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2013年2月10日
『御言葉の食べ方 応用編2』

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:11,12)

《前回までのあらすじ》

   私たちが戦うべき敵は、自分の内側にある神の言葉を信じられない不信仰です。神が助けるという言葉を信じれば、否定的な情報を信じ込んで不安やつらさを抱く必要はなくなるのに、なかなかそれができません。
   私たちは、どうすれば神の言葉を信じることができるのでしょうか。
   御言葉を信じることを、聖書は御言葉を食べると言っています。食物を食べれば成長するように、御言葉によって信仰が成長し、神を信頼する心を育てることができるからです。それは、ただ御言葉を読むこと、覚えることとは全く異なります。
   御言葉は大きく分けて、行いに関する言葉と約束に関する言葉とがあり、行いに関する言葉とは、御言葉を実行することで自分の罪に気づき、神の赦しを求める信仰が働く御言葉です。
   約束の言葉は、神を信頼する御言葉で、困難にぶつかってつらさを感じた時にしか食べられません。患難の中でも御言葉を食べることで平安を得るならば、その平安は本物です。しかし、この世の見えるものに心を奪われ、神以外のもので平安を得ようとすると、本当の平安を得ることはできません。
   神の本当の平安を得ることができる約束の言葉を食べるにはどうすれば良いのでしょうか。

約束の言葉を食べる準備

   約束の言葉を食べるには、「罪を悔い改めて赦される」ことの意味を知る必要があります。
   悔い改めというと、一般には後悔や反省を意味しますが、聖書が教える悔い改めは、「メタノイヤ=向きを変える」という言葉が使われており、後悔・反省という意味はありません。また、罪という言葉「ハマルティア」には「的をそらす」という概念があります。つまり、罪を悔い改めるとは、本来向かうべき神に心が向いていなかった状態(不信仰)から、神の方向に心の向きを変えることです。
   神に心が向かないとは、神の言葉に心が向かないこと、すなわち、神の言葉を信じようとしないことです。ですから、罪の悔い改めとは、神の言葉を信じようと心の向きを変えることです。この理解が、約束の言葉を食べる上で非常に重要なのです。

   私たちが、行いの御言葉を実行しようとチャレンジすると、必ず実行しきれない自分を発見し、自分の罪を知ることができます。人は罪責感を感じると、なんとかそこから解放されたいと願うものです。御言葉によって自分の罪を知った人は、罪責感から解放されることを願って赦しの御言葉にすがります。
   聖書は繰り返し、イエス・キリストがあなたの罪の罰を受けて十字架で死んでくださったので、あなたの罪は赦された、もうあなたを罪に定めないと言っています。これを自分のこととして信じることができれば、罪責感から解放され、平安を得ることができます。
   悔い改めとは、「神様、ごめんなさい」と祈って終わりではありません。自分の罪を発見して罪責感を感じ、そのつらさから神に赦しを求めて祈り、十字架の言葉を信じて、赦された平安を得るという一連の流れが悔い改めです。赦されたと信じる信仰が与えられ、初めて悔い改めと言えます。そして、罪赦された者は神を愛する者となります。
   信仰とは、自分の力で信じることではなく、神に心を向けた時に神の助けによって信じる心が与えられることです。それは、理屈ではなく、神の愛の体験です。
   罪を悔い改めるとは、赦されたという御言葉を信じる作業です。約束の言葉を信じる作業も、困難の時に神が助けるという約束を信じることです。つまり、神に心を向け、神の助けを得て信仰が与えられて平安を得るという点で、両方とも、実は同じ作業であると言えます。

『しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:26〜27)

   罪を赦すのは神のわざです。私たちが神の言葉を信じようとするとき、神が助けてくださり、神の言葉をしっかり食べさせてくれます。それが平安を生むのです。これが罪の悔い改めです。

『すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:28〜29)

   神が望む神のわざとは、奇蹟や行いではなく、私たちが神の言葉を信じることです。イエス様は、99匹と1匹の羊のたとえ話を通して、一人の罪人が悔い改めれば、天に喜びがわき起こることを教えてくださいました(ルカ15:4〜7)。イエス様はそのためにこの世に来てくださったのですから、私たちが目指すべきは、神の言葉を信じるに尽きるのです。
   しかし、このことがわからないと、御言葉を食べるのは反省して良い行いができるようになるためだという勘違いが生まれるのです。神が変えたいのは、行いではなく心の本質です。見えるもので平安を得ようとする人生から、御言葉を信じることで得られる変わらない平安を手に入れるようになることです。実は、これこそが、私たちが本当に求めている平安なのです。
   罪を悔い改めるとは、神の言葉を信じようとすることです。神の言葉に従って、悪いことをしたら素直に悔い改めを実行し、困難にぶつかったら神が助けると言っている言葉を素直に信じることを実行しましょう。

自分の罪の大きさを知る

   聖書は罪とは心の向きであり、罪に大小はないと教えています。ところが私たちは、道徳的な基準で自分の罪の大きさを測ろうとします。自分のことをたいした罪人ではないと思うならば、神に赦しを乞おうとは思いません。パウロが自分のことを罪人のかしらと呼んだのは、決して謙遜からではなく、本当に自分が罪人であることを知ったからです。
   自分がいかに罪深いかを自覚すればするだけ、赦しの言葉を信じられた時の喜びが大きいものです。同様に、状況が困難な時ほど神の約束を信じるのは難しいものですが、困難であればあるほど神の約束にしがみつくしか道はなく、信じられた時の喜びが大きいのです。それはそのまま神への感謝、神を愛する思いになっていきます。

   ルカの福音書に、イエス様の足を香油でぬぐった女性について、パリサイ人がつぶやく場面があります。彼女は、ヨハネの福音書で、姦淫の現場を捕らえられイエス様に赦された女性だと思われます。当時パリサイ人には、罪人とは一切交わらないという決まりがあったため、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と考え、つぶやきました。それに対して、イエス様は次のように言われました。

『ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。』(新約聖書 ルカの福音書 7:41〜43)

   自分の罪深さに気づかない人は、罪を赦すと言われてもたいして感謝しません。しかし、自分が大変な罪人だと思っている人にとっては、どれほどありがた言葉でしょうか。
   この女性は、多くの罪が赦されたと信じたので、このような行いになったのです。香油とは、現代の金額にすると車が1台買えるくらい高価なものです。彼女はそれをイエス様の足の泥をぬぐうために使いました。決して赦されるはずのない罪が赦されたことを信じて、驚き、喜び、感謝し、神を愛する者となり、行いが変わりました。
   イエス様は次のように言っています。

『この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけをしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』(新約聖書 ルカの福音書 7:44〜47)

   この女性は赦されたと信じることで変わりました。自分を変えたいと思うならば、神の言葉を信じれば良いのです。これが悔い改めです。このために神は私たちの中に働いて、信じられるようにしてくださるのです。この平安が来なければ、信じたとは言えません。この平安を一人一人に味わってもらうことが、神のわざ・神の願いなのです。

悪い行いは罪ではないのか?

   さて、神に心を向けない不信仰が罪だとわかっても、私たちがこれまで罪だと思ってきた悪い行いは罪ではないのかと疑問に思う方がいるかもしれません。悪い行いはもちろん罪であり、聖書では肉の行いと呼んでいます。

『肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:19〜21)

   このような肉の行いは、表面的な罪と呼ぶことができます。これらをよく見ると、見えるものを手にすることで安心を得ようとする行為であることがわかります。神の言葉ではなく見えるもので平安を得ようとすることは、心が神に向いていない不信仰の罪です。表面的な罪の原因は不信仰なのです。
   イエス様にたびたび不信仰を指摘されたパリサイ人は、神の言葉を信じることで行いが変わるのではなく、表面を良い行いに変えようと頑張りました。自分の行いが人によく思われることで心の平安を得ようとするため、人の評価を手に入れようと争ったり腹を立てたりする結果になるのです。
   しかし、神に心を向けることで平安を得られるようになると、見えるもので心を満たそうとするのがむなしくなってきます。人を憎んだり争ったりすることに興味を失い、むしろ、人を愛することに興味を抱くようになります。
   「あなたの隣人を愛しなさい」という御言葉を実行するカギも、実は神の言葉を信じて平安をいただくところにあるのです。

   罪を悔い改めるとは、表面的な罪を反省してごめんなさいとあやまることではなく、神の言葉を信じることです。罪とは見た目の行いではなく、不信仰です。悪い行いを悔い改めるとは、十字架の贖いを信じるという信仰です。本当に自分の罪深さを知り、贖いを信じられたら、人生で体験するどんな喜びにもまさる喜びを体験し、人は変わります。
   神の言葉を食べて平安を得ようとする生き方を目指すなら、約束の言葉を食べるとはどういうことかが見えてくるようになります。生きる目的がはっきりと見えるようになり、神の言葉を信じるようになり、義のために生きる平安をつかみます。
   私たちはこの希望に向かって生きています。困難な問題にぶつかっても、あきらめないで神に心を向け続けるならば、私の罪は赦されたという心躍らせる喜びをつかむことができるでしょう。