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2013年1月20日
『御言葉を食べるパートV』

御言葉を食べる

   私たちは体の健康を保つために、食事や運動や健康診断など、さまざまなことに気をつけます。では心を健康に保つためには、いったい何に気をつければ良いのでしょうか?
   神が心の食事として用意してくださったのは、御言葉です。
   御言葉を食べるとは、ただ聖書を読むことではありません。聖書を読んでも、間違った食べ方をしてしまうと、消化することができず、食べたことにならないのです。どのように聖書を読み、消化すれば良いのでしょうか。

誤った食べ方の罠

   御言葉を食べるとは、御言葉に従うことです。しかし、時には神が命じておられる御言葉が難しく思えることがあります。すると、どうすれば従っていることになるのだろうか、こういうケースの場合はどうなのだろうか、と行いの基準を求め、これなら自分は達成できると判断したくなるものです。
   実は、このような考え方が間違った食べ方の罠なのです。
   神は、私たちが持っている様々な思い込み・価値観を、神の価値観に変えることによって、平安を得させようとします。御言葉は、自分の価値観が神の価値観とどのようにずれているかを確認するためのものです。御言葉に反する自分を発見したら、ただ、そのことを神様に悔い改め、罪の赦しを受け取りましょう。イエス・キリストによる一方的な恵みを受けることで、自分の中の価値観が変えられ、心に平安が訪れ、砕かれます。そうすることで、私たちはよりいっそう御言葉を食べられるようになるのです。
   ところが、御言葉を達成することを目標にすると、御言葉が達成できると平安で、達成できないと自分は努力が足りないからだめだという間違った認識が生まれます。達成感を平安と勘違いしてしまうのです。すると、罪とは自分の努力不足の結果であり、悔い改めとは努力不足を神の前に反省することだという理解になってしまうのです。
   確かに世の中では、努力が足りなければ反省して、次はクリアできるように頑張ることが賞賛されます。この基準で聖書を読み、御言葉に従おうとすると、いったい自分のどこが間違っているのか理解できず、悔い改めにならないので、御言葉を食べたことにはならないのです。
   何をすれば御言葉に従っていることになるだろうかと考え、達成感を得て安心しようとすること、これが第一の罠です。

『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』(新約聖書 ルカの福音書 18:9〜14)


   ここに登場するパリサイ人も、この罠に陥っていました。「自分はこんな悪い連中と違うことを感謝します。」・・・これは、御言葉に従うことで自分を高くしようという発想です。パリサイ人は、確かに御言葉をよく知っていましたが、食べ方を間違ってしまいました。御言葉を守ることで達成感を得るために、細かな規定を作り、それを守ることで安心を得ていました。
   私たちも同様に、知らず知らずのうちに、御言葉を自分を評価するためのものさしにしていないでしょうか。神の御言葉を通して誇ったり、さばいたりしていないでしょうか。

罠に落ちないために

   御言葉は罪を知るためのものさしであり、人の価値を測るためのものさしではありません。
   あなたの価値については、すでに神が定めておられます。あなたは神によって命を与えられ、神の命が宿っている存在、つまり、キリストご自身と同じ価値があります。行いが素晴らしいから価値があるのではなく、キリストの一部であるから素晴らしいのです。
   ところが、アダムとエバが罪を犯したことにより、人間はこの価値を見失ってしまいました。罪の性質は代々受け継がれ、まるで泥のついた宝石のように、私たちには本来の素晴らしさが見えなくなっています。
   神が定めた価値基準を見失った人間は、自分の価値を測る基準として、人からよく見られることや物質的に豊かになることに価値を置くようになりました。
   人の評判や富が価値だと思っている私たちが、御言葉を実行しなさいと言われると、無意識のうちに、御言葉を達成して人から良く見られることで平安を得よ、という意味だと思い込んでしまうのです。
   これがこの世の心遣いや富の惑わしが、私たちの成長を妨げる罪のいばらと言われる所以です。(新約聖書 マタイの福音書 13:19〜23)

『しかし聖書は、逆に、すべての人の罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:22)

   神は、自分の価値を見出して、誇らせるために、御言葉に従うよう教えているのではありません。正しく御言葉に従えば、先ほどの取税人のように、罪深い自分を発見して苦しくなります。「御言葉に従えた、これもできた」と喜ぶのでは、御言葉を正しく食べたとは言えません。
   そもそも聖書の言葉とは、私たちにできないことが書いてあるのです。いえ、本来の私たちにはできたのですが、罪が入り込んだ結果できなくなったのです。何が正しいのかはわかるが、実行できない・・・。罪が私を邪魔するので、悪いと思っていてもそれをやってしまう、そう聖書は教えています。
   聖書の言葉に従おうとすることによって、まだ救われていない人はこのままだと神の国に行けないということに気づき、神に助けを求め、救いにあずかろうとするようになります。すでに救われた人は、自分の罪の状態に気づき、罪を取り除いていただこうと神に助けを求めるようになります。すると、神が信仰を与えてくださり、ますます御言葉を食べることができるようになり、神との交わりが深まり、信仰が成長し、神の約束を信じられるようになり、さらなる平安を手にすることができます。
   これが御言葉を食べるということです。御言葉を食べるカギは、自分の罪に気づくかどうかです。
   神が人を造られた時、人は罪を犯す者ではありませんでした。罪は後から入り込んだものであり、私たちの本質とはまったく関係ありません。罪によって人の価値が変わることはありません。
   しかし多くの人は、罪とは自分の価値を否定するものだというこの世の価値観が根付いています。そのため、自分の罪を隠してなかなか認めようとしません。また、神の前に罪を差し出すだけで赦されるという神の愛に対して、肉の価値観は猛烈に反発し、御言葉を読んでも罪に気づかせないように働きます。
   主は、あなたの罪はすでに赦されていること、あなたは愛されていることに気づかせたいと願っておられます。自分が罪人であると気づき、愛を知れば知るほど、私たちは人に条件をつけなくなります。人を愛せない原因は、条件をつけることにあります。「○○な夫なら従える・・・、○○な妻なら愛せる・・・、○○な親なら敬える・・・」、これは、人の価値はうわべにあると信じるところから発しており、自分にも同様の条件をつけています。これを取り除かない限り、神の言葉を正しく食べることはできません。

罪は病気

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)

   人は、自分にとって価値のあるものを手に入れることで、自分の価値をあげようとしています。その価値基準のことを、聖書では律法と言っています。この律法は、この世の心遣いと富の惑わしから生まれました。評判や富を得られれば安心できる反面、私たちはそれを失うことを恐れ、敵意を生み出しては、私たちを苦しめています。
   罪によって神と分離した私たちは、死の恐怖から逃れるために、人によく思われることや富という見えるものにしがみつくようになりました。金に価値があると思えば、金を得ることに心は集中します。見えるもので心を満たそうとすると、争い、妬みが生じます。尖閣諸島をめぐる争いも、もとはと言えば、付近の資源によって豊かになることを求めての争いです。いかなる戦争も、見えるものにしがみつこうという思いがその発端なのです。

『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロ第一の手紙 2:24)

   罪は主がいやすものです。自分は病気だと知ったら医者にかかって治療を受けます。命にかかわる病気であればなおさらです。罪は魂の病気です。この病気は、必ずあなたを死に至らせます。この罪という病気をいやすことができるのは、イエス・キリストしかいません。
   自分が罪に閉じ込められて命の危険にある状況だと気づけば、神に助けを求めるしかありません。その時、神の言葉を信じようという働きが生じ、神から与えられた信仰が働くようになります。その結果、あなたはいやされ、さらに御言葉を食べることができるようになり、平安という健康を手にします。
   体が不調の時、人は病気を突き止めようとどれだけ必死に検査を受けることでしょう。健康に見えても自覚症状のない病気もあるからと、人間ドックにまで入って、一生懸命病気を探します。病気に気づいたら、早期発見できたことを喜び、早く治してもらおうと医者を頼ります。
   罪は病気です。どうぞ体の病気と同じことをしようではありませんか。
   聖書の言葉を読んで従っていくと、自分がいかに不信仰であるか、隠れた罪を発見します。その時、罪は「自分の価値を否定するもの」だと思っていると、自分の罪を必死に隠し、御言葉を実行している自分を装います。信仰の二重生活です。そういうクリスチャン生活は疲れて、長続きしません。罪は主がいやしてくださる病気だという正しい認識を持つと、罪に気づけば気づくだけ、神様にいやしていただくことができ、平安で幸せに生きられます。

『それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』(新約聖書 マルコの福音書 2:15〜17)


   自分が病気だと気づけば、医者が必要です。罪に気づかない限り、知識で神との関係を築くことは不可能です。自分が罪に苦しんでいることを知り、神に癒されるという経験、実体験を通して、神との信頼関係を築くことができるのです。

『それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:5〜8)

   足の泥は罪を表します。足を洗うとは、罪を取り除くことを象徴した行為です。神様ご自身が弟子の汚い足を洗ってくださるのです。
   イエス様は「今はわからなくてもいい」と言って洗ってくださろうとしたのですが、ペテロはイエス様にそんなことをしてもらうのは申し訳ないと思って、拒否しました。するとイエス様は、もしあなたが罪を差し出さなかったら、私とあなたとは関係がないと言われました。
   イエス様がこの世に来た目的は罪を取り除くためです。どんなに御言葉を読んでも、罪を差し出さないならば、知識が増しただけで、神様との人格的な交わりがないと言われたのです。なんと恐ろしいことでしょうか。
   神の言葉を食べるとは、自分の泥に気づくことです。きれいな足に気づくためではなく、汚い足に気づくことです。自分の足の汚さに落ち込んだり、なんとかしようとやる気を起こすことが大切なのではなく、神様助けてください、と汚れた足を差し出すことが大切です。この時、初めて神との関係を築くことができます。そして、神の愛に気づき、平安を与えられます。その愛によって、自分の力や努力ではなく、人を愛することができるように変えられるのです。
   神との人格的な交わりとは、「自分を変えてください。罪を取り除いてください。」という祈りです。この体験が、御言葉を食べるということです。
   あなたが罪に気づかない限り、御言葉を食べていることになりません。何をすれば御言葉に従えたと言えるのかを考えるのではなく、従えない罪人の自分を神様に明け渡し、助けを求めて生きましょう。