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2013年4月7日
『良心』
(新約聖書 ローマ人への手紙 2章12〜3章8節))
『律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明しあったりしています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:12〜15)

   ここでの律法とは、神の言葉=聖書を指します。神の言葉を知っていながら罪を犯す者が裁かれるのは当然ですが、神の言葉を知らなかったとしても、同じように裁かれるとパウロは教えています。
   それは、律法を聞く者が正しいのではなく、律法を行う者が正しいからです。当時ユダヤ人は、我々は神によって選ばれたという選民思想があり、自分たちは律法を持っているから正しいと誇っていました。しかし、パウロはいくら御言葉を知っていても、実行しなければ意味がないことをユダヤ人に教えているのです。
   神を知らない異邦人でも、意識せずに律法の命じる行いをしている場合があります。それは、すべての人は神によって造られ、一人一人の心に律法が書き込まれているからです。ですから、すべての人は同様に神の前に裁かれます。
   このことは、次の御言葉と合わせて理解すると良いでしょう。

『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:20)

   パウロは、神がおられることは、二つのことから明らかだと言っています。
   一つは、造られたものがあるということは、造った方がいるということです。
   例えば、マイクを見て、自然にできたと思う人はいません。こんな複雑な機械が自然にできるはずはないと言うのです。しかし人間は、マイクのような機械よりはるかに複雑です。にもかかわらず、人間は自然にできたと説明するのは、明らかな論理矛盾です。
   もう一つは、すべての人に良心があるということです。良心とは、一人一人の心に書き込まれた神の律法だと言えます。
   私達が何か悪いことをしようと考えるとき、「そんなことをしていいのか?」という声なき声が聞こえ、良心の呵責を感じます。それは誰かに教えられたものではなく、人間が自分で獲得したものではありません。人間には、自分にとって害になるもの・自分を苦しめるものは獲得しない性質があります。ところが、良心の呵責ほど苦しいものはありません。そのようなものをあえて獲得して自分を苦しめるなどということはあり得ないことであり、進化論ならなおさらです。ですから、人間が共通に良心を持っていることが、神がいる証拠になるのです。
   誰が自分に都合の悪いものを心の中に書き込んだのか・・・・・・それは神です。
   私達は神の作品であり、良い行いをするようにあらかじめ用意されていると聖書に書いてあります。神が私たちの心にあらかじめ書き込んだ律法とは、神を愛する律法であり、人を愛する律法です。人はキリストの体の一部だからです。その律法に聞き従わず神を否定する者は裁かれ、律法に聞き従うなら神を愛し人を愛するようになるのです。

『私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:16)

   神は、イエス・キリストを信じるか信じないかだけを問われます。キリストを信じ愛する者は神と共に歩みます。そうでない者は、永遠の命を得ることはできません。

『もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:17〜23)


   ユダヤ人は神の言葉を託され、一字一句違わずに伝えて、この律法を守るように教えてきました。それなのに自分達が律法を守っていないとはどういうことだ?と、パウロは律法主義を批判しました。

『もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。
外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:25〜29)


   ユダヤ人は割礼を誇っていました。しかし、その他の律法に背いているならば、割礼を受けていなくても律法を行っている人々のほうこそ、割礼の者と言えるのではないか、とパウロは問うているのです。
   このユダヤ人の生き方を私達に当てはめて考えてみましょう。
   ユダヤ人は、自分たちが持っているものを誇りに思い、自分は特別だと誇ってきました。私たちも同様に、自分の過去や肩書きを誇ってそこに安住し、自分は大丈夫だと安心しています。見えるもので自分の安心の糧を得ようとするという点で、私達はユダヤ人と同じなのです。しかし、そのような生き方は、本当の平安を得る道ではないとパウロは教えています。

『なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:17)

   ユダヤ人は割礼を誇り、信仰には全く目を留めませんでした。しかし、重要なことは、神をどれだけ信頼し、どれだけ愛するかということです。ですから、見えるものに頼る生き方をやめなさいと、パウロは教えているのです。
   このように理解すると、この御言葉は今の私達に語られていることがわかります。
   私達は、行いやうわべで人の価値を見る習慣の中で生きているため、ついその価値観で人を裁いてしまいます。「裁く」とは、価値を判定することです。自分やまわりの人に対して、良い、悪い、ダメと判断しては、賞賛したり羨んだり落ち込んだり頑張ったりを繰り返して生きることです。
   しかしそうではなく、神を信頼し神を愛する生き方こそが大切なのです。
   神は、私たちの心に良心を書き込みました。神の良心は神を愛します。イエス様は、羊は羊飼いの声を聞き分けてついていくと言われました。私達は、神の声に聞き従うように造られています。その良心の声に聞き従うなら、何が大切かが見えてくるのです。

『では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:1〜2)

   神を信頼することには目を留めなかったユダヤ人ですが、神の言葉を守ってきた点においては、ユダヤ人のしてきたことには大いに意味があります。

『では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:3〜4)


   彼らが間違ったことをしているからといって、彼らに託された神の言葉が間違っていたということにはなりません。
   一つの間違いを犯したといって、その人の全てを否定する考え方は間違っています。一人が間違いを犯したからといって、その人が属する全てを否定することも同様です。
   一人の女性が失敗をしたからといって、だから女はダメだと言うのはおかしなことです。
   かつてテルアビブで日本の赤軍派が銃の乱射事件を起こし、だから日本人はダメだ、と言われた時代がありましたが、一部の日本人が罪を犯したからといって、すべての日本人がダメだということにはなりません。
   また、かつて十字軍がローマ法王の命を受け、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還するために戦争を繰り返したことに対して、なぜキリスト教国が戦争を起こすのか、なぜ聖書はそんなことを教えるのか、聖書は間違っていると主張する人がいます。しかし、聖書には、そんなことはどこにも書いてありません。これは、殺すなという教えに従わなかった人々の問題であり、聖書の教えの問題ではないのです。
   ですから、たとえユダヤ人全員が不真実だったからといって、神の言葉を否定することにはなりません。
   「神がいるなら、なぜ悲惨な出来事があるのか。神は愛の神なのに、不幸な人がいるのはなぜだ。だから、私は神を信じない。神などいない。」という方に対して、私はよく一人の床屋さんのお話を紹介します。
   今から30年くらい前、その床屋さんも教会の牧師に対して、同じことを言って来ました。するとその牧師は、街にたむろする大勢のヒッピー族を彼に見せました。ヒッピー族とは、当時流行っていた自由気ままに過ごす長髪の若者達です。牧師は、「彼らが長髪なのは、お前のせいだ。お前は床屋なのに、彼らの髪を切りもしない。彼らが長髪で勝手な行いをするのはお前のせいだ」と言ったのです。もちろん床屋さんは「切ってくれと言われもしないのに、彼らの髪を切ることなんかできない」と反論しました。すると牧師は、「神も同じだ。自ら助けを求めに来ない者を幸せにすることはできない。私達には自由意思が与えられている。神が私達に強制的に何かをさせるなら、それはロボットと同じだ。」と彼に説明しました。

『しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:5〜6)


   この御言葉は、私たちとは誰か、不義とは何か、神の義とは何かを明らかにすることが、理解の鍵となります。
   私達とはユダヤ人のことです。不義とは律法主義のことであり、律法主義は行いによって救われると教えます。しかし、神の義は信仰による救いを教えます。
   ユダヤ人は、ユダヤ人が間違ったおかげで、神が信仰による救いを明らかにしてくれたんだから、ユダヤ人は良いことをしたんだ、なぜユダヤ人が裁かれなくてはならないのだ、とパウロを批判し攻撃してきたことに対するパウロの反論です。

『でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか―私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。―もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:7〜8)


   このような屁理屈でパウロを中傷する人々は当然罪に定められます。彼らとパウロの違いは、行いによって救われるか、信仰によって救われるか、という点であり、お互いに同じ聖書の言葉を使って主張しています。そして、大論争のすえ、ユダヤ人は、ユダヤ教徒とキリスト教徒に分かれました。
   そういうわけで、ローマ人への手紙は、この後、なぜ信仰で救われるのかという話に展開します。人類は、どうすれば救われるのか、どうすれば天国に行けるのか・・・これが次週のテーマです。