利休ですから、自分自身の罪深さと自分の心の貧しさを悟り、立派になって評価されることでは救われないと知っていたのです。行いとは関係なくキリストを信じる信仰によって救われ、神の前では皆平等であるという教えに感銘を受け、この教えからヒントを得て利休は茶室を作ったと考えられています。
   信仰で救われる道には希望があります。行いで救われると考えると、どうして自分なんかが救われるか、どこまで徳を積めば神の国に行ける保証があるのか、真面目に考えれば考えるほど不安になります。しかし、信じるだけで救われる道はすべての人に希望があります。
   イスラエル人は行いで救いを得ようとしたために救われませんでした。私達も立派なことをすれば救われると思っていたのでは救われません。ただ信じるだけ、ただ方舟に乗るだけ、ただ狭い門から入るだけで良いのです。ただそれだけで永遠の命がいただけます。
   この世の中には、救われるには立派なことをしなさい、成功を収めなさい、という広い門がたくさんありますが、そんなものから得られるものは何もありません。神は私達が神を信じる選択ができるように、忍耐して待っておられます。

『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 1:18〜21)

   いくら立派な教えを語る人がいても、それで天国に行けるわけではありません。救われる道は十字架を信じるしかないのです。それは、この世からすると愚かなことであり、お金を信じたり、偉くなることを求めたりするほうがいいと思うかもしれません。実際、多くの人が、それを手にすることが救いだと思って頑張っています。
   しかし、ここに隠された神の深い知恵があるのです。神はこの世の知恵を愚かなものとし、信じる信仰によって救おうとされたのです。

『これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 1:29)

   行いも努力もなく、ただ信じるだけで救われるなら、誰も自分を誇ることはできません。神は私達を憐れみ、私達を、努力や行いには関係なく、助けたいのです。一人一人が与えられた人格によって、それを選択すればよいのです。神を信じることから始め、神を信頼する道に行き着きます。

『それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」』(新約聖書 ローマ人への手紙 9:33)

   つまずきの石、妨げの岩とは、イエス・キリストです。この世にとっては、愚かに見えても、キリストを信頼するならば、決して失望させられることがないのです。
   歴史上、イエス・キリストを信じた人たちが世界で何をしたかを考えれば、キリストを信頼することが、どれほど彼らの力になったかがわかります。この世には、いろんなイデオロギー・考え方が生まれ、その多くは廃れましたが、神の言葉は今も生きて私達を導いています。イエス・キリストを信頼し、信じ続けて生きていきましょう。