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2013年4月21日
『なぜ信じるだけで救われるのか?』
(新約聖書 ローマ人への手紙 4章1〜17節)
   聖書が教える「すべての人は罪の下に閉じ込められている」とは、本来、神を愛し、神に仕えるように造られた人間が、罪を犯したことで心が二つに分割され、どうすれば自分が愛されるか、どうすれば生きるためにお金を得ることができるかに心が向いている状態のことです。
   人が罪を犯したことで死がもたらされ、それまでに体験したことのない恐怖と不安が生まれました。こうして見えるものにしがみつく心が生まれ、人の関心と富を求める心と、本来持っていた神を求める心とに、心が分割されました。これがすべての思い煩いやつらさの原因です。神が造った心と逆の方向に向かっているため、不安でたまらないのです。
   この苦しみから人間を救い出すために、キリストはこの世に来られました。人間は、自分の力で死を取り除くことはできません。神に助けていただくしか道はないのです。これを信仰による救いと言います。

『それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。
もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬が恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:1〜8)


   「義と認められる」とは「救われる」と同じ意味です。アブラハムは、行いによってではなく、信仰によって救われました。ダビデも行いによらず救われる道を語っています。ユダヤ人は、救いは行いによると信じていましたが、パウロはその誤りを指摘するため、ユダヤ人の理想とする人物であるアブラハムとダビデを引用しました。
   「救いは行いによる」という考え方は、ユダヤ人に限らず、人類に共通した価値観です。この世において行いとは報酬を生むものです。一生懸命働けば多くの報酬が得られ、報酬によってその人の価値が判断されます。ですから、頑張れば相応の報酬を受けられるという考え方は、受け入れやすいのです。しかし、聖書の価値観は違います。
   神と分離し死ぬものとなった時から人は、少しでも長く、できれば永遠に生きたいという望みを持ち、多くの宗教を作り出しました。そのどれもが良い行いや徳を高める努力を神に認められれば天国に行けるが、悪いことをすれば地獄に行くと教えます。それが一般的に信じられる思想となり、当時のユダヤ人にもこの考え方が浸透していました。神がユダヤ人に託した救いの言葉は、これとは正反対であったにも関わらず、彼らはその言葉を正しく信じることができませんでした。
   人は、自分の経験の範囲の中で物事を理解するため、自分が理解したいように理解します。ユダヤ人は、せっかく神の言葉を託されたにも関わらず、自分の経験を基に神の言葉を理解したために、救いは行いで手にするものと考え、割礼と礼拝と行いを積み上げることで救われると信じていたのです。この間違った理解に対してパウロは激しく戦っているのです。
   今も、キリスト教では救われるために何をしなければならないのか、という質問をよく受けます。しかし、行いでは人は救われません。この神の真意を伝えるために書かれたのが、ローマ人への手紙です。

『それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。
彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。
というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。
律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。
そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:9〜17)


   旧約聖書を正しく読めば、アブラハムが救われたのは、割礼を受けたからではなく、割礼を受ける前、信仰によって救われたことがわかります。パウロは、ユダヤ人だけが神の言葉を持ち、割礼を受けているから救われるわけではない、神の言葉を持っていることに安住して誇ってはならない、信じる信仰が大切なのだと繰り返し述べています。
   では、なぜ信じることでしか救われる道はないのか、その理由を深く掘り下げて考えてみましょう。

1.救いの意味を正しく理解する

   救いとは、神との関係が回復することです。イエス様はご自分をぶどうの木にたとえました。私達はその枝ですが、生まれながらにして折れた状態で生まれてきたため、放っておくと枯れてしまいます。これが永遠の死です。
   救いとは、この枝を再び神という木に接ぐことです。枝は自力ではつながれません。木に接がれるためには、農夫に拾い上げてもらうしかありません。神につながるために、人は何の行いをすることもできません。
   もし、枝が自分の力で這い上がって木に自分を接ぐことができるならば、救いは行いによるものです。しかし、枝に手足がない以上、それは不可能なことです。ですから、人は行いでは救われないのです。
   信じるとは、「助けてください」と神に憐れみを求めることです。それしか救いの道はないのです。
   救いとは、神との関係が回復し、永遠なる神のからだに属するよう元に戻ることです。ですから、救われることを永遠の命を得ると言うわけです。

2.人は良きものだから

   行いを頑張らなければ救われないと考える背景には、自分はダメなものだという思い込みがあります。ダメだから頑張って○を目指そうという発想が、行い=報酬=自分の価値という価値観につながり、この発想が救いにも適用されて、頑張って良き者とならなければ救われないと考えるのです。
   しかし、そもそもこの前提が間違っています。なぜなら、神は人を良き者として造ったからです。
   みにくいアヒルの子が、自分が白鳥であることに気づかずにつらい思いをしていたように、私たちも自分は良き者として造られたのに、惑わされ勘違いしています。
   人はもともと良き者なのですから、自分を変えて救われる必要はありません。ただ、良き者についてしまった罪という汚れを取り除き、本来の姿を表す必要があります。それをしてくれるのが、神の福音です。
   そのことを、ザアカイから学んでみましょう。

『イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」』(新約聖書 ルカの福音書 19:5〜10)


   ザアカイは、自分の立場を利用して人々からお金をまきあげるような生活をしていました。そのザアカイが、イエス様に「今日、あなたの家に泊まる」と言われただけで、自分の罪を告白して悔い改めたのはなぜでしょうか。
   それは、イエス様が彼を良き者としてご覧になっていたからです。
   コミュニケーションでは、言葉以上に目と態度が重要と言われます。人は、相手の言葉よりも態度によって、この人は自分にどういうメッセージを送っているかを理解します。ですから、イエス様がどういう態度で彼に接したかが、ザアカイの心を開いたカギです。
   人々はザアカイをダメな者だと思って接していました。イエス様はザアカイの行いをもちろんご存知でしたが、ダメな者だとは考えず、良き者として接しました。人はもともと良き者であるため、良き者として接されると、本来造られた自分が目覚め、良き者でない姿を排除したくなるのです。「北風と太陽」という物語にもあるように、人が心を開くのは、責められる時ではなく、受け入れられる時です。ザアカイも自分が愛されていることがわかり、罪を排除したくなったのです。
   もしイエス様が、お前はダメな者だという態度でザアカイと接したならば、彼は自分の良さをわかってもらおうと、自分の良い面を申し立て、汚い面を正直に出さなかったのではないでしょうか。人は、自分を裁く相手に心を開くことなどできません。
   姦淫の現場を捕らえられた女性も、イエス様に一言も罪を責められていないのに、悔い改めました。イエス様が彼女を良き者として見たことで、良き者の姿が現れたのです。(ヨハネ8:3)
   私達は、神の命を与えられ、神が「非常に良い」と言われるほど、良き者として造られました。ですから、自分を隠すことも、良き者になろうとする必要も初めからないのです。罪という病気にかかっていますが、親ならば子どもに対して、病気は汚いからあっちに行けなどとは思わず、なんとか助けたいと手を差し伸べるものです。ザアカイは、良き者と扱われて、初めて差し伸べられている手に気づき、本来の自分を取り戻したのです。

3.十字架で死を滅ぼされたから

   神様と私達の関係を絶っているのが罪です。この罪の罰である死を、イエス様が十字架に架かって私たちの代わりに受け、私たちの罪の罰がすべて無効になりました。
   この救いは神の側で全て完了し、私たちがすることは何も残っていません。私達はただ差し伸べられている神の手にすがりつけば良いのです。
   これが、信じるだけで救われるということです。私達が知らない間に、すでにイエス様が私たちの借金を支払ってくださったので、私達はただその証書を受け取るだけでいいのです。

『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:8,9)


   以上の3つの理由から信じるだけで救われるのです。
   これを、心から信じることができるようになれば、私達の価値観も変わります。人の心の中には、行い=報酬という価値観が根強く残っているため、信じるだけで救われると言われても、多くのクリスチャンが自分の行いを見て、本当に救われているのかと不安に思っています。
   しかし、行いではなく信仰の原理によって救われたのですから、行いによって救いが取り消されることはありません。信仰で救われることを心から信じられるようになると、自分を見て大丈夫だろうかと心配することもなくなります。

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:1,2)

   行いで自分を見ては、自分はダメだ、愛されるはずがないという間違った思いを繰り返し、人に対しても同じように接してしまうのが、私達を苦しめている罪の姿です。
   しかし、神を愛し、人を愛するのが神に造られた本来の私たちの姿なのです。神の目を気にして、本当に天国に行けるのだろうかと心配するのは、本来の生き方ではありません。イエス・キリストの福音は、人は行いで救われるのではなく、神にしか救いは達成できないから、何の心配もしないで、神と人を愛して生きていきなさいと私たちに教えています。
   放蕩息子に父がとった態度こそ、神が私たちにとる態度です。好き勝手に生きてきた私達に対して、神はしっかりと抱きしめ、口づけし、最高のものを与え、一言もお前はダメだと責めません。さらにこれまで経験したことがないような最高の祝宴を催すのです。これは最高の相手に対する接待です。神は私達を最高の者だと思って接しておられます。
   あなたは良き者――これが神の私たちに対するメッセージです。