『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。』(新約聖書 マタイの福音書 4:4)
人の心のつらさは、それを引き起こしている出来事が問題なのではなく、それをつらいと感じている心の問題です。人の心は、その魂を造られた神に属しており、神の言葉を食べることによってのみ、私たちの心は平安を得ることができます。ですから、困難の中にあっても、平安を得ることができるのです。出来事の解決は、本当の平安をもたらすものではありません。
人の魂はパンだけで生きるのではなく、神の言葉を食べて初めて生きることができます。それは、魂が目に見えない神に属しており、目に見える出来事と直接関係がない世界にいるからです。テレビでいくらおいしそうな料理を見てもお腹がふくれないのと同様に、目に見えるこの世の出来事では魂は満足できません。ですから、この世の出来事によって一時的に満足を得ても、その満足が継続しないのです。
魂を満たすために、神が用意した食物が御言葉です。神の用意した健全な食べ物をしっかり食べて、心を健康な状態に保ちましょう。
神の言葉を食べるとは、信じることです。ところが、信じるといっても、神が与えた信仰によって信じるのか、自分の力で信じようとしているのかによって、大きな違いが生じます。その違いは、信仰の結果にあらわれます。
もし、自分が神からいただいた信仰ではなく自分の力で信じようとしていることに気づいたら、そのことを神の前に祈り、軌道修正しましょう。正しい食事をすることで、魂は満たされ、強められます。
神からいただいた信仰によって信じるとは・・・
1.行いに変化が生じる
『たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 2:26)
神からいただいた信仰によって御言葉を信じると、その御言葉を実行するようになります。神は、肉体と魂の両方がひとつとなって人となるように、人を造られました。つまり、魂において御言葉を受け入れたら、肉体に行いの変化が生じるのです。
御言葉を聞いても、きちんと飲み込んで消化しないと、行いは変化しません。
聖書の言葉は大きく分けると、モーセの十戒のような行いに関する教えと、神の約束に関わる教えがあります。このような分け方は表面的なもので、実際はもっと奥の深いものですが、行いの変化を確認するために、この二つに分けて考えてみましょう。
a.行いに関する教えを実行する
行いに関する御言葉は、文字通りそれを実行しているかどうか行いで判断できます。しかしパリサイ人のように立派な行いは、信仰からではなく肉によって行うこともできます。
そこで、さらに神の約束の言葉を信じたら、その行いにどういう変化が生じるかを見てみましょう。
b.神の約束に関する教えを実行する
神の約束に関する教えとは、イエスは救い主であり、復活され、私たちに永遠の命を与え、神はあなたを愛しており、あなたを助ける・・・このような約束のことです。特に、神が一番多く語っておられるのは、恐れるなということです。
『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』(旧約聖書 イザヤ書 41:10)
もしあなたがこの言葉を本当に信じることができたら、神が助けてくれるのだから大丈夫という行動の変化が生じます。神を信じて、あきらめなくなります。この変化はなかなか目に見えません。
また、神に愛されていることを信じたら、その人の行いは自然と人を愛するように変わります。神に愛されていることを知れば知るほど、人は人を愛するようになるのです。人を愛せるようになった自分に気づいたら、神に愛されていることがわかるようになったと自覚することができます。
2.平安を手にする
イエス様の時代、最も立派な行いができていたのはパリサイ人で、人々は彼らを信仰があると思っていました。けれど、彼らの心の中は、さばいたり、しっとしたり、まったく平安のない状態でした。だから自分たちより人気のあるイエス様をねたみ、十字架につけたのです。
人の生活、人の行いが気になり、批判をしたり、嫉妬をしたりするのは、平安がないからです。平安がないから、人から褒められる言葉で生きていこうとするのです。神からの平安が与えられると、そういうことはどうでも良くなります。自分が美味しい食事をして満足していたら、誰が何を食べているか気にならないのです。
創世記に登場するヤコブは、大変頭の良い人物でした。彼には双子の兄がいましたが、兄の持っている長子の権利が欲しかったヤコブは、親を騙して長子の祝福を受けることに成功します。兄は怒り、弟を殺そうとしたため、母親はヤコブをおじのところに逃がしました。ヤコブはそこで何年も働いて財を築き、ついに生まれ故郷に帰ることを決意しますが、まだ兄の報復を恐れていました。そこでヤコブは、しもべを先に歩かせ、財産、さらに家族までも自分の前を行かせ、もし兄が危害を加えてきたら、まっさきに逃げられるようにして故郷に向かいます。その途中、様々な不安やつらさを覚えたヤコブは、神に必死にしがみつき、神からあなたをイスラエル(おおいなる者)と呼ぶと祝福を得ました。その神の言葉を心から信じ、平安を手にしたヤコブは、一番前を歩くように変わりました。そして、兄を見つけるやいなや抱き合って和解したのです。平安は理屈ではなくその人の行動を変えます。
ヤコブは神の言葉を食べて平安を手にしました。その根拠は何でしょうか。
『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1)
神からいただく信仰は、神がなさることだから絶対に大丈夫だという確信を与え、神からの安息を目指す生き方に変えられます。
『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)
3.砕かれる
砕かれるとは、次の3つのような変化が現れることです。
a.見えるものにしがみつく生き方から神に仕える生き方に変わる
人は生まれながらにして、見えるもので平安を得ようと、人の言葉や富を心の糧として生きています。このような生き方を、肉に属する生き方と言い、砕かれるとは、肉に属する生き方が壊され、そのような生き方をやめることです。人の言葉や富に仕える生き方から、神に仕える生き方に変わることです。
『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』(新約聖書 マタイの福音書 6:24)
人の言葉と神の言葉を同時に食べることはできません。神はありのままのあなたをOKと言いますが、人は必ず条件をつけます。○○ができたらOK、○○だから素敵・・・・・・。これらを信じたとき、あなたは神の言葉を吐き出したことになるのです。人の言葉で落ち込んだ時、あなたは神の言葉を無視したことになるのです。
人が語る言葉で一喜一憂するのは、神の言葉を食べて安心するのとは正反対の生き方です。神の言葉を信じると、今まで富と人の言葉に仕えて少しでも心を養おうとしてきた生き方から変化が生じ、見えるものにしがみつかなくなります。
b.素直に聞くようになる
『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22,23)
この世の心遣いと富の惑わしが排除されると、御言葉を素直に聞いて受け入れることができるようになります。
多くの人は、神の言葉を世の中の価値観というフィルターを通して理解しようとします。「聖書はそんなことを言っても現実にはありえない。」「聖書がそう言っても私はそうは思わない。」・・・これでは、御言葉を食べたことになりません。砕かれると、フィルターの力が弱くなり、御言葉を素直に信じようと受け入れられるようになります。
この世の価値観というフィルターが弱くなり、御言葉をしっかり食べるようになると、かえって、御言葉に相反する情報を排除するようになってきます。
聖書は、若い時に神を知るようにと教えています。(伝道者の書12:1)それは、子どもはフィルターが弱く、素直に信じようとするからです。ですから、親が子どもに対してまずしなければならないことは、信仰を伝えることです。
c.自分の弱さを理解する
人は一人では存在できません。神は、何かを必要とする人を弱い存在として造られたのです。砕かれれば、自分の弱さがわかるようになります。そして、弱さに気づくと神の恵みがそこに働くようになります。
『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:26)
弱さを自覚すればするほど神が助けてくださいます。神の言葉を食べるとは神に助けられて生きることです。このように弱さを自覚し、神の助けを受けることを砕かれるというのです。
以上のことを通して、神の言葉を食べているかどうかがわかります。もし、自分がきちんと食べてないと思い当たるならば、それは決して恥じることではありません。食べているようで食べていない、そのことに気づくことが幸いです。正しい神の言葉の食べ方を覚え、健康な魂を養いましょう。
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