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2012年12月2日
『信仰で平安を得る』

   人間は、二つの要素から造られました。神は土地のちりで人の体を造り、ご自身の霊を吹き込むことで、人は生き物となったのです。
   ですから、人は肉体の欲求を満たせば満足する生き物ではありません。霊、すなわち心が満たされることが必要です。
   人は本来、神との関わりによって、心の平安を得るように造られましたが、アダムとエバが罪を犯したことにより、神との関わりが断たれてしまいました。そのため、神から得ていた平安を人との関わりで得るようになってしまったのです。
   人は愛を求めて生きているとよく言われますが、愛とは関わりのことです。言い方を変えると、少しでも人から良く思われたいと願っているのです。そのために、自分を隠し、相手にあわせ、自分を偽らなければならず、それが人のつらさとなります。
   子どもは親にほめてもらえないとつらくなり、自分の思い通りにならないとつらくなります。愛情や評価を得るためには、相手が自分を良いものと思ってくれなくてはいけません。人との関わりを維持するために、うわべをよくしようとする価値観を肉の価値観と言います。この価値観によって、私たちは人をほめたり裁いたりして生きています。


『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:1〜3)


   死とは、神との分離を意味します。私たちは、神との関係が断たれた中で生きているために、人との関わりの中で心の食事を取らなければならなくなり、この世の価値観によって生きなければならなくなりました。この神と異なる価値観によって、私たちの心は悪魔に惑わされ続けています。悪魔はエバを惑わして、罪を犯させました。同様に、神の価値観と異なる価値観によって、私たちが神に近づくことがないように惑わしているのです。
   結局、人との関わりの目的は、人から平安を得ることです。人から良く思われるという見返りを期待し、自分の欲のために人とつきあっているのです。どんなに良い行いをしていても、相手のために尽くしていても、自分の平安のための行いならば、それは愛ではないと聖書は教えています。ほめられ、喜ばれることで、平安という見返りを求めているにすぎません。
   私たちは神との関わりがない間は、このように自分のために生きるしか平安を得る方法がありませんでした。このような生き方を「罪の中に死んでいた」と聖書は教えているのです。
   こんな私たちを助けるために、神ご自身がこの地上にきてくださいました。イエス・キリストが、私たちが受けるべき死という罰を代わりに受けてくださることで、人が受ける罰を廃棄し、断たれていた神との関係を回復する道を用意してくださったのです。そして、この回復の道に進むために、神は、人に信仰を用意してくださいました。
   私たちは、神に助けていただくしかない存在です。そして、神ご自身が代価を支払ってくださったので、私たちはそれを無償で受け取ることができるのです。
   この世の価値観では、何かを手に入れるためには、代償を払わなければなりません。ですから、この世の宗教は平安を得るために行いが必要であると教えます。頑張ったら救われると教えられた方が理解しやすいのです。
   しかし、どんな立派な行いも、結局は平安という自分の欲のためです。私たちは行いで救われるのは不可能です。そもそも罪の中に死んでいた私たちには、死んだ行いしかすることができません。神との関係が断たれている以上、行いによって神の前に義と認められることは不可能です。


『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、−あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです−』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:4,5)


   救いとは、私たちの問題が解決することではなく、神との関係が回復することです。それには神の恵みしか道はありません。
   神との関係を回復するには、神がくださる信仰が必要です。私たち人間には日常的に信じる能力を使っています。約束を信じたり、時刻表を信じたり、そして神を信じることもその延長で考えます。しかしイエス・キリストを信じるには、神が与える信仰が必要なのです。
   かつて律法学者達は、行いも立派で、誰から見ても信仰があるように見えました。しかし、彼らはイエス・キリストを殺しました。救い主だと信じることができませんでした。人の力で信じることができるのは、人が作り出した神です。キリストを信じるには、神から与えられた信仰しかありません。この信仰によって断たれていた神との関係が回復し、永遠の命を持つことができます。これが救いです。
   信仰は神からの賜物です。賜物ですから、人の行いに依存することはありません。良い行いで救われることもないし、悪い行いで取り消されることもありません。救いは行いによらず、ただイエス様によってもたらされました。これがクリスチャンです。


   さて、神との関係が回復した私たちに主は問いかけられます。
   今までのやり方で、人との関わりによって平安を手に入れようとする生き方を続けるのか、信仰を使い、神との関わりによって平安を得る生き方を選ぶのか…。
   新約聖書の大半は、神との関わりの中で平安を手に入れる生き方を教えています。私たちは神を知り、神との関係を築けるようになった後も、多くのクリスチャンが未だに人との関わりの中で平安を得ようとしています。そのようなクリスチャンのことを聖書では、肉に属するクリスチャン、幼子と呼んでいます。


『さて、兄弟たちよ。私は、あなた方に向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:1,2)


   「御霊に属する」とは、神との関わりによって平安を手にしようとする生き方です。「乳」とは、慰め、励ましなどの人の言葉です。神との関わりがまだない初心者の方に、いきなり御言葉を食べなさい、と言っても無理です。ですから、初めは、人の言葉を通して、少しずつ神の愛を理解するように神は導かれます。しかし、信仰を手にして救われた人には、神の御言葉を直接食べるように言われます。そのほうが栄養もあり、からだも強くなるからです。ところが多くのクリスチャンが、救われた後も変わらず、人との関わりで平安を手にしようとしています。

『あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:3)


   肉に属する証拠は、ねたみや争いです。評価されないと腹が立つ、怒る、裁く…。このような人間関係の問題の原因はただ一つです。あなたが相手との関わりの中で平安を得ようとしているからです。
   神は、せっかく信仰を持っているクリスチャンたちに、そのようなつらい生き方をさせたくはありません。ですから、さらに神との関係を深め、まことの平安を手にしてほしいと主は願っておられます。神との関係によって平安を得られるようになると、人との関わりで平安を得る必要がなくなりますから、自分らしく、本来の生き方ができるようになります。これが福音です。罪からの解放です。このことがわからないと、いつまでも罪から解放されず、まことの平安ではなく人からの平安を求め続けます。
   罪とは人の言葉を頼って生きることです。つまり不信仰です。神は、神との関わりの中で平安を手にしてもらいたい、罪から解放される生き方をしてもらいたいと願っておられます。
   神から信仰が与えられ、永遠の命が与えられたとき、私たちの内側に神ご自身が住まわれるようになりました。いつでも神とコミュニケーションできるように、聖霊様がともにいてくださるのです。神との関係、コミュニケーションが回復すると、次の3つのことが理解できるようになります。


1.神がいつもともにおられることに気づく

『あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを知らないのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 6:15)

   からだはいつも自分とともにいます。同じように、神のからだである私たちと神はいつもともにいます。
   放蕩息子の兄は、放蕩の限りを尽くした弟が帰ってきて祝宴が開かれたのを見て、大変腹を立てました。怒りは、見えるもので平安を手に入れている証拠です。怒る息子に対して父はこう語ります。「子よ。私はいつもお前と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。」
   神は、私とお前はすべてのものを共有している、一つの存在だと語っておられます。祈りがかなえば愛されているとか、見た目の祝福が人の価値とか、そんな見えるもので平安を手に入れるのはやめましょう。そうではなく、神が私といつも一緒にいることが、私にとっての平安なのだと気づきましょう。


2.神は必ず答えてくださるという確信を手にする

『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(新約聖書 へブル人への手紙 11:6)

   神は必ず答えてくださるのだから大丈夫だという信仰を持てるようになります。
   ただし、神は、神が最善と考えた道と方法で答えられます。自分が祈り、自分の願った方法でかなえられるということではありません。
   人は皆自分の考える道がいいものだと思っていますが、神はあなたにベストの道を用意されます。これがわかるとつぶやくことがなくなります。願い通りにならなかったときも、祈っていたからこのように神が導いてくださったのだとわかるようになります。あとで感謝するときが必ず来ます。今はわからなくても、必ずわかるときが来ます。神への信頼を手に入れましょう。


3.神は決して見捨てないという確信を手にする

『私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:8,9)

   神との関係が築かれていくと、神は決して自分を見捨てないで助けてくれるという確信を手にすることができます。
   ジョージ・フォアマンという元ボクシング世界チャンピオンは、引退後、伝道師となり、特に非行少年の救いに重荷を持って働いていました。ところが、40歳を迎える頃、会計士に財を横領され、教会とユースセンターを手放さなくてはならない事態になりました。フォアマンは少年たちに希望を失わせないため、再びチャンピオンを目指し、45歳で史上最高齢チャンピオンとなりました。彼は教会を取り戻し、宣教生活に戻りました。
   また有名なリンカーン大統領も32歳から58歳まで議員選挙に落選し続けましたが、ついに60歳の時アメリカ大統領となりました。
   彼らを支えていたのは、神は私を見捨てないという信仰です。
   信仰は素晴らしい平安をもたらします。これが福音です。せっかく与えられた信仰を使わずに神との関係を築かず、人との関わりの中で平安を得ようとする生き方はもうやめましょう。私たちはもともと神との関係で平安を手にするように造られているのですから。