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2013年6月16日
『相続人』
(新約聖書 ローマ人への手紙 8:14〜)
『神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光とをともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:14〜17)

   私達は神の子として二つの相続権を持っています。一つは神の相続人として永遠のいのちをいただき天国に行くことのできる権利であり、もう一つはキリストとの共同相続人として神との親しい関係を引き継ぐ権利です。同様のことが次の御言葉からも理解できます。

『しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:22、23)

   神がくださる永遠のいのちには、罪と戦うことで行き着く永遠のいのちと、賜物としていただく永遠のいのちとがあるということです。前者は神と共に生きる中で与えられる平安を意味し、後者は神の国に入ることができる権利のことです。
   神は、私達にこの財産を相続してもらいたいと願い、永遠のいのちを得させようと、ご自身の命を犠牲にされました。イエス・キリストの十字架の贖いを信じることで、神の国に入ることができ、神の相続人になることができます。それは、どのようなことでしょうか。

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:9、10)

   イエスは主であると信じて告白できるなら、自動的に神の相続人になります。そして、イエスが主であると信じると、主がよみがえったことを信じることができるようになり、さらに自分自身もよみがえって永遠のいのちを得ると信じることができるようになります。
   バプテスマを受けるとは、信仰を告白して証することです。バプテスマによって救われるのではなく、信じた結果、告白としてバプテスマを受けるのです。バプテスマという行いによって救われるわけではありません。
   さて、さらに神は、神の国に入る権利だけでなく、キリストとの共同相続人としてキリストと共に生きる権利を用いて、神との親しい関係を築いてもらいたいと願っています。
   それは、戸籍上の親子になり永遠のいのちという財産を譲られただけではなく、親子として親しい生活を送ることができるようになったということです。
   キリストと共に生きると、平安・安心という素晴らしい恵みが与えられます。死に対する恐怖や不安を抱いていた私達は、キリストを信じるまでは、見えるもので安心を得ようとしてきました。この世で安心を得る方法は、大きく分けると、人からよく思われることで安心を得る方法と、富や物を持つことで安心を得る方法があります。また、快楽をむさぼることで安心を得る生き方もあります。
   しかし、このような見えるものは、私達の心に一時の安心を与えることはできますが、その安心はじきに薄れ、むしろつらさが沸き起こるようになります。
   ですから神は私達に、見えるものによる安心ではなく、神の安心を手にして欲しいと願っているのです。それは、この地上で与えられるものとは全く異なり、心の奥深くに入り込み、私達を慰め励まします。この平安は、神との関係を築き、神を信頼することで手にすることができます。これがキリストとの共同相続人であるということであり、永遠のいのちに行き着くということです。
   この平安のことをヘブル書では安息という言葉で表しています。神との親しい関係を築き、平安を手に入れる道を、ヘブル書を通して学んでみましょう。

『ですから、私たちは、この安息に入るように力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:11〜16)


1.御言葉に従う

   神の安息に入るため、すなわち平安を得るために、第一に必要なのは、従順です。
   不従順の例とは、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの人々が、不従順によって安息の地に入れなかった出来事を指しています。 安息を相続するためには、まず神の言葉に従う姿勢が大切です。永遠のいのちは信じるだけで得られますが、平安は御言葉に従うことなくして手にすることはできません。

2.従えない自分を発見する

   御言葉に従う目的は、その行いができるかできないかにあるのではなく、心の中が判別されることにあります。行いに関して言えば、できないことに気づくことが目的です。御言葉に従おうと思っているのに、心の中にそれを邪魔するものがあることに気づくことが重要なのです。この邪魔するものが罪です。

『私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:19,20)

   罪は、二つの罪に集約されます。一つは、この世の心遣いという、人に良く思われたいという心です。もう一つは、富の惑わしという、金銭を愛する心です。神の言葉に従えない理由は、このいずれかの心に当てはまります。この罪に気づくことができれば幸いです。

『いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22)

   あなたの中に、御言葉に従おうとするとき、それはできないと反発する自分がいるはずです。神は、それを見つけて欲しいのです。なぜなら、それをどけないと平安を手にすることができないからです。御言葉に従う目的は、自分の中にある罪に気づくためです。
    私達は、罪は悪いものだと思っているので、罪を隠そうとしますが、何も隠す必要はありません。罪は私たちの価値を表すものではありません。むしろ、罪は病気と同じなので、病気であることに気づき、医者を求め、医者との関係をしっかりと築くことが大切なのです。私たちの罪をいやす医者こそ、イエス・キリストです。

3.神の前に罪を差し出す

   神は私たちの弱さに同情してくださる方です。イエス・キリストは、私達を裁くためではなく、救うためにこの世に来られました。神と私達の関係は、医者と病人の関係です。御言葉を頑張って実行してほめてもらう関係ではありません。罪を差し出すならば、治療してもらえるのです。

『すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」』(新約聖書 ルカの福音書 5:30〜32)


   罪は、自分ではどうすることもできない病気です。この世のものにしがみついて平安を得ようとすることをやめ、イエス様にしがみつくならば、イエス様が私達の罪をいやしてくださるのです。
    神に罪を差し出すと、心に言いようもない平安が来ます。必ず平安が訪れますから、平安が来るまで祈ってください。放蕩息子が家に戻って罪を言い表した時、父は彼を豊かに祝福しました。悔い改めるとは、神に助けを求め、憐れみを請うことです。そのように神のもとに来た人間に対して、神は決して、お前はダメなやつだとは言わず、むしろ、「よく来たね、よく戻ってきたね」と祝福してくださるのです。
    悔い改めとは方向を変えるという概念があります。今まで見えるものにしがみついて生きてきた方向から、心を神の方向に向きを変えて神にしがみつくことが悔い改めです。こうしていやされていくのです。

『あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』(新約聖書 ルカの福音書 7:46)

   神の恵みの御座に近づき、罪を告白するならば、誰でも罪を赦してもらえます。多く赦された者ほど、神を多く愛するようになります。こうして、心から神を愛し神を信頼する心を持つことが、神が教える平安・安息です。

   これが、キリストとの共同相続人が引き継ぐ宝です。自分の弱さに気づき、神の憐れみを求めて祈ることができると、神の平安・安息を自分のものにすることができます。この世で得たものは、何一つ神の国に持っていくことはできませんが、神を愛する心と神への信頼は、天国に持っていくことができる宝です。

『天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。』(新約聖書 マタイの福音書 13:44)

   永遠のいのちがあるとわかり、それがどんなに素晴らしいものか気づくなら、今までしがみついていたものに何の価値も見出さなくなるでしょう。神が用意した宝は本当に素晴らしいものです。しかし、見えるものにしがみつくという罪に惑わされていると、その素晴らしさが見えません。その罪を神に差し出し、神の助けを求めましょう。