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2013年6月30日
『すべてを益とされる』
(新約聖書 ローマ人への手紙 8:24〜)
『それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:20)

   アダムとエバが違反を犯したことにより、人間以外の被造物も滅びの世界に入れられました。違反によって神との関係が壊れ、自然界との関係も壊れて、神が人のために用意した自然が、人に対して猛威を振るうようになったのです。
   死とは、神との関係が壊れることで、これを霊的な死と呼びます。同時に、肉体も滅びるものとなり、これを人々は一般的に死と呼びます。多くの人は、死は神が罪に対して与えた罰だと考えますが、そうではありません。神はあらかじめ神との信頼関係に違反すると死ぬことをアダムに告げておられますから、自動ドアの前に立ったらドアが開くのと同じで、違反の結果死ぬものとなったのです。
   もちろん神は全能の方ですから、死を強制的に食い止めることもできたのですが、あえてそれをされなかったために、神が虚無に服従させたという表現になっています。つまり、アダムとエバが作り出した状態を容認したということです。それは、病気の自覚のない子どもに自覚を持たせ治療を受けさせるのと同じように、人が痛みに気づいて神に心を向けるようにさせるためです。アダムとエバにどういう事態になったのかを自覚させ、神に助けを求めるように導き、助かる望みがあることを知らせたのです。
   霊的な死とは、神の前では死んでいる状態です。ですから、この体が滅びると同時に魂も滅びてしまいます。体に宿る霊は、神とつながって初めて永遠に生きるのです。
   アダムとエバは、この時、神との関係が壊れたことに気づいていませんでした。そこで神は、彼らにそれを気づかせるために、滅びることを容認されたのです。これは神の罰ではなく、私達を助けるための愛です。
   神は、人を造られた際、ご自身に似せて人格を与え、自分で選ぶ意志をお与えになりました。神が愛ならば、なぜ強制的に救い出さないのかと疑問を抱く方もいると思いますが、人間の意志を破棄すると、それは人間ではなくロボットと同じです。人の人格を奪いロボットにすることは、滅びよりさらに悪い状態です。神は人格を大切にし、人を人として救いたいのです。
   主があえてこの世界が滅びることを容認しているのは、私達は、死というものを目の当たりにしなければ、人生がわからないからです。死という虚しさを知り、人生の虚しさを知ることで、神に繋がっていなければ全てが虚しいことを知るのです。

『私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:24,25)

   私達は、死んだら神の国に行くと信じていますが、証拠を見せられたわけでも、見えるもので保証されたわけでもありません。ただ、聖書がそう教えるからという理由で信じているのです。しかし、誰もが、死んだあと本当によみがえるのかという不安を持ったことがあるでしょう。ですから、信じて救われた者が、希望を持って生きるには、忍耐が必要です。

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:26,27)

   神はただ気づかせるために閉じ込めただけではなく、あきらめることなく、希望を失うことがないように、御霊ご自身が助けると約束しておられます。神は決して見て見ぬふりをしているのではありません。私達に気づかせ、支えて、助けてくださっています。三位一体の神のお一人である御霊が、私たちの中に働いて、弱い私たちを助けてくださっているのです。どのように助けてくださるのでしょうか。

1.祈りを助ける(異言を伴う聖霊のバプテスマ)

   御霊のとりなしのひとつが異言の祈りです。
   聖書の約束を信じて待つのは、実は忍耐がいることです。私達は、見えるところの変化が起きないとあきらめそうになりますが、このような時、異言で祈ると、勇気と神の励ましを感じます。御霊がとりなして助けてくださるからです。
   異言で祈る体験を聖霊のバプテスマといい、主ご自身がこのことについて教えておられます。(使徒の働きの1〜2章)イエス様は復活後昇天される前、弟子達に、福音宣教の働きを始めるにあたって主が与えようとしているものを受けなさいと言われました。弟子達が言われた通りに待っていると、聖霊が下って、人々は異言で祈り始めました。その後弟子達は、世界中に出て行き、素晴らしい働きをするようになったのです。
   異言で祈ると励まされ、慰められます。異言で祈れば祈るほど、魂に平安を感じます。現代は、このように御霊の働きによって神の働きを推し進めていく派をペンテコステ派と言います。ぜひ御霊のとりなしによる異言を求めてみてください。合同祈祷会でお祈りいたします。

2.悔い改めを助ける

   神が一番喜ぶことは、悔い改めです。主は、99匹と1匹の小羊のたとえを通して、一人の人が悔い改めるならば、天で喜びが湧き起こると言われました。私たちが心の向きを変えることを、主は一番喜ばれます。御霊が聖徒のためにとりなすとは、悔い改められるように助けることです。
   神の慈愛は、私たちを悔い改めに導き、見えるものに頼るのではなく、神を信頼するように導きます。このとりなしによって、神を信頼して悔い改め、軌道修正し、忍耐を持って待ち望むことができるように助けられるのです。

3.すべてを益として助ける

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:28〜30)

   神は絶対に私達を助けてくださいます。なんと心強いことでしょうか。ですから、見えるものがどうあっても、忍耐して信じて待ち続けよと主は命じられているのです。しかし、すべてのことを益とされるためには、実はひとつだけ条件があります。それは、「神を愛する人々」ということです。「求めよさらば与えられん」というのが、神の原則です。神は、人間をロボットのようには造らず、人格を与えました。ですから、人は自分自身で求めることができます。求める者には誰にでも与え、求めない者には与えないのが、神の平等です。

・神を愛する人とはどういう人か

1.罪を悔い改める人。赦された経験を持つ人

『ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。』(新約聖書 ルカの福音書 7:41〜43)

   罪に気づかず、悔い改めたことのない人は、神を愛することはできません。神を愛する心とは、借金がいくら許されたかで決まります。つまり、多くの罪を赦されれば赦されるほど、多く愛するようになります。主を愛さないものは少ししか赦されたことがないのだと主は言われます。
   罪というものを、この世の法律を犯すようなものだと考えていると、「自分は罪を犯したことがないので、悔い改めることがわからない」という人もいるでしょう。しかし、聖書が教える罪とは、心の向きであり、心を神に向けないことです。神を頼らず、信頼しないことです。
   当時パリサイ人は、聖書が教える良い行いを熱心にする集団で、人々の尊敬を集めていました。ところが、そのパリサイ人に対して、イエス様は、「白い墓」のようだと言われました。表面は美しく見せているけれど、心の中は腐った死体のように醜いと言われたのです。彼らの行いは、表面的な良さに目を留め、ただほめられたいだけで、心が神に向いていない・・・・・・これが罪であると教えられたのです。
   神を神として認めず、人やお金を信頼して生きてきたことがどれほど大きな罪であり、これが赦されるとはどれほど大きな赦しか、これがわかると、神を愛さずにはいられなくなります。
   パウロは、こんな自分を赦してくれたのがイエス・キリストだと気づき、神のために生きる決心をしました。
   多くの罪が赦される経験を通して人は砕かれ、初めて自分は愚かで弱い人間だと知ります。そして、教えられた自分の愚かさ弱さを悔い改めれば、すべては益と変えられるのです。

2.自分の召しに従う人

   神はすべての人に計画を持ち、キリストの体の一部として役割を与えておられます。その召しに従いましょう。

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:27,28)

   神は、一人一人キリストの体の一部として目的を持って造られました。神が与えた役割を見出して専念することが、神を愛することになります。そのためには、自分は何のために召されているのか、神の前にひざまずき、聞かなくてはなりません。
   すべての人に働きがあります。主が目的を与えてくださっているのに、何のために生きるのか、あいまいなまま生きているのは実にもったいないことです。自分は何をすべきか、何に召されているのか、その働きをすることが神を愛することです。
   イエス様は、エルサレムに入城される際、誰も乗ったことのないロバに乗られました。(ルカ19:30)それは、全ての人に働きがあることを知らせるためです。本来王の入城は、華々しく立派なものです。しかし、イエス様が乗られたのは、誰も乗らないようなロバです。この世界ではまったく役に立たないと馬鹿にされるような人も、神の目には必要な存在です。神はその者をご自身の働きにお用いになります。

『だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』(新約聖書 ルカの福音書 7:47)

   神は、ご自分の足に香油を塗った女性の働きに大変感動して、その女性をほめました。(ルカ7:44〜)高価な香油を突然足に注ぐなんて、人の目には、あまり意味のない行動に見えました。しかし、十字架にかかるという主の働きに対して、香油を塗る働きに気づいた彼女は、自分の出来ることを行ったのです。
   人は、それぞれにできることがあります。この世ではたいしたことのない働きにうつるかもしれませんが、神の前にはそうではありません。自分の働きのために祈り、神に聞いてみましょう。

3.信頼する人

   愛するとは信頼すること、つまり、つぶやかないことです。神を信頼してつぶやかず、感謝することで、神はすべてを益とされます。神を信頼するとき、どんな問題でも神はプラスにしてくださいます。あきらめないで、つぶやかないで、祈り続けましょう。神ご自身があなたを励ましておられるのですから、神を愛する戦いをしましょう。