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2013年4月14日
『すべての人が罪の下にある』
(新約聖書 ローマ人への手紙 3章9節〜)
『では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:9)

   聖書は、全ての人が罪の下に閉じ込められていると教えています。福音を理解するには、自分が罪に支配されている事を知らなければなりません。自分の現状を知らなければ、福音を欲する事はないでしょう。それは、自分が病気だと気づいて初めて薬を欲するようなものです。聖書は、今のあなたの状態を次のように述べています。

『それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:10〜18)


   なんと悲惨な状態でしょうか。人間はこれを自分の力でどうにかする事はできません。
   私達が救われる道はただ一つ。神によって引き上げていただく道です。私達の立場から言えば、信じる信仰によって救われる道しかないのです。

『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。・・・・・・
それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:23,24,27,28)


   信仰による救いを信じるためには、まず自分の現状を知る事が大切です。現状を知るために、人は本来どのように造られたのかを見てみましょう。

『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。』(旧約聖書 創世記 1:31)

   「非常に良かった」とは、神から見て、最上級に良かった、という感嘆の言葉です。ところが現在、人はその初めの姿を失い、罪の下に閉じ込められているとパウロは語っています。では、さらに神が私たちを造られたときの様子を見ましょう。

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」』(旧約聖書 創世記 1:26)

   神は、ご自身に似せて人を造られました。「われわれ」とは、父なる神、子なるキリスト、御霊なる聖霊の、三位一体の神様の事です。この3人の神様は、それぞれが信頼し合い、愛し合い、仕え合う関係で存在していらっしゃいます。ちょうど人の体の部分が、お互いを必要とし、補い合っているように、3人でひとつの神様です。この事を三位一体と言います。
    つまり、「神に似るように」とは、外面的なものではなく内面的なもの、すなわち、神を愛し、互いに仕える心が与えられたという事です。私達はキリストのからだの一部であると書いてある通り、神と同じ心が与えられたのです。

『神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』(旧約聖書 創世記 2:7)

   神が吹き込まれた「いのち」とは、原語では複数形で書かれており、三位一体の神の命の事です。神と同じ命をいただいて、初めて人は生きるものとなりました。神を愛し、神に仕え、神と交わり、互いに愛し合い、仕え合う事で喜びを得るように造られたのです。
    神はこのように人を良きものとして造られた後、一つだけ注意を与えられました。ところがまもなく蛇によって人は騙されてしまいます。

『神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」』(旧約聖書 創世記 2:16,17)
「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。』(旧約聖書 創世記 3:4〜6)


   このように、人間がその実を食べたことによって、神が言われたとおり、人間に死が入り込みました。『死』には、分断されるという概念があり、神との関係を断ち切ることです。
    神と同じ命を与えられ、神と一つに生きていた人間が、突然神との関係を断ち切られたら、どのような事態になるでしょうか。
    体にたとえて考えてみるとわかりやすいでしょう。もし、手が体から切り離されたら、突然生きる事の心配をしなければならなくなります。体につながっていた時は心配などした事はなく、体という全体像で自分を見ていたため自分の姿など気にする必要もなかったものが、切り離されたその瞬間から、今後どのように生きればいいのか、自分の姿が気になり始めます。
    その様子を聖書は次のように記しています。

『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分達が裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分達の腰のおおいを作った。』(旧約聖書 創世記 3:7)

   人間は、神との霊的な関係が断たれた事によって目が開かれ、肉なるものしか見えなくなってしまいました。また、神の保護がなくなり、彼らの中に恐怖が生まれ、彼らは自分を隠そうとしました。
   今日、人は皆自分を隠したいという思いを持って生きています。自分の持つ物を誇ったり、自分を飾り、良く見せようとするのは、神との関係が絶たれたために起きている現象なのです。
   また、神と分断されて人は心の糧を失いました。糧を失い飢え乾いた人間は、心を満たすために初めて、愛されたいという思いを持ちました。神と一つであった時、人の心の中には愛したいという心しかありませんでした。しかし、神と分断された結果、愛されたいという心が生まれたのです。
   神を愛したい、人を愛したいと願う心は、良心として私達の中に残っています。しかし、それ以上に人の心を支配しているのは、愛されたいという心です。愛されたいという心は、人からよく思われたいという心です。

『すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」』(旧約聖書 創世記 3:11,12)
「そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」』(旧約聖書 創世記 3:13)


    アダムもエバも、私は悪くない、私には責任がないという言い方をしました。それは、神に良く思われたい、愛されたいという心から生まれる言葉です。
   霊的な死によって愛されたいという心が生まれ、これまで持っていた「愛したい」という心が二つに分割されて、二人にこのような行動を取らせました。
   愛されたいという心、それがこの世の心遣いです。自分のほうに心を向けさせたいと願う心が発生した事を、パウロは、罪が住み着いたと言いました。神を愛したいという心と、自分が愛されたいという、いわゆる二心は霊的な死によって発生したのです。

   以上が霊的な死についての出来事で、聖書は次に肉体の死について述べています。永遠に生きるべき体が、永遠ではなくなった事についてです。

『女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」 』(旧約聖書 創世記 3:16〜19)


   神との分離によって、これまで知らなかった体の痛みを覚えるようになると主は言われました。神と一つであった時には、神の守りのうちにありましたが、これからは外的な影響を受けるようになり、やがて体は滅び土に帰る・・・これが肉体の死です。今日、私達が健康を管理し、自分の体を自分で守らなくてはいけないのは、死が入り込んだ結果なのです。これまでは生きる不安などなかったのに、これからは自分で食を得なければならなくなりました。
   この後、神はこれらの事を明らかにするために、アダムとエバをエデンの園から追放しました。

   肉体の死は、人間に生きたいという願望を生み出し、人は、食物を探し、自分の体をケアし、少しでも命を長引かせようとするようになりました。それまでは生きる事の心配がなかったので、そういう発想はなかったのです。
   さらに、生きたいという思いは、金銭にしがみつく思いを生み出しました。食べ物を得るにも、健康を維持するにも、すべてお金が必要となり、それが金銭にしがみつく思いに直結し、お金を得る事で安心を得ようとするようになりました。
    このように、人が物にしがみつくようになったのは、肉体の死がもたらしたものです。これが富の惑わしです。

   人は、神を愛し神に仕えるように造られましたが、死によって、愛されたいという欲求と生きたいという欲求が生まれ、富にしがみつくようになりました。戦争、テロ、ありとあらゆる苦しみや問題のすべては、この事が原因です。
   人に対して腹が立つのは、愛されたい、人から良く思われたいからです。人からよく思われたいと思わなければ、人の言葉に傷つく事はありません。もし、人が本来の愛したいという欲求しかなければ、何を言われても傷つく事はありません。愛されたいという願望、これが私達の心を人に向けさせているのです。
   また、肉体の死による生への欲求は金銭への執着を生み、その欲望は戦争さえ起こします。金銭を愛する事があらゆる悪の根だと聖書が言っている通りです。
   このように私達の罪を探っていくと、創世記の出来事に行き着きます。私達は本来の姿ではなく、心が二つに分割されてしまいました。罪の下に閉じ込められ、神の言葉が食べられなくなったのです。
   イエス様は私達のそのような様子を次のように説明しました。

『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22)

   この世の心遣いと富の惑わしが神に心を向けさせないために、御言葉がその人に入らず、実を結ばないのです。
   この世の心遣いと訳されている言葉は、メリナムという原語で、思い煩いと訳す事もできますが、もともと心が分割されるという意味があります。この箇所では、富の惑わしと並べて使われている事から、神との分離という霊的な死がもたらした心の分割と理解するのが妥当です。イエス様はこれを二心と言い、人は富と神との両方に仕える事はできないと教えています。
    人にはもともと愛したいという願望のみが与えられていました。
   911のアメリカでのテロで亡くなった方が、家族の方に最期に伝えた言葉で一番多かったのは、「愛している」でした。震災で命を落とした方の中には、他の人を助けようとして亡くなった方が大勢いらっしゃいます。
   愛したい、助けたい、それが本来の私達人間の姿なのです。それなのに、今日私達は、愛されたいという欲求を前面に出して生き、争います。
   それは、死よって心が分割され、罪という別の生き方をするようになったからです。愛したいのに、心が分割され、人は苦しんでいるのです。罪とは、私達の心が二つに分割されている事です。それを、罪の下に閉じ込められていると言うのです。
   その状況から自分の行いで脱出する事は不可能です。なぜなら、死を解決しない限り、どうする事もできないからです。
   心が二つに分割されている自分に気づき、良い行いをしたいと思ってもできない自分に気づくならば、神が差し伸べてくださっている手にすがるしかありません。

   神は、私達が神の福音を求めるために、自分の状態に気づく事ができるように、二つのチャレンジを教えておられます。
   一つは、旧約聖書のマラキ書で語られている什一献金です。神は、あなたの面倒を見ると約束し、心配せずに富にしがみつく生き方をやめよと、財産の10分の1を神に返すように教えています。このハードルを越えられないと、神を信頼する事ができず、二股信仰になり、なかなか前に進めません。
   もう一つは、人から愛されようと願う生き方を手放すよう、主があなたの心に共におられるために、イエス様が十字架にかかってくださった事です。
   聖書の放蕩息子のたとえは、十字架の愛を私達に教えています。
   この父親は無条件に息子を赦しました。人は、赦される事で愛に気づき、神との関係が築かれ、人からの愛を手放す事ができるようになるのです。悔い改めて赦される経験こそ、分割された心を修正するものです。
   そしてさらに、弟が赦され盛大なパーティーが開かれている事に腹を立てた兄の話が続きます。愛されたいという欲求で、不満を抱いて腹を立てた息子に、父は「私はいつもあなたと共にいる」と教えています。
   あなたは愛されていないと思っているけれど、私は共にいる。私のものはすべてお前のもの。・・・これは、そのまま神から私達へのメッセージなのです。

   私達に本来備わっていた、愛したいという願いが愛されたいという思いに分割され、仕えたいという願いが富を支配したいという思いに分割されてしまった事が、罪の下に閉じ込められている状態です。
   しかし、神の福音は、私たちの心をひとつに戻します。心が分割されていた苦しみから解放され、愛する事、神に仕える事を喜びとするようになるのです。主は傷ついた心をいやし、私達を元の状態に戻してくださいます。