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2012年12月16日
『救いのかぶと』

『救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:17)

   神は、悪魔の策略に立ち向かうために、神の武具を身につけなさい、と言われました。その武具の一つが救いのかぶとです。
   救いとは、死の先にある希望です。
   死はいつ訪れるかわからず、人は、死に対して希望を持つことができません。死の先にある希望を見いだすことができなければ、闇の中を歩んでいるのと同じです。
   イエス・キリストは、死は終わりではなく、永遠の命の希望があることを私たちに教え、この闇の中に光を照らしてくださいました。これが救いです。

『やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。・・・・・・ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』(旧約聖書 イザヤ書 9:2、6)

   死に対して希望が持てない人類は、いつも心の中に不安を抱えてきました。その不安をなんとかしたい、なんとか乗り越えたいという背景から、多くの宗教が生まれました。死後、天国(救い)があるという希望を持ちたいというニーズが宗教を生むわけです。そのような宗教で人間が考えついた天国に行く方法は、だいたい次の3つのパターンに大別されます。


人が作り出した宗教の3つのパターン

1.ノルマを達成することで救われる
   労働や行いが目標に達成したら救われる、救いに近づくという考え方。

2.お金を積むことによって救われる
   戒名を買うことによって極楽に行ける等、お金によって死後の安心を買う考え方。

3.修行を積むことによって救われる
   修行によって悟りを得る、あるいは厳しい修業を積むことで救われるという考え方。

   これら3つに共通するパターンは、救われるには、努力や行いが必要だということです。世の中では努力や行いが評価されるため、天国に入るためにも努力や行いが必要だと言われると納得しやすいのです。
   しかし、キリスト教が私たちに教えている救いは、これらのものとはまったく異なります。キリスト教が、最も多くの人に信じられるようになったのは、なぜでしょうか。イエス・キリストがもたらした光は、人が作り出した宗教とどこが違うのでしょうか。


1.行いは関係ない
   神は、求める者にはただで救いを与えると言われました。ほしければあげると言うのです。努力や行いは必要ありません。

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』(新約聖書 ルカの福音書 11:9)

   イエス・キリストが十字架につけられたとき、同時に二人の重罪人が十字架で処刑されました。死刑囚の一人は、イエス様をののしり文句を言いましたが、もう一人はそれを戒め、イエスは主であると信仰を告白しました。この囚人に対してイエス様は、今日あなたは天国に行くと言われたのです。

『われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』(新約聖書 ルカの福音書 23:41〜43)

   この囚人は、すでに手足の自由すらなく、何一つ良いことを行うチャンスはありませんでした。そんな彼に、今日あなたはパラダイス(天国)に行くとイエス様は言われました。
   私を助けてくださいと神に願うだけで、神はあなたに救いを与えてくださいます。
   もし、行いの延長に救いがあるならば希望はありません。どんなに頑張っても、上には上があり、完全な行いに到達することなどないのですから、これでは救われない、いつになったら救われるのかと、いつも自分を厳しい目で見つめ、思い煩い、自分を責めて生きなくてはなりません。救いを求めているはずがまったくの逆効果です。私たちを造られた神は、行いで人は救われないと繰り返し教えています。


2.告白を通して確かなものにしていく
   世の宗教は、救いは行いを通して確かなものになると言います。しかし、聖書は、救いは告白によって確かなものになると教えています。

『神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:3)

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:9,10)

   神は、救いを求める者に必ず信仰をくださいます。その信仰を告白することによって、確信が与えられます。心で信じていれば救われていますが、告白によってそれは確かなものとなるのです。イエスは救い主なる神であると告白できるなら、信仰が与えられていると確信できます。
   世の中では救いがゴールですが、聖書では、救いは神との関係を築いていくスタートです。その始まりが告白なのです。神を信じたら、信仰を告白して水のバプテスマを受け、クリスチャン生活がスタートします。告白することによって、神から与えられた信仰が生きて働くようになり、救いが自分の確信となります。


3.救いは取り消されない
   神は一度あげたプレゼントを返してくれとは言われないし、誰も奪い取ることができないように守ってくださいます。
   多くのクリスチャンがこのことに気づかず、自分の不完全な行いを見ては、こんなので救われていると言えるのだろうか、本当は救われていないのではないかと不安になってしまいます。
   聖書は、救いを確認するために、イエスは主であると信じて告白する以外の方法を教えていません。ここがあいまいになって、自分が救われていないのではないかと不安に思うと、例外なく、行いを頑張って救いを確認しようとするようになります。世の中の救いの価値観で、救われようとしてしまうのです。
   御言葉を実行しようと頑張るのは悪いことではありませんが、神に自分を認めてもらうため、自分の義を証しするために頑張るのは、無意味です。頑張れば頑張るだけ、自分を裁くように他人を裁くようになります。
   ルカの福音書に、取税人の祈りとパリサイ人の祈りについて、イエス様が語っておられる場面があります(18:10〜14)。こんなにも御言葉を実行できたと感謝を述べ立てたパリサイ人とは対照的に、取税人はただ「罪人の自分をあわれんでほしい」と祈りました。イエス様はこの取税人が、神の前に義と認められたと言われました。
   神に祈ることのできるあなたはもう救われています。ですから、救いのことを心配しないで、自分を苦しめている罪を差し出しなさい、と主は言われます。主によって自分の罪が赦され、全き神の愛を体験すると、神を愛するようになります。これが神が望んでいる行いにつながるのです。人の目には同じ行いに見えますが、自分の義を証ししようとしているのか、神を愛する思いでやっているのかでは、神の前では全く違うのです。

『ですから、たとえ全財産を貧しい人々のために投げ出しても、神を愛しての行いでないならば、何の意味もないと聖書は教えているのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:3)

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。・・・・・・
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:1,33〜39)


   いかなるものも、私たちから救いを取り去ることはできません。患難や試練に会うと、神の罰ではないか、自分は救われていないのではないかと考える方がいますが、決してそんなことはありません。神は、むしろあなたを圧倒的な勝利者とすると約束されています。
   闇の中に光を与えるためにこの世に来られたイエス・キリストは、自分の言葉通り、十字架にかかった後3日目に復活しました。イエス様の言葉は嘘ではないことが証明され、これを目の当たりにした人々は、キリストの言葉は本物だという希望を見出したのです。御言葉に立ち、救いのかぶとをしっかりとかぶって、確信を揺らがされることのないよう歩みましょう。
   救いの確信が揺らぐと、私たちはこの世の価値観に戻って、行いで救いを手に入れようとしてしまいます。行いによる救いに希望はありません。いくら見た目を良くしても、神から離れた心は罪に支配されてしまいます。救いは、求める者にはただで与えられ、行いに左右されることも、取り消されることもありません。心配することなく、罪を差し出して赦しの恵みを受け、神を愛する者となりましょう。信仰を告白し、揺らぐことのない確信をいただき、主によって強められて生きていきましょう。