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2013年1月27日
『御言葉の食べ方 W』

   御言葉を食べる目的は、神を信頼する信仰を育てることです。どんな時もあなたを見捨てず、必ず助け出してくださる方がいつも共にいることは、なんと心強いことでしょう。この神様を信頼できるようになればなるほど、心が平安になります。
   信仰を育てる方法は、自分自身の罪に気づき、罪が赦される体験を積み上げることです。強い信仰とは、神に対して疑いを抱かず熱心に信じることだと思っている人が多いのですが、それよりもむしろ、自分自身の罪の大きさに気づいて、その罪を赦していただき、神の愛の大きさを知ることのほうが、より神を信頼できるようになります。
   神の愛を知識として知るだけではなく、実際に祈ってみるならば、必ず神の愛を体験します。「私の罪を赦してください」と悔い改めて、この実体験を積むことで、心から神を信頼できるようになり、平安を得ることができます。

罪に大小はない

   聖書は、罪は病気であり、イエス様は罪を赦してあなたをいやす医者だと教えています。ところが、自分は病気だと認識しても、軽い風邪程度では多くの人は医者にかかりません。同じように、自分の罪に気づいても、これはたいした罪ではないと判断すると、多くの人が神に助けを求めようとしないのです。
   しかし、聖書は、「罪はひとつしかない」と教えています。大きな罪と小さな罪が存在するのではありません。神は、行いではなく、心をごらんになります。ですから、罪を行いで判断することはなさいません。
   殺人も盗みも、悪口も妬みも、その原因はこの世の心遣いと富の惑わしにあります。つまり、すべての罪は、人から良い評判を得ることと富を得ることが人生の価値だと考える心から生まれます。この価値が得られないとき、人をさばき、争いが生まれ、罪の行いへと至るのです。
   神は罪の行いに目を留めるのではなく、罪の原因に目を留めます。この世の心遣いと富の惑わしとは、神に目を留めない不信仰のことです。ですから、罪は、不信仰というひとつの罪しかありません。
   この世は、罪の大きさを問題にし、その大きさに応じて罰を与えます。ですから、日頃この世の価値観によって物事を判断するクセがついている私たちは、ここでも知らず知らずのうちに、神の価値観ではなくこの世の価値観で考え、たいした罪ではないと判断して、神に助けを求めようとしないのです。

『違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 6:3〜5)

   神の言葉に同意しない人は、不信仰という病気にかかっています。イエス・キリストは、この病気を癒すために、地上に来てくださったのです。
   不信仰という病気が生み出す症状が悪の行いです。私たちが通常悪いことだと意識するあらゆる行いが、そこから発していると聖書は教えています。
   つまり、罪に大小はなく、ただ不信仰だけがあります。不信仰とは、神の言葉に同意しないこと、信じようとしないことです。神はあらゆる罪の行いの根源である不信仰を問題にされます。

『もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 2:8〜10)

   人々から尊敬されている立派な人格者の方がちょっとくらいえこひいきをしたとしても、多くの人はそれくらいたいしたことないじゃないか、と思うものです。しかし、神の視点と私たちの視点は大きく異なります。神は、えこひいきは罪だと言われます。そして、殺人も強盗も、えこひいきという罪を犯すのも、原因はただ一つ、神を信頼しない不信仰によるものだと言われます。行いではなくその心をご覧になる神様から見れば、どちらも心の中に不信仰という罪だけが存在するのです。
   もし、すべての病気の原因ががん細胞だとしたら、どういうことになるでしょうか。咳をしただけでも、目が痒いだけでも、自分の中にがん細胞があるということですから、すぐに病院に行き、早期発見早期治療で、すぐに完全に取り除こうとすることでしょう。がんは恐ろしい病気だとわかっているので、なるべく小さいうちになくしてしまうに限ります。
   罪も同じことです。私たちは目に見える表の罪だけを見て、たいしたことないと思うかもしれませんが、すべての罪の原因は不信仰です。その根を絶やさなければ、やがてあなた全体を滅ぼすものとなります。

不信仰を発見する

   例えば、神はあなたのことを高価で尊い、あなたはイエス・キリストが身代わりに十字架にかかるほど大切だと言っています。あなたはその言葉に同意しているでしょうか?むしろ、自分はダメだ、私のような人間が愛されるはずがない、価値があるはずがないと思っていませんか?
   人の価値を行いで判断するならば、行いで失敗すると自分はダメなものだと思い、行いを人と比べて人の価値を決め、自分はダメだと落ち込んだり、人を裁いたりします。そして、人は、自分をダメだと思うと、人のこともダメに見えて裁きます。そうして、しっとや妬みや争いが生まれ、さまざまな罪の行いが引き起こされます。
   行いを基準にすると、ダメなものをどうすれば良くできるかという生き方になります。どうすれば自分は良くなるか、×を○に変えることを目指す生き方になります。
   しかし、神は初めからあなたを良いものとして造られました。あなたは初めから良いものなのだからそのままでいい、罪という病気になってしまったけれど、その病気を私が取り除いてあげようと言っておられます。事実、イエス様は、一度も罪人を責めたりせず、すべて赦しておられます。
   ところが私たちは、これは病気ではなく私の価値なので取り除いていただくことはできないと思い込み、神の言葉に同意せず、相変わらずダメな私はどうしたら愛されるのだろうかと考えるのです。これが罪の行為を生み出しているのです。

   ふと立ち止まって、自分は神の言葉に従っているだろうかと考えてみましょう。「人を愛しなさい」という御言葉に対して、愛せない自分を見つけたとき、なぜ愛せないのか、なぜ憎んでしまうのか、考えてみましょう。それは、人を愛するのに条件をつけているからです。人の価値を条件で判断し、自分自身も条件をクリアすることによって愛されると思っているので、なんとかその条件をクリアして愛されようとしています。
   私たちは皆、愛されたいという欲求を持っています。それに対して、神はあなたを愛していると言っておられるのに、私たちは神ではなく、人から愛されようとしています。なぜでしょうか。それは、神の言葉よりも人の言葉で愛されたいと願っているからです。神の言葉には同意せず、人の言葉が欲しいと思っているので、人の言葉をもらうための条件をつけているのです。
   結局何が問題かというと、人の言葉で心を満たそうとすることです。これが不信仰です。なぜ人の言葉で満たされようとするかというと、あなたは高価で尊い、あなたの命は価値があるといわれる神の言葉に同意せず、自分は愛されないダメなものだと思っているから、設定した条件をクリアして、少しでも人から愛される言葉をかけてもらおうと思っているのです。
   世界では人の価値は皆同じであるという考え方が中心です。先進国の憲法は皆この考え方を基準としています。この平等性を人はどこから学んだかというと、それは聖書の教えが模範となっています。しかし、人間のほうがその教えてに追いついていません。世の中の仕組みは聖書が基準になっても、私たちは心からそう思えず、私たちは人の行いに価値をつけ、その結果、罪に大小をつける考え方から抜け出せません。罪に大小があると考えると、小さな罪はたいしたことがないと考え、神に差し出そうとしなくなります。しかし、罪の原因は不信仰というただ一つの罪が発しており、罪には大小などありません。

御言葉を飲み込む

   すべての罪が不信仰から発しており、罪に大小などないと気づけば、問題なく御言葉を食べることができるようになるのでしょうか?実はこのあとに、御言葉を食べる上で最大の難所を迎えるのです。
   私たちが食べる食べ物には、心地よい味のものも苦いものもあります。しかし、美味しいものだけを食べていたのでは、病気になってしまいます。健康に必要なものを食べなくてはいけません。
   御言葉も同じように、心地よい御言葉と苦い御言葉があります。御言葉を実行して、自分の罪に気づくのは、食べ物を噛んでみて、その味に気づくようなものです。すると、罪に気づいたは良いが、飲み込むことができないという障害に出会うのです。
   つまり、御言葉を食べて罪に気づいても、最後の最後に悔い改めを拒否してしまう、ということです。悪いとわかっていても「ごめんなさい」が言えない、謝ることができない、という経験があなたにもあるのではないでしょうか。
   しかし、飲み込まなくては栄養になりません。最終的に、神の前に気づいた罪を差し出し、悔い改めができなければ、魂の栄養にならないのです。その悔い改めを拒否する自分・・・これが最終的な難所になります。

『それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:4,5)

   せっかく神様が罪に気づかせてくれても、あなたの中にある悔い改めを拒否するかたくなさを捨てなければ、御言葉を食べても消化ができず、栄養になりません。かたくなさを捨てるには、砕かれるしか道はありません。
   罪が赦される平安は、イエス様の十字架によって自分の罪が赦されたと誠に信じることができた時に訪れます。
   あなたは自分の罪を認める時、十字架の贖いの言葉を信じられるでしょうか?
   こんな私のためにイエス様が十字架にかかって代わりに罰を受けてくださった、と神に感謝できる時平安になります。その平安によって、神のために何かしたいと自然に思うようになるのです。人は赦されれば赦されるほど神の愛がわかり、神を愛するものとなります。自分の罪の大きさが分かればわかるほど、多く愛するようになります。神の愛を知る大切な作業が悔い改めなのです。
   ところが、御言葉を噛んでも飲み込むことをしない私たちがいます。それがかたくなさです。
   何がかたくなさを生んでいるのでしょうか。私たちは、意識しないうちに、かなり見えるものにしがみついて生きています。お金、自分の身分、肩書き・・・。いろいろなものにしがみついては安心を求めて、それを手放すことができません。それを持っていることが悪いのではなく、それに平安の根拠を置いていることが問題です。それによって平安を得ているから、神にしがみつこうとしないのです。これが鎧です。この鎧が砕かれないと、神の方向に向かうことはできません。
   神はあなたが砕かれるためによく患難を用いられます。しかし、神が患難を引き起こすのではありません。神がなさるのは、あなたを助け出すことです。失敗しない人、患難に会わない人はいません。しがみついていた鎧を失う時は必ず訪れます。その時こそ私たちが砕かれるチャンスです。神以外のもので平安を得ていた不信仰を悔い改めるとき、患難が栄光に変わります。
   神との関係がしっかりと出来上がると、すべてのことが益と変えられるとわかってきます。うまくいくことばかりではないが、その時がチャンスだと知り、患難に会っても平安を得ることができます。
   かたくなさは根深く、手ごわい相手ではありますが、普段からどんな罪も悔い改める習慣を身に付け、戦っていきましょう。