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2013年3月24日
『さばいてはならない』
(新約聖書 ローマ人への手紙 2章)
『ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。
私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:1〜6)


   さばくとは、自分のものさしで、いいとか悪いとか、人の価値を判断することです。また、人と人とを比較して、どちらがいいとか悪いとかを判断することもさばく行為です。これが自分をつらくする引き金です。
   なぜなら、さばくとは、人を自分のものさしに合わせようとする行為だからです。しかし、相手を自分のものさしに合わせることなどできません。ですから、それが争いへと発展し、様々な悪影響を生み出します。この御言葉に「すべて他人をさばく人よ」とあるように、これは、クリスチャンであっても、神を信じない者であっても関係ありません。誰であっても他人をさばけば、つらくなるのです。

   「他人をさばくことによって自分を罪に定める」とは、私達がつらさを感じるのは、自分が人をさばいているからだという意味です。罪とは、心が神に向かないことですが、それは、感情的にはつらさを生み出します。人を自分のものさしに合わせようとすることで、つらくなるのです。
   聖書が「さばいてはいけない」と教えているのは、人をさばくと、そのままつらさが自分に返ってくるからです。「神の報い」とは、神が罰を与えるという意味ではなく、神に造られた人間は、自分の行為の報いを自分で受けるようになっているということです。
   神はすべての人を、神の言葉で生きるように造り、人を愛するように造られました。神の言葉以外のもので心を満たそうとするとトラブルが起こり、人を愛せない行動を取ると、自分自身に不具合が起こります。
   人の作った道具を正しく使わないと、壊れたり、その道具を生かせないように、神に造られた人間も、自分自身を正しく使わないならば、様々な問題が生まれます。それは、クリスチャンであるかないかに関係ありません。そのため、聖書は、例外はないと言っているのです。
   神は、私たちの罪の罰を取り除くために、この地上に来られた方です。私たちの行いに対して、罰を与えるようなことは決してありません。悪い行いに対して、神が罰を与えるのではないかと恐れる必要はありません。ただ、自分の行いの報いとして受けているつらさを神に差し出して解決することを、神は望んでおられるのです。

「なぜさばくのか?」

   人の言葉を食べて満たされようとすると、さばく結果を生み出します。
   人間には、体と心があります。体に食物が必要なように、心にも必要な食物があります。それは言葉です。言葉には、神の言葉と人の言葉とがあり、神の言葉を食べれば問題は起きませんが、人の言葉で心を満たそうとすると、様々な問題が生まれます。
   人の言葉の中で、一番美味しいのは、ほめられることです。反対に一番まずい言葉は、馬鹿にされることです。美味しい言葉をもらうためには、相手の期待に応えることが重要です。しかし、努力してもほめられないとなると、人から嫌われることをしたり、馬鹿にされることをしたりして関心を引き、なんとかまずい言葉でも食べようとします。愛の反対は、無関心です。人は、言葉がないと死んでしまうので、非難されたり、馬鹿にされたりしても、無視されるよりはまだましなのです。そのような習慣は、幼い時に出来上がると言われています。
   このように、人と人との関わりには、美味しい言葉を食べる関わりもあれば、まずい言葉を食べる関わりもあります。いずれにしても、人の関心を引くことが重要ですから、そのために、よく比較をします。人と比較することが、すでにさばく行為の始まりです。
   比較の結果、人をさばけばさばくほど、自分が偉くなり、自分の価値が上がったような気がするものです。つまり、ほめられる言葉を食べているのと同じ効果が得られます。また、怒りをぶちまけることで、周りはその人を恐れて、まずい言葉をかけなくなります。さばくねらいはそこにあります。さばくことで、少しでも人から美味しい言葉を手にしようとしているのです。しかし、人をさばくと必ずつらさという副作用があります。食べれば必ず腹痛がある食物を食べることを繰り返しているようなものです。
   では、何を解決すれば、このつらさから逃れられるのでしょうか。それは、人の言葉を食べるのをやめて、神の言葉を食べるよう、食事を切り替えるしかありません。
   つらい時、なぜつらいのか冷静に考えてみれば、人をさばいていることに気づきます。人からよく思われたいとか、人の言葉を食べて安心しようとしている自分が見えた人は幸いです。人からよく思われて、人の言葉を食べたい自分がいることが問題なのです。
   人から美味しい言葉を食べられないのは、つらいことですがチャンスでもあります。聖書は、「心の貧しい者は幸いである」と教えています。人の言葉でつらさを感じるのは、神の言葉を食べるチャンスになるから幸いなのです。

『忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:7,8)

   「永遠のいのち」とは、罪が赦されて天国に行けるようになることだけではなく、神との関係が深くなり、平安を得ることです。分裂・分派は、人の言葉を食べることから起こります。神の言葉を食べましょう。問題は、神の言葉を食べないことにあるのです。

『さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:1〜3)


   乳とは人の言葉であり、堅い食物とは神の言葉です。肉に属する生き方(人の言葉を食べる生き方)から離れなければ、副作用として様々な痛みを伴います。人の言葉を食べるために、相手の期待に応えようと、いつも人の目を気にし、比較し、さばき、それが様々な問題を引き起こすのです。
   クリスチャンかどうかには関係なく、すべてさばく人には、このようなつらさが伴います。また、クリスチャンになっても、神の言葉を食べるより、人との関わりによってクリスチャン生活を送ろうとすると、平安や喜びが失われて行きます。つらさを感じないためには、さばかないことが大切です。

「神の言葉という食事のすぐれている点」

1.神の言葉は決して私たちを裁かない

『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:18)

   人の言葉は必ず、○か×かと人を裁きます。×だと頑張って○を目指そうとします。しかし、聖書は、私たちは×から○へと変わるのではなく、栄光から栄光に変えられていくと教えています。
   神は私たちを良いものとして造られました。私たちが、神の言葉を食べることができないのは、覆いがかかっているからです。その覆いを取りのけるために、キリストは来てくださったのです。あなたは良いものだから、良いものの姿に気づきなさいと主は言われます。
   神が私たちをさばかないのは、私たちが皆それぞれ良いものであって、比較できないものだからです。私達は皆キリストのからだの一部として造られました。キリストの一部がダメなものであるはずがありません。
   さばくとは○×を判定することです。しかし、もともと○のものに、判定は必要ありません。皆良いものなのです。
   私達は皆キリストのからだの一部として作られ、それぞれ働きが違うことを聖書は教えています。全ての人は、神にとって必要だから、造られたにもかかわらず、人は働きを比較して、重要か重要でないかを判断します。しかし、すべての人が神にとって同じように大切です。
   人間の体も、心臓などの内臓から、爪や髪の毛まで、様々なパーツがありますが、私達は日頃は、命に別状のないパーツこそ大切にしたりします。自分にとってはどれも大切なパーツです。
   神にとっても、特に大切なパーツがあるわけではなく、すべてが大切なのです。働きが異なれば比較できないのですから、神は人を比較したりはしません。ですから、×から○ではなく、栄光から栄光に変わると教えているのです。
   人はよく「○○さんのようになれたら」というあこがれを持つものですが、これも比較であり、さばきの一種で、間違った考え方です。神はあなたを、あなたとして必要だから造られました。神はあなたを愛し、あなたを神が造られた本来の良き姿に気づくようにと願っておられます。

2.神は赦される

   この社会では、悪いことをしたら人から責められるので、人は罪を隠そうとするようになりました。しかし、隠せば隠すほど、人の目が気になり、お互いにさばき合います。人の怒りは自分の心の中を見られたくないひとつの自己防衛で、怒り、人を裁くことで自分を隠そうとしているのです。本当の自分を見られたら恥ずかしいので、互いにさばき合うため、つらさが増し加わります。
   しかし、神は無条件で罪を赦される方です。あなたの罪も恥も全部知っているけれど、全部赦しており、何も責めるつもりはないのだから、その自分を隠す鎧を取りなさい、そのような生き方をやめなさいと言っておられるのです。

   聖書に有名な放蕩息子のたとえがありますが(新約聖書 ルカの福音書 15章)、財産を半分もらって湯水のようにお金を使い、ついにお金がなくなり、食べるものすらなくなった時、我に返って、もう息子と呼ばれる資格はないけれど、お父さんのところに行って謝ろうと決意しました。お父さんはその息子を抱きかかえて、息子は悔い改めるが、お父さんは一言も責めず、宴会を開いて受け入れてくれたのです。
   それが神が私たちにしたいことです。神は、私たちがつらさの中に生きていることをよく知っておられます。だから、あなたの荷物を私に貸しなさい、私が背負うからと言われます。なんという励ましでしょうか。神の言葉は、あなたの荷物を降ろすことができます。ですから、どんな人でも人生のやり直しがきくのです。

3.神の言葉は私たちを励ます

『そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』(新約聖書 マタイの福音書 6:31)


   神は、私たちを責めるのではななく、励ましてくださいます。私たちは、いろいろなことで思い煩っているものですが、何も心配しなくていい、神の言葉を安心して食べなさい、それだけでいいとイエス様は言われます。

   この御言葉は、『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:1,2)につながります。神の言葉を食べなさい。さばいてはいけない。人の言葉を食べるのはやめなさい。さばけばさばくほど、人の言葉を食べるようになる。
   だから、神の言葉を食べるためには、裁くのをやめて、人の言葉を食べるのをやめなさい。つらさから解放されない。神の言葉を食べるなら、神は慰め、励ましてくださいます。
   神の言葉を食べると、心が健康になり、神の言葉を食べないと、喜びを失います。人とのつながりだけで、クリスチャン生活を続けようとすると、トラブルに巻き込まれ、心の健康を失います。神の言葉を食べ、神の言葉につながるクリスチャンになりましょう。それが、聖書が私たちに教えている最も重要なテーマです。
   救いは始まりに過ぎず、それは神様がしてくださることです。救われたあと、どういう生き方を目指すのかが重要です。神があなたを救ったのは、あなたの問題を解決したいからです。人間の問題は、神の言葉を食べることしか解決しません。
   さばくのは罪であり、私たちを苦しめる罪の律法です。さばくことをやめましょう。

   裁くことをやめるとは、まったく裁かない人間になることではありません。さばくことは私たちの古い習慣で、すぐに完全に捨て去ることはできません。ですから、さばくのをやめるとは、裁いていることに気づき、悔い改めることです。

   さばく言葉は、三人の魂を殺すと言われます。本人と相手とそれを聞いている第三者です。さばいている人に相槌を打つと、あなたの霊的なものも死んでしまいます。気をつけましょう。