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2013年3月10日
『ローマ人への手紙 1章1〜15節』

   ローマ在住のユダヤ人を中心に教会のベースが出来上がり、そこに多くのローマ人が加わるようになったことを知ったパウロは、御言葉を伝えるためにローマ行きを切に願いました。しかし、それには大変な危険と困難を乗り越えなければならず、まず手紙を書くことにしました。それが、ローマ人への手紙です。
   イエス・キリストへの正しい理解を導くために書かれたこの手紙から、私達は福音のベースを知ることができます。

『神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ。―この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私達の主イエス・キリストです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:1〜4)

   福音とは、キリスト(救い主)が来られるという旧約聖書の約束です。今から、この福音があなたにとってどれほど大切で素晴らしいものかについて語られます。
   現在、「キリスト」と言えば、イエス・キリストを指す固有名詞です。しかし、もともとは一般的な「救い主」を表す言葉でした。「イエス」は、ダビデの子孫として生まれた、人としての名前です。すなわち、「イエス・キリスト」とは、人として生まれたイエスこそキリストであるという信仰告白です。「イエス」と「キリスト」の間の「・」に大きな意味があるのです。

『このキリストによって、私達は恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:5,6)

   「キリストによって召された」という言葉の中に、キリスト教の福音が凝縮されています。つまり、救いとは努力して頑張った報いとして与えられるものではなく、神が一方的に私達を引き上げてくださるものだということです。
   この世は、行いに対して報酬が与えられますから、この世の宗教は、救われたければ努力と行いが必要だと教えます。しかし、キリスト教はそうではありません。救いは私達の努力とは関係なく神が与えてくださる恵みです。これが、聖書が教える福音です。
   このことを正しく理解するためには、罪を正しく理解する必要があります。罪というギリシャ語「ハマルティア」には「的をそらす」という意味があります。つまり、罪とは、私達の心が神に向かないことです。
   あなたは何を求め、何を第一に生きているのでしょうか。お金や物を得ることでしょうか。人から良く思われることでしょうか。
   そうした見えるもので喜びを得よう、心を満たそうとすることが、聖書が教える罪なのです。それは、神以外のものを目指す生き方だからです。
   聖書は、罪とは死のとげであると教えています。(Tコリント15:56)私達が見えるものにしがみついて平安を得ようとする生き方になったのは、死の恐怖が原因なのです。
   人間は神に造られ神と共に永遠に生きる存在でしたが、アダムとエバが罪を犯したために、永遠なる神と分離し死ぬべきものとなりました。死とは神との分離です。その不安と恐れのために、見えるものにしがみついて平安を得ようとするのですが、実はその生き方が自分自身を苦しめているのです。人からよく思われよう、お金を手に入れようとして受けられる平安は微々たるもので、かえってつらい思いをすることが多いものです。ところが、まことの平安を与える神に心を向けたくても、死の恐怖がそれを妨げます。つまり、人間の側から神に向かっていくことは不可能で、神の側で私達を引っ張ってくださることが必要なのです。
   救いとは、神との関係が回復することによって永遠の命を持つことです。これはすなわち、救いのわざを成し遂げてくださったイエス・キリストを信じられるようになることです。神が引き上げてくださらなければ、イエス・キリストを信じることはできません。
   なぜ救いを受け入れる人と受け入れない人がいるのか、神の判断は私達にはわかりません。しかし、『父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:21)とあるように、神が私達を救うことは間違いなく、救いに関して、神は私達に祈るように教えています。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:24)

   神が永遠の命を与えた者は、裁きに会うことはありません。神は罪を裁く方ではなく救う方です。
   この地上に生まれてくる人はすべて、その魂は死んだ状態であり、すでに罰を受けた状態です。この地上でどんな富を手にしようとも、その人は死んでおり、やがてゲヘナに投げ込まれます。
   しかし、神を信じた人は永遠の命を持っているので、すでに神の国の中にいます。もうあなたは死んでいません。あなたに裁きはありません。これが福音です。
   クリスチャンの中にも、自分は行いが不十分だから地獄に行くのではと不安になる人がいますが、そんなことは絶対にありません。そういう人は、自分の行いを見てつらくなっているだけで、神は裁きを考えてなどいません。
   神は裁く方ではなく命を与える方です。私達が何か良いことをしたら何かしてくれる神ではなく、私達を憐れみ、一方的に引き上げてくださる方です。死んでいた私達を救い上げ、助けてくださる方なのです。

『ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私達の父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:7)

   「恵みと平安」とは、単なる儀礼的文言ではありません。罪が赦される恵みによって平安を得る生き方を表しているのです。
   イエス様が与える恵みは、罪の赦しという福音です。罪が赦されて心が神に向くようになったその瞬間、見えるもので手に入れていた平安とはまったく次元の違う平安を体験します。赦される体験こそ平安を生む源です。
   クリスチャンならば常に心が神に向いているかというとそうではなく、日々の生活に追われて神を忘れ、他のものを目指して生きてしまうものです。しかし、そのことに気づいて悔い改め、心を神に向け直して罪が赦される経験をすると、再び平安が訪れます。これを繰り返して、心が神に向く頻度を上げ、平安を増し加える――これがクリスチャン生活です。

『まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。
私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:8〜12)


   罪が正しく理解できると、自分が生かされているのはすべて神の恵みだとわかります。ですから、まず感謝すべきは神様です。神によって平安が与えられ、恵みによって生かされている私達です。自分が良いと思うことだけでなく、神はすべてを益に変えてくださるのですから、何が起ころうとも神を信頼することができれば幸いです。
   また、パウロが望んでいる「互いの信仰によって励ましを受ける」とは、信仰が成長するように互いに励まし合うことです。肉の価値観で生きてきた私達は、ともすると、肉の励まし合いをしてしまいます。しかし、信仰こそが私達にとって最も大切なものです。神に目を向けることができるように、互いに励まし祈り合いましょう。
   さらにパウロは、私達が御霊の賜物を手にすることを望んでいます。御霊の賜物とは何でしょうか。
   御霊とは三位一体の神のお一人です。神は、父なる神、イエス・キリスト、御霊(聖霊)の三人いらっしゃり、三人おられて一つの神です。たとえば、ぶどう一房にはいくつかもの実があって一つのぶどうであり、三角形は三辺あることで初めて三角形になるなどの事例が、三位一体を理解する手助けになるでしょう。
   神を信じる私達の中には、御霊が住んでおられ、賜物を与えています。それは何のために与えられるのでしょうか。

『あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。 』(新約聖書 コリント人への手紙第一 14:12)

   賜物の目的は、教会というキリストの体を立て上げることです。教会の徳を高めるために、神が与える道具なのです。荒地を畑にするために道具が必要なように、教会を立て上げるために必要な賜物を一人一人に与えているのです。

『さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。
ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:4〜10)


   賜物は、特定の人だけでなく皆にそれぞれ与えられ、キリストの体を立て上げるものであり、キリストの体は神の言葉を食べて平安を得ることを目指します。
   知恵の言葉とは、神の言葉を実際の生活に生かすことができる賜物です。
   知識とは、御言葉に対する知識のことで、知識の言葉とは、御言葉の正しい理解、その意味を深く理解することができる賜物です。
   信仰とは、救いに必要な信仰のことではなく、さらに神を深く信頼することができる賜物です。
   いやしの賜物も、奇跡を行う力も、信仰を励ますためのものです。これらの賜物は、その人個人がその力を持っていると誤解されやすいのですが、いやすのも信仰を成長させるのも神様です。その人に力があるのではありません。その人のメッセージや祈りによって信仰が励まされ、素直に信じる信仰が湧いてくる賜物です。
   聖書が教える預言とは、いわゆる予言とは区別され、神の言葉を預かって伝えることで、御言葉を通して神が私達に語りたいことを判断できる賜物です。
   聖書には、個人の将来を予言して支配するような教えはありません。私達が目指すのは神を信頼し、神の言葉を食べることです。あなたの将来はあなたが求めるものだと、神は教えます。多くの人が、宗教とは人生を決めてもらって自分で考えずにラクをするものだと思っています。しかし、まことの神は私達をコントロールしたいのではありません。しばられて強制されている状態から解放して自由にしたいと思っておられるのです。
   異言の賜物とは、聖霊のバプテスマによって与えられる言葉のことです。またそれを解き明かす賜物もあります。

   このように、賜物を詳しく見ていくと、その中心は御言葉の理解にあることがわかります。御霊の賜物とは、神が語ったことを思い起こさせ、御言葉の理解を助けて、教会の徳を高めるためのものです。
   ここで注意しなければならないのは、賜物は熱心に求めるものではありますが、その人の価値や信仰成長の証しとは、まったく関係ないということです。賜物を見ると、本人も周囲の人も、その人がすごいのだと思いがちですが、私達の価値はキリストの命を持っていることしかありません。
   キリスト教の教会には様々なスタイルがあり、それぞれに働きの違いや特徴があります。それは、一人でも多くの人を救いたい神の願いによるものです。そのために神は必要な賜物を一人一人に与えています。それは、教会を形成するために神が与えてくださった道具ですから、それを通して人の価値を考えてはいけません。

『兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:13)

   パウロは、自らが危険にさらされようともローマに行くことを切望し、何度もチャレンジしています。神の福音とは、それほどまでしても伝えたい素晴らしいものだからです。 伝道とは、強いられてするものではありません。福音の素晴らしさに気づいたら、伝えずにはいられないのです。
   今映画にもなっている「レ・ミゼラブル」という小説の主人公、ジャンバルジャンは世を憎み人間不信に陥っていましたが、キリスト教の司祭を通して真の愛に触れた時、180度人生が変わりました。彼は、人を愛し、助け、彼を陥れようとする相手すら赦し、助けの手を差し伸べるまでに変わったのです。
   神の愛に触れて人は変わります。神の福音は、過去の自分を完全に消去し、造り変える力があるのです。それを体験したら、伝えずにはいられなくなります。皆さん一人一人が真の神の愛に触れられることを祈ります。