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2013年5月12日
『リハビリ』
(新約聖書 ローマ人への手紙 6:1〜)
   人間のつらさ・苦しみの原因は、見えるもので安心を得ようとすることにあります。見えるものとは、人の愛や金銭などです。人から愛されるためには、相手の期待に応えなければなりません。お金を得るためには、様々な苦労があるだけでなく、富を求めて争いや敵意や憎しみが生まれます。このような生き方を聖書では罪の奴隷と言っています。
   この生き方の起源は、アダムとエバの違反によって、神との関わりを失ったことにあります。人間はもともと食物も心の糧も神から得ていたので、神との関わりを失ったら、それらを自分で手に入れなくてはいけません。
   神との関わりが断たれた状態を、聖書では死と言います。そして、神以外のもので心を満たす生き方が罪です。すべての人間は罪に生きるしかなく、自分の力では神との関わりを取り戻せません。ここから救おうとするのが、神の救いの計画です。救いは良い行いをすることで与えられるのではなく、イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、信じるだけで与えられます。
   では、救われるために行いが必要ないなら、私たちは好き勝手な生き方をしていいのでしょうか?神との関係を回復するために必要なものではないのなら、聖書に書いてある行いにはどんな意味があるのでしょうか?

『それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:1〜5)

   信仰だけで救われるならば、罪の中にとどまっていてもいいのでしょうか?そうではありません。救いとは、神と人との関係の回復です。神との関係が回復すると、永遠の命が回復します。その命にあって新しい歩みをすることが、救われた後の生き方です。今までの生き方はつらいから、それをやめて、神との関わりで平安を手にする本来の生き方を取り戻すことが、神の願いです。

『もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:6〜9)

   死とは、神との関係が壊れた状態で、救いとは、神との関係が復活することです。キリストの十字架の死によって神と離れていた過去の自分が死んだものとされ、もはや死は私達を支配していません。それは復活のキリストとともに生きること、すなわち、これからはキリストとの関わりによって心の糧を得て平安になる生き方に変わるということです。

『なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:10,11)

   ローマ人への手紙で「罪」とある場合は、死と同義語です。つまり、「罪に対して死んだ」とは、神との壊れた関係が回復したという意味です。
   今までは、神抜きに生きてきたので、見えるものに安心を求める行いしか知りませんでした。しかし、今は神と共に生きているのだから、神に安心を求める行いに変えなさいと教えているのです。聖書で教えられている行いは、救いに必要なものではなく、神との関係が回復した人に与えられる平安な生き方なのです。


   三位一体の神は、互いに愛し合い、仕え合い、信頼し合う関係で結ばれた一つの神です。その神の命を与えられて造られた人間は、もともと、神を愛し、仕え、主を信頼する心しか持っていませんでした。ところが蛇に騙されて、人はその信頼関係に違反し、霊的な関係が壊れました。これが、聖書の教える死です。一点の曇りもないところに、一つでも違反があれば、その関係は壊れます。死とは、神との関係の崩壊です。罪の罰ではありません。
   共におられた神が離れたことで、人は心の糧を失いました。無条件の神の愛を失い、人は代わりに心を満たすものとして、人からの愛を求めるようになりましたが、人は無条件で愛してくれないため、人の期待に応えようと人の目を気にする生き方になりました。
   また、永遠の神の命も離れていったため、滅びるものとなり、生きたいという願望が生まれました。生きるために食物を求め、そのために富を得たいという願望が生まれました。
   人の愛と富を求める心が肉の思いであり罪です。しかし、人の心から神を愛し仕えたいという心が消えたわけではありません。神を愛する思いと、人と富を求める思いとに心が分かれ、その結果、様々なつらさが生じているのです。
   神は、この状態から私達を救いたいと考えますが、この世の心づかいと富の惑わしがそれを邪魔します。

『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22)

   「この世の心づかい」とは、人からどう思われるか、つまり人に愛されたいという思いです。これは、心を分割するという意味の「メリゾー」から派生した「メリムナ」という言葉が使われています。「ふさぐ」というギリシャ語の本来の意味は、窒息させるという意味です。この世の心づかいと富の惑わしが霊的にあなたを殺している、つまり、分割された心が神と逆方向に向き、御言葉を聞けなくしているということです。
   そこで神は、行いとは関係なく人を救い出す道を用意しました。私達の心はもともと神が住まわれる神殿です。この神殿に神が再び戻ってくることが救いです。つぎ合わせる、罪に死ぬ、十字架に死ぬ、すべて神が再び私達の心の中に住まわれることを表します。神が再び自分の中に住まわれるようになった人がクリスチャンです。この救いは永遠のもので、一度救いを受け入れたら、神は永遠に住み続けてくださいます。

   聖書で教えている行いは、神との関係を回復した人がどのように生きれば平安なのか、という教えです。神が心に戻ってこられたので、私達は神との関わりの中で安心できるようになり、人やお金で安心を得る生き方はもういりません。今までのような心の食事を取る必要はなく、新しい食事に切り替える必要があります。その生き方を教えているのが、聖書の教えです。ちょうど病から回復する過程にリハビリがあるように、今までの食事から正しい食事に切り替えるようなものです。医者の手術は成功し、その後のリハビリに取り組むのは自分自身です。その結果、本来の姿を取り戻すことができるのです。
   救われてもつらさがなくならないのは、今までのような食事をやめないからです。多くのクリスチャンが、富の平安を捨てずに、神からの平安をつかもうとしていますが、神と富の両方に仕えることはできません。富や人で問題を解決しようとするのをやめなければ、いつまでたってもつらさから解放されません。反対に、神の言葉の食事に切り替えが進めば進むほど、平安が増し加わります。

   聖書が教える行いは、救いのためではなく、心を神に向けるためのリハビリプログラムです。富に向く心を神に向ける最も効果的な行いは、マラキ書で教えられている什一献金です。私達の心はお金のあるほうに向きます。十分の一を神に捧げることで、神に心を向けることができるようになるのです。つまり、什一献金は、神に愛されるための義務ではなく、自分の心のために行うものなのです。

『人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉献物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。』(旧約聖書 マラキ書 3:8〜10)

   「のろい」とは、心を神に向けないつらさのことです。お金の虜になり、見えるものに心を支配されるつらさです。金銭を愛することがあらゆる悪の根であると聖書にある通りです。
   聖書の中で、神を試しても良いと言われているのは、什一献金に関するこの箇所だけです。什一を捧げると、富は減りますが、不思議と心は神に向きます。あなたの富のあるところにあなたの心もあるからです。(マタイ6:21)生活が苦しくなると祈るようになり、心の糧を得られるので平安になります。神からの平安を得られるようになると、思い煩いや不安をごまかすために酒や快楽に走る必要もなく、投資で安心を得ることにも興味を失い、無駄な出費も減ります。自分に害をもたらす趣味や暴食、飲酒、喫煙などがなくなって健康になり、さらに出費が減ることもあります。
   什一を捧げることが不安な人もいると思いますが、逆に豊かになって助けられますから、何の心配もいりません。見えるもので安心する罪の奴隷になっているから不安なのです。これは、神様への信頼を成長させる信仰のチャレンジです。
   什一は、聖書が教えている代表的な行いです。それは、救われるためでもなければ、義務でもありません。自分の回復のために必要なリハビリなのです。

   さて、富に向く心を神に向けるよりも、人に愛されたいという思いを神に向けることのほうが、多くの場合難しいものです。
   多くの人は、恥をかくことを恐れ、世間に顔向けできない生き方を恐れ、必死に人との関わりを保とうとします。しかし、人との関わりで自分を量るから、自分はダメだという思いにとらわれるのであり、この心を神に向ければ、自分は素晴らしいと知る道が用意されています。 人からどう思われるかという心を神に向けるために、最も効果のある行いは、伝道です。

『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』(新約聖書 マルコの福音書 16:15)

   伝道を目指すと心は神に向きます。救いのために祈り、福音を伝えていくのは、人から良く思われるためではありません。むしろ、迫害されたり、理解されずにつらいこともあるでしょう。しかし、このような時、神は、言葉では言い表すことのできない素晴らしい慰めを与えてくださいます。この世の悲しみは、神の慰めを受けて、平安に変えられていくのです。
   伝道は、肉の思いを消去して神の言葉を食べる方向に切り替えるベストな道です。
   この軌道修正によって、肉の思いが小さくなり、神との関わりの中で生きる本来の自分の姿に戻っていきます。
   聖書で教えられている行いは、救いを得るためではなく、神との関わりで平安な生き方を実践するためのものです。救われた私達に次に必要なことは、神との関係で平安を手にすることです。心を神に向けるリハビリとして最も効果がある、什一献金と伝道を実行してみましょう。