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2012年12月9日
『信仰に対する誤解』

   日本には、神と呼ばれるものがたくさんあります。何をするにしてもまず神頼みをする習慣があり、多くの政治家や企業が神社を持ったりお祓いをしたりします。立派なことをすると神として祀られ、人々はそのご利益にあやかろうとします。
   一般的日本人は、自分の願望を叶えてくれるのが神だと考えています。そのため、信仰とは、自分の願望を叶えるために与えられるものだと思っている人が大勢います。
   しかし、これは大きな誤解です。主は、 『信じて祈り求めるものなら、何でも与えられる』(新約聖書 マタイの福音書 21:21、22)と言われました。しかし、注意するべき点があります。
   私たちは、目に見えるところの変化を求め、それがかなえられないと、神は祈りをきいてくれなかったと思ってしまいます。しかし、私たちが本当に求めているものは、心の平安です。私たちは、自分が意識できるものだけが自分の願いだと思っているので、それが得られれば平安が得られると思っていますが、神は、私たちに本当の平安を与えようとしてくださいます。見えるところの一時的な変化ではなく、あなたが本当に願っているものに気づくように導いておられるのです。

   パウロが手を置いた病人は皆癒されましたが、パウロ自身は、何度祈っても自分の病気は癒されませんでした。ヨブは神を信じ、信仰の人として生きていましたが、財産を失い、重い病を負い、想像を絶する試練を経験しました。
   このように、求めたことの中で叶えられないものも確かにあります。しかし、このような人々が共通して得たものがあります。それは、誠の喜び、誠の平安です。
   これこそ私たちが本当に欲しているものです。神はそれを得させてくださいます。しかし、このことがわからないと、願ったものが与えられないと言って、いつまでも表面的なものでつぶやくクリスチャンになってしまうのです。

『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)

   神が与える信仰とはどんなものでしょうか。これを誤解すると、神ご自身を誤解してしまいます。神が私たちに与えようとしておられる信仰について学びましょう。

1.神の思いが優先される

   これまでの人生で、自分の考えを優先して何を得たでしょうか。それは不安です。うまくいかないことで不安になり、うまくいったらそれが失われることが不安になります。
   聖書は教理を一度も変えたことがありません。自分の考えに神を合わせるのではなく、神の考えに自分を合わせなければなりません。自分の考えを優先するのではなく、神の考えを知ろうとしなければなりません。

『あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』(新約聖書 ヤコブ人への手紙 4:2〜3)


   昔、エジプトで奴隷として虐げられていたイスラエル人は、神に助けを求め、神は彼らをエジプトから脱出させました。エジプト軍が追いかける中、神の奇跡によって二つに割れた海を渡って脱出するシーンは特に有名で、水のバプテスマのひな形と言われています。同じように、私たちも神に助けを求め、死から脱出し、キリストの救いに入りました。
   イスラエル人は、エジプトを脱出した後、安息の地を目指しますが、砂漠の旅はひもじく、つらく、不安になった彼らは、エジプトにいたほうが良かったと言ってつぶやきました。私たちも同様に、神を信じて救われたら、問題も解決し、幸せになるだろうと期待して洗礼を受けたのに、試練に会ってつらくなると、前の方が良かったとつぶやくのです。
   そして、イスラエルの民は、つぶやいた結果、安息(平安)に入ることができませんでした。
   神が与えたいのは、私たちが考えているものよりも、はるかに素晴らしいものです。求めたことがかなわないからといって、つぶやいてはいけないと、聖書は何度も教えています。神には深い計画があります。イスラエルに対する神の計画は、彼らを砕き、神の本当の愛に気づいて、ゆるぎない平安を得るように導くことでした。今ならそれがわかります。
   私たちが間違った価値観で間違った平安を手にしようとしても、「私は同意しない」と神は言われます。自分をダメだと思うつらさから、間違った平安を求めるとき、神はそれを正して、誠の平安を与えようとされるのです。
    だから、イスラエル人がしたように、つぶやいて、ほかの人をうらやんだりしてはいけません。私たちは、神に祈ることができる祝福を受けているのです。

2.神にゆだねる

   神に祈るとは、神にゆだねるということです。ゆだねなければ、お願いしたことになりません。ゆだねるとは、つぶやかないこと、神のなさることに従うことです。

『ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 5:6、7)

   神が出した答えがどのようなものであっても、感謝して受け取られなければなりません。自分にとってベストな答えをしてくださったと信じなければなりません。
   神の答えが自分の思いと違うと言ってつぶやくのは、ゆだねていないからです。何が何でも自分の願いを聞いてほしい、自分の言うことを聞け、というのでは、あなたが神の上に立ち、神を奴隷としていることに他なりません。
   祈って求めたことに関しては、どんな答えであろうとも感謝して受け止めるのが信仰です。
   自分で描いた青写真のために祈り、平安を得て、御心だと信じて進んでも、うまくいかないこともあります。しかし、そのときはつらくても、将来必ず意味がわかる時が来ます。神は、その時を用意してくだっています。

3.あきらめない

   祈っても、答えが来るまで時間がかかる時があります。困難な状況を見ても、あきらめないで祈り続けましょう。

『いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。』(新約聖書 ルカの福音書 18:1)

『祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』(新約聖書 マルコの福音書 11:24)


   イエス様は、私たちに、何度もあきらめてはならないと教えています。
   旧約聖書に登場するダニエルは、断食の祈りの3週間目に、ようやく神の答えを得ることができました。この時、神からの答えを持ってきた御使いはこう言いました。

『恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシヤの国の君が21日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、 終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。』(旧約聖書 ダニエル書 10:12〜14)

   御使いは、ダニエルの祈りは祈った初めの日に聞かれているが、敵(サタン)に阻まれてくることができなかったと言います。
   そういうことは私たちには全く見えず分かりません。しかし、神は私たちの祈りに答えを始めています。ですから、見える状況がうまくいかなくても、諦めてつぶやいてはいけません。
   祈り始めたのにつぶやく人は、新車を購入する契約をしたのに、「1週間待っても来ないからいいです!」と怒ってキャンセルしてしまうのと同じです。せっかく車を作っている途中だったのに、キャンセルしたら生産ラインはストップして、車を手に入れることができなくなります。

『苦難の日に、裏切り者に拠り頼むのは、悪い歯やよろける足を頼みにするようなもの。』(旧約聖書 箴言 25:19)

   苦難の日こそ見えるものではなく神に頼れ、と主は言われます。「あきらめるな。神が助けるから。」この言葉を神からの言葉として心にとめましょう。
    さて、このようにして、信仰を使って願い求めた結果、私たちは次の二つのものを手にすることができます。

1.自分の中のつぶやき・不信仰に気づく

   つぶやき・不信仰こそが、私たちを苦しめている張本人です。信仰を持って祈ると、自分の不信仰があぶり出されます。それを、神に差し出せば赦され、私たちは誠の平安を得ることができます。

2.神を信頼することの喜びを手にする

   自分の中の不信仰に気づいて赦されることによって、どんな状況にあっても神を信頼することができるという喜びを得ることができます。私たちはキリストのいのちそのものですから、キリストとつながることで誠の平安を手に入れることができるのです。ここに私たちの喜びがあることに気づきます。
   神は、心に空いた穴を埋めることができるただ一人のお方です。どんな答えであろうとも、つぶやかず、あきらめずに祈り続けるならば、祈り求めたものはすべて与えられる…この言葉の本当の意味を知るのです。

〜ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩〜

大事を成そうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で
最も豊かに祝福されたのだ