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2012年12月23日
『愛されていることを知った』

   クリスマスとは、キリストを礼拝するという意味です。キリストの誕生が、なぜこんなにも世界中で祝われるのでしょうか。
   そのことを知るために、人がつらいと感じる3大要素を考えてみましょう。

1.自分の罪を隠して生きていかなくてはいけない
2.自分の弱さを隠して生きていかなくてはいけない
3.自分の思いを隠して生きていかなくてはいけない

   誰しも、人に言いたくない過去・知られたくない過去を持っているものです。また、誰でも1度くらいは、本人の前では言えないことを陰で言ったことがあるでしょう。陰で言えることも、いざ人前に出るとなかなか言えなかったりするものです。
   なぜそこまで自分を隠そうとするのでしょうか。それは、愛されたいからです。人からよく思われたいからです。では、なぜ愛されたいと思うのでしょうか。それは、愛されていないと思っているからです。
   人間は、生まれながらに自分は愛されていないと思っているため、愛されようと努力して生きています。しかし、人に良く思ってもらうために自分を隠すのはつらいことです。ストレスがたまります。そこで、どこかで、うっぷんばらし、ストレス発散をしなくてはいけなくなります。人間は、それを繰り返して生きているのです。

   その解決は愛されていることを知るしかありません。愛されていることを知ることで、そのつらさ・ストレスを解決することができるのです。

   人々がこれほどまでにクリスマスを祝う背景には、自分が愛されていることに気づいた喜びがあります。神であるキリストが人の姿となって私たち人間のところに来られたのは、神は我々を愛しているというメッセージを伝えるためです。クリスマスには、プレゼントやカード、そして共に過ごすことによって愛を伝え合う習慣がありますが、これは、神が私たちを愛しているというメッセージを伝えたところから始まっています。
   クリスマスを象徴するものの一つに光があります。光は愛を表しています。暗い心に神が光をともし、その光から愛されているぬくもりを知る・・・。人々は、光を手にした喜びから、クリスマスを祝うようになりました。

『そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』(新約聖書 ルカの福音書 2:1〜2)


   皇帝アウグスト(アウグストゥス)は紀元前30年から紀元14年の間ローマを治めた皇帝です。クレニオ(クレニウス)がシリヤの総督であったことも、その間に住民登録の勅令があったことも記録されています。聖書が事実であると信じることができる背景には、このように歴史上の人物や時代背景を確認できるということが挙げられます。
   さて、イエス・キリストの誕生を神が最初に教えたのは羊飼いでした。イスラエルという国は、ものすごく冬が寒い地域です。雪が降るほど寒い中、真っ暗な夜に寂しいところで野宿しながら羊の群れの番をしている姿は、私たちの心の姿そのものです。私たちはこのような暗く寂しい心を隠そうとして生きています。
   そこに光が差して、神がこの地上にこられたという知らせが告げられました。
   そこで彼らはイエス・キリストを見に行き、礼拝をしたのです。これがクリスマス礼拝の始まりです。

   キリストの活動期間は3年ほどの短い期間でしたが、私たちに「あなたを愛している」というメッセージを伝え、天に帰っていかれました。どうして人々は、イエス・キリストから愛されていると気づいたのでしょうか。なぜ暗闇に光が差したとわかったのでしょうか。それは、次のような理由によるものです。


1.共に生きる神だと知ったから
   それまで人々は、神は天の上にいて、自分とは遠い存在だと思っていました。しかし、神がこの地上に来られたという出来事を通して、神は共に生きてくださる方だと知ったのです。神は、私たちを上から見下ろす方ではなく、共に生きる方である、そのことが人々に大きな勇気と力を与えました。

   イスラエルの近くにレバノンという小さな国があります。多くの民族と宗教が乱立する国で、イスラム教に次いでクリスチャンが多く、多くのキリスト教団体があります。この国で1972年に内乱が起きました。多くの外国人が国外に脱出する中、ある宣教団体に属する牧師も、母国に戻ろうと、息子の手を引いて空港に向かっていました。ところが、そこで銃撃戦に巻き込まれてしまったのです。牧師はしっかりと子どもの手を握り、物陰に隠れて銃弾を避けました。ようやく銃撃戦が終わり、子どもに「怖かっただろう?大丈夫か?」と尋ねたところ、子どもは「僕はちっとも怖くなかったよ。お父さんがずっと手を握ってくれていたからね」と答えました。この時牧師は、「私の神は私と共にいる。なぜ恐れて逃げようとしたのか。」と、レバノンにとどまり、宣教活動を続けることを決意しました。
   目には見えなくても、神が共にいることがわかると、心の中に言い知れない平安が広がります。父の手を握ることで安心した子どものように、神が共にいることに気づいたこの牧師は、恐ろしい状況に勇敢に立ち向かいました。愛されていることは、勇気となります。
   イエス様の弟子たちも、ローマ帝国が徹底的にキリスト教を弾圧し、クリスチャンたちをどんなに悲惨な方法で殺しても、宣教をやめませんでした。なぜ彼らはここまでしてキリスト教を伝えていくことができたのでしょうか。それは、神が共におられる安心感を得ていたからです。銃撃戦の中で安心できた息子のように、神に愛されていることがわかると勇気を手にすることができるのです。これほどの迫害の中でも、多くの人がクリスチャンになった事実を見ることで、彼らがどれほど神に愛されていることを確信していたかがわかります。
   神は遠くにおられる方ではなく、共に生きてくださる方なのです。


2.裁くのではなく赦す神だと知ったから
   多くの人は神とは悪いことをしたら裁くものだと思っています。嘘をついたら舌を抜かれる、バチがあたる、悪いことをしたら災いを与えるなどの怖いイメージを持っています。
   しかし、イエス・キリストは、罪を赦し、ありのままを受け入れてくれている神様です。人間は、どんなプレゼントをもらうよりも、ありのままの自分を受け入れてもらえることで、本当に愛されていると感じることができるのです。
   私たちは普段このような愛をもって家族や友人に接しているでしょうか。子どもにプレゼントを与えることはしても、果たしてありのままを受け入れているでしょうか。夫婦でも、条件をつければつけるほど、自分が愛されていると感じられないものです。
   イエス・キリストは誰ひとり裁かず、罪に定めることをしませんでした。そこで人々は、神は赦す方だと知ったのです。

『律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
   けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 8:3〜11)


   罪を犯したこの女性に対して、人々は彼女を非難して、石打ちにして殺そうと言いました。しかし、イエス様は彼女を罪に定めない、と言われました。
   これが神の姿です。この世に来られたイエス・キリストの生き方によって、人々は、「神とは罪を赦す方だ、ありのままの自分を受け入れてくださる方だ」と知ったのです。
   裁く神から、愛されていると感じることはできません。赦されることによって、キリストは私たちを愛しているとわかったのです。


3.イエス・キリストの十字架の贖いを知ったから
   イエス・キリストの十字架、それが罪を赦す根拠です。
   口で赦すというのは簡単ですが、根拠がありません。その根拠を示すために、キリストは十字架にかかりました。
   多額の借金を、もし誰かが赦してあげると言ったとしても、借金が消えるわけではありません。赦すとは、誰かが代わりに払ってくれるということです。借金がなくなったのではなく、ほかの人に移ったに過ぎません。
   イエス・キリストは私たちの罪の借金をすべて背負うと言って、十字架にかかってくださいました。私たちが受けるべき罪の罰を肩代わりして、死刑になってくださったのです。それによって、神の深い愛を知ることができたのです。一緒にいてくれるだけでなく、口先だけでもなく、命までかけて愛してくださる方なのです。

『正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:7,8)

   アメリカでの実話です。兄は敬虔なクリスチャンの道を歩み、弟は不良からやくざの道を歩んでいる兄弟がいました。もちろん、兄は弟のために日々祈り続けていました。
   しかし、ある日、弟はついに銀行強盗を犯してしまいました。しかも、はずみとはいえ、その場にいた人を斬り殺してしまったのです。弟は家に帰ると血だらけの服を脱ぎ、奪った金を持ち、すぐさま逃亡しました。
   兄が自宅に戻ってみると、家の中の様子がいつもと違います。彼は、バスルームで血だらけの服を発見し、弟の残していったものを見て、すぐに何が起こったか悟りました。そこで彼は、血だらけの弟の服に着がえ、自分が犯人であると警察に出頭したのです。やがて彼に死刑の判決がくだりました。
   弟は何も知らずに逃亡生活を送っていましたが、5年後、放浪の途中にたまたま見た小さな新聞記事で、自分の身代わりとなった兄の死刑が執行されたことを知りました。どれほどの衝撃だったでしょうか。弟こそは回心し、神の福音を伝える生き方に生まれ変わりました。これほどまでに兄に愛されていると知り、彼は変わったのです。

   キリストは、この兄と同じことを私たちにしてくださいました。
   どうして私たちが赦されなければならないのでしょうか。神が私を愛しているとはいったいどういうことなのでしょうか。神の愛に気づく方法は、あなたの罪を神に告白することです。あなたの抱えている問題を、神に祈れば良いのです。祈りによって、あなたは赦されていること、愛されていることを知ることができます。祈りという体験を通して、あなたの人生は変わります。