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2013年3月17日
『信仰に始まり、信仰に進む』
(新約聖書 ローマ人への手紙 1:16〜32)
『私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:16〜17)

   福音は、誰に対しても救いを得させる神の力であり、恥ではありません。救いを得なければ、その人との関係は地上だけのもので、永遠に続くことはありません。本当に相手のことを思うならば、相手の救いを望むことが人を愛することなのです。
   さて、ローマ書の最大のテーマは17節の「信仰に始まって信仰に進む」です。これがパウロの生きる目標でした。
   私達はどうでしょう。確かに信仰をいただいてクリスチャンとしての生活が始まりましたが、どこに向かって進んでいるでしょうか。何のために生きているのでしょうか。もし信仰に進んでいるのでなければ、道をそれてしまっていることになります。
   信仰に始まって信仰に進むとは、神を知ることから始まり、神を信頼する道に進むことです。信仰とは、イエス・キリストを信じて永遠の命をいただいておしまいではなく、神を信頼することによって平安を増し加えていくものなのです。
   イエス様は山上の垂訓の中で、「食べるものや着るものの心配をしたところで自分の命を延ばすことはできないのだから、神を信頼する生き方をせよ」と教えておられます。神に心を向ければ、今悩んでいる悩みは悩みでなくなるのです。
   ところが、現実の私達はいろいろなことを思い煩い、神のことは2番目3番目になってはいないでしょうか。多くの人が、イエス様を知ってからも、神を信頼しようとする生き方ではなく、人からよく思われようとする生き方を目指しています。そのずれた軌道を戻して欲しいという願いがこの書には書かれているのです。

なぜ信仰に始まり信仰に進むのか?

1.残るものは信仰しかない

『わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せて集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:4〜6)


   農夫が一生懸命畑を耕し種を蒔くのは、収穫できる前提があるからです。もし、収穫できないとわかっていたら、初めから種を蒔いたりせず、他に収穫を得られる道を探すことでしょう。
   神にとどまるとは、信仰によって神の言葉を信頼することです。私達が神にとどまることで収穫できる実は平安です。この平安の実こそ、唯一いつまでも残る実なのです。
   神を信頼することがから生まれる平安が、神への愛です。神を信頼することで、愛という実がなり、希望を見出すことができます。それゆえ聖書は、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛だと教えています。(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:13)神から離れて、様々な活動を熱心におこなっても、何も残りません。

   人間には体と心があり、体は食物を食べ、心は言葉を食べて生きています。言葉には、人の言葉と神の言葉の二つがあり、神にとどまるとは、神の言葉を食べて生きることです。
   神の言葉を食べない人は、人の言葉を食べるしかありません。人の言葉の中で、一番おいしいと感じるのは、ほめられる言葉です。私達は、なんとかこの言葉を手に入れようとして、成績や美貌やお金などを得る努力をします。人間は、人からおいしい言葉を得たいがために、努力して自分を築き上げているのです。もし、努力してもほめられる言葉を得られないときは、人から馬鹿にされる言葉を得ようとしたり、悪いことをして関心をひいたりするようになります。どんな言葉でも無視されるよりはましです。言葉がなければ人間の心は生きていけないのです。
   しかし、人の言葉を食べると神にとどまることはできません。人からよく思われようとして築き上てきた財産はすべて虚しく消え去ります。けれど、神の言葉で心を満たすならば、多くの実を結ぶことができるのです。
   パウロは、互いに神の言葉を食べられるように、信仰で励まし合う関係を作りましょう、と教えています。それが、教会でしか築けない交わりです。この世の愛は、条件が変われば見捨てられ、関係が変わってしまいます。しかし、神の愛は信仰を育てる愛です。心の食べものを信仰で選び、人の言葉で心を満たそうとしないようにしましょう。人の愛ではなく信仰を育てる神の愛こそ、教会の愛です。

2.信仰が私達の問題を解決する

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:7〜8)

   どのような問題も、神を信頼し願い求めるならば、神が解決してくださいます。 問題解決の先が見えなくても、どのような形かわかりませんが、神は必ず助けてくださいます。

3.神の前で恥じ入ることがないため

『そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私達が信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:28)

   私達は、必ず終わりの時に神とお会いします。その時に恥じ入ることがないために、信頼すなわち神への信仰を育てるようにと教えられています。イエス様もタラントのたとえで、神が与えた信仰を地面の中に隠すのではなく、大きく育てるようにお教えになりました。(新約聖書 マタイの福音書 25:14〜30)
   信仰には、イエス様をただ知るだけでなく、神を信頼する働きがあります。それが神にとどまるということです。神にとどまり、御言葉を信頼して多くの実を結ぶことが、神の前に恥じることのない生き方になります。
   人生の終わりに、神の国に持っていくことができるのは、神への信頼だけです。世の中の成功も失敗もまったく関係ありません。神への信頼を増すことが宝なのです。

神を信じない生き方はどのような結果を招くのか?

『というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
それゆえ、神について知らされることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。
彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:18〜25)


   信仰に生きない人は、神を見えるものに作り替えるため、自分の体すら正しく使うことができず、欲望のままに好き勝手な生き方をしてしまうと忠告されています。
   目に見えるものは神ではありません。偶像を礼拝する人は、造り主なる神を信じてはいません。
   よく、イエス・キリストの十字架以前に生きていた人々は救われないのか、と聞かれることがありますが、重要なのは、私達を造った神がおられると信じることです。神は、聖書を通してイエス・キリストを啓示しておられますが、もう一つ、被造物すなわち神がお造りになった自然を通して、ご自身を啓示しておられます。
   聖書を知らず、キリストを知らない人であっても、自然を通して神がおられると知ることができます。キリストを聞いても信じない人もいるし、キリストを聞いたことがなくても、造り主なる神がいると信じる人もいます。神は、自然を通してすべての人に平等にチャンスを与えておられます。
   神が私達に信仰を与えてくださいます。イエス様を知らない人はどうなるのかと心配する必要はありません。
   この自然を造ることができるのは、神しかいません。無人島で文字を見つけたら、そこに人がいたという証拠になります。この地上に生き物がいるのは、造った方がおられるからであり、その造り主を神と呼んでいるのです。
   今から約100年前、ダーウィンが進化論という仮説を作りましたが、ダーウィン自身、彼の著作の中で、「もし最小単位が単なる物質ではなく、もし一つでも継続的変化の中では生み出されないものであるならば、私の説は完全に行き詰まる」と述べています。
   現代では、顕微鏡が進化し、細胞はその中に小さなモーターのようなものがあり、単なる物質ではなく、自然の中で偶然出来るようなものではないことがわかりました。また、ダーウィン以後に発見された遺伝子も、進化論を支持できません。そこで、世界の創造は叡智によるもので、誰かがデザインしたものと考えるデザイン論という考え方が生まれました。聖書ではこの世界をデザインした方をと呼んでいるのです。

『こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:26〜32)


   神を信じない生き方は、正しいからだの使い方や正しい生き方からも離れ、最終的には死という滅びしか待っていません。いつも不安や恐れがあり、争いがあり、妬みがあります。聖書は、あなたは今のまま神を信じない生き方で身を滅ぼしてしまうのかと問い、神を信じて信仰から信仰に生きるよう、教え導いているのです。