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2013年1月13日
『御言葉の食べ方U』

『御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:22,23)

   「御霊の実」は「平安の義の実」とも言い、神の言葉を食べることによって起こる変化です。
   御言葉を食べるとは、御言葉を信じることです。御言葉を信じて食べると、御霊の実、すなわち平安の義の実がなるので、つらさから解放されるのです。
   イエス様は、種まきのたとえで、どのように御言葉を食べれば良いかを教えています。イエス様は多くのたとえを話されましたが、種まきのたとえだけに解説を加えておられます。ですから、このたとえ話はイエス様のメッセージの基本とも言える重要なたとえ話です。

『種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。』(新約聖書 マタイの福音書 13:3〜8)

   次が、このたとえ話に対するイエス様の解説です。

『御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。』(新約聖書 マタイの福音書 13:19〜23)

   種は御言葉を表します。神が御言葉を蒔いたものが聖書です。
   しかし、聖書の言葉を聞いても、キリスト教に対する批判を聞くとすぐに信じるのをやめる人がいます。それが、悪い者に奪っていかれる人です。
   また御言葉を聞いて喜んでも、困難なことが起きるとすぐに教会に来なくなる人もいます。
   このような道ばたパターンと岩地パターンの人達に共通するのは、両方とも根がないということです。
   根とは信仰です。神が与えた信仰がなければ、御言葉を食べることができません。自分の能力で信じようとしていると、困難が起きた時につまずいてしまいます。順境の時には、自分の信仰が神からのものか自分の努力で信じようとしているのか、なかなか判断がつきませんが、困難につまずいた時こそ、それを確認することができるチャンスです。ですから、つまずいている自分に気づいたら、「神様、私に信仰をください」と祈りましょう。
   神は信仰を与え、信仰によって御言葉を食べることによって、さらにその信仰を育てることができます。御言葉を食べる目的は信仰を育てることです。
   平安とは、大きな信仰を育てたということです。信仰によって、神への信頼が増し加わると、結果として平安になります。
   御言葉を食べて信仰を育てるために、まずは、神から信仰をいただきましょう。

   続いて、御言葉を聞いて根をはった人(信仰をいただいた人)も、2種類に分かれます。いばらのために成長することができない人と、いばらがないので成長する人です。いばらがないと言っても、初めからいばらがない人などいません。私たちクリスチャンは、皆いばらからスタートし、それを取り除き、良い地を目指すのです。
   22節にあるように、クリスチャンにとってのいばらとは、この世の心遣いや富の惑わしです。私たちが御言葉を食べられないのは、世の心遣いや富の惑わしが、御言葉をふさぐからと聖書は教えています。
   いばらを取り除き成長するために、どのように御言葉を食べれば良いのか、詳しく見ていきましょう。

1.御言葉を食べるとは、聞くことから始まる

『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:17)

   御言葉は大きく分けて、行いに関する御言葉と神の約束に関する御言葉の2種類があります。
   十戒をはじめとする行いに関する教えは、できるかできないかを判断しやすく、比較的食べるのが簡単な御言葉と言えます。それに対して神の約束に関する教えとは、病人に手を置けば癒される、家族が救われる等、祈りに対して神が必ずこたえてくださると信じる御言葉です。これが信仰を育てるための主食となります。
   いずれの御言葉も、しっかり聞いて引き出しをたくさん持っておくと、自分に必要な御言葉を自分で食べることができるようになります。

2.御言葉を食べるとは、価値観を変えること

   御言葉を食べて成長するためには、この世の心遣いと富の惑わしといういばらを取り除かなければなりません。これは、自分の価値観を変えることです。
   この世の心遣いは、人からよく思われたいという思いから生まれ、富の惑わしは、見えるものを手にすることで心を満たそうとする思いから生まれます。
   人は自分にとって価値あるものを手にすると安心します。人からの賞賛や富に価値があると思っていれば、それを得て平安を得ようと考えるのは当然です。しかし、この世の見えるものに価値を置く価値観は、神の言葉を邪魔するものです。自分の価値観によって御言葉を勝手な意味に解釈し、ただ自分の信念を強化するために御言葉を利用する生き方は、いくら御言葉を知っていても、食べていることにはなりません。自分の価値観を保護する為に御言葉を利用しているので、ただ自我が強くなるだけです。ちょうどパリサイ人のようです。

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:2)

   何に価値があると考えるかが、その人の生き方を決定します。見えるものにこそ価値があるという価値観は、人を行いといううわべで裁き、見えるものを手にできないと、人や自分を裁きます。こういう人は、いくら御言葉を聞いても、正しく理解できないので、御言葉を食べることができません。価値観を変えて、初めて御言葉が食べられるのです。

3.御言葉を食べるとは、御言葉に従うこと

   価値観を変えるためには、御言葉に従うことが必要です。理解できない、私はそう思わないという理由で従わないことは、自分の価値観の判断であり、それは神への反抗です。従うことを拒否すれば自分の価値観は変わりません。
   聖書が、親や上司などすべての人が権威に従うように教えているのは、自分の中にある反発心を発見するためです。神の言葉に反発する心こそが、御言葉をふさぐいばらです。それを発見することが、罪を取り除いていただくチャンスなのです。
   旧約聖書では、10分の1は神のものであるから神にお返しするように教えています。自分の富を手放す教えは、肉の価値観を刺激します。また、新約聖書では、あなたの敵を愛しなさいと教えています。あなたを憎む人、嫌う人を愛しなさいという教えに、肉の価値観は激しく反発します。
   あなたが神の憐れみを求めて罪を差し出すことができるように、神はすべての人のうちにある罪を明らかにしようとしておられます。自分の中にいばらがあることに気づき、神に差し出して、取り除いていただくことによってのみ、人は価値観を変えることができるからです。
   神に価値観を変えていただくこと、これが恵みです。

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)

   見えるものに価値があるという肉の価値観は、もともと死への恐怖から生まれました。その恐れが私たちの心を支配し、見えるものに安心を求めさせ、罪にしがみつかせます。○○でなければ価値がないと人の価値を判断する律法のものさしを作り、さらに罪を生み出しています。
   ですから、恐れを締め出さない限り、肉の価値観を取り除くことはできません。その恐れを締め出すことができるのは、十字架の全き愛だけです。

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)

   イエス様は、あなたを愛していることを伝えるために、十字架にかかられました。帰ってきた放蕩息子を父が赦し愛を注いだように、あなたの罪は赦したから何の心配もいらない、あなたは愛されていると神は語っておられます。
   死への恐れによって、私たちは刑罰をもたらす罪にしがみつくようになりました。神に愛されていることを知らなければ、価値観を変えることはできません。罪の赦し以上に神の愛を知る道はありません。

『また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 3:18,19)

   モーセに率いられた人々は、神を信じられずにつぶやき、従おうとしない不信仰のため、平安を手に入れることができなかったとあります。
   御言葉を信じるとは、願ったことは叶えられたとただ信じるだけではありません。御言葉を信じて従えないのに、願いが叶ったと信じられる人はいません。御言葉を信じて食べるとは、つぶやかないで従うことです。自分の願いと違う結果になってつぶやく人に共通しているのは、御言葉に従おうとしていないという点です。御言葉に従おうとすれば、つぶやくことなどなく、願ったものが手に入らなくても信仰で手に入ったと信じることができるのです。
   変化をもたらしたいならば、まずは行いに関する御言葉に従うことから始め、反発心を発見したならば、その罪を悔い改め、赦される体験をしてみましょう。
   その中でいばらが取り除かれ、根が伸び、約束の言葉が食べられるように成長します。すると、どんな結果になろうともつぶやかないように信仰が成長します。

『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)

   神の言葉を信じて食べる人たちは約束のものを手に入れなくても動じません。思いがけない出来事にぶつかり、「神はひどい」と思ってしまうのは、まだ足元ができていないからです。御言葉に従って、自分の価値観を変えることで、ゆるがない足元を作りましょう。
   ただし、行いに関する御言葉を世の中の価値基準ではかると、できない自分を発見したとき、自分はダメなものだと判断してしまいます。聖書の基準は、恵みに預かるための基準であることを忘れてはいけません。信仰を働かせるとは、価値観を変えることです。行いに関する御言葉によって自分の罪に気づいたら、ダメな自分を発見したのではなく、神の恵みを受けるための罪を発見できたのです。喜びと感謝の中で、罪を取り除いていただく作業をしましょう。