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2012年11月11日
『恐れにどう立ち向かえば良いか』

1.肉体の死に体する恐れ

   人は必ず死を迎えます。誰もが死を避けたい思いを持っていますが、医学では解決できません。これに対して、イエス・キリストは明確な解決を与えました。
   聖書は、死は終わりではなく、永遠の命を持ち、神の国に行く希望があることを教えています。イエス・キリストは、人々の前で十字架で処刑され、3日後によみがえることで、死は終わりではないことを教えたのです。
   死者の復活という驚くべき記述のために、聖書は神話だと考える人々もいます。本当にそうなのでしょうか?
   神話というものは、その人のことを知っている人が生きている間は作ることができません。一般に、神話を作るには、3世代以上の年月が必要だと言われます。ところが、キリストの復活については、イエス・キリストが死んだ直後から語られているのです。


『私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:3〜5)    


   これが、イエス・キリストが死んだ直後に語られていた信仰告白で、今日のキリスト教の土台です。今日残されている最も古い資料にこの信仰告白の原型が残っています。もし、この告白が真実と異なるものであれば、その当時すでに世論によって淘汰されたことでしょう。イエス・キリストと同時代に生きた人々が、聖書は神話ではないと証明しているのです。
   また、ローマ帝国の存在も、キリスト教が真理であると証明しています。ローマ帝国は、キリスト教を徹底的に弾圧し、迫害し、聖書を焼き捨て、キリスト教を滅ぼそうとしました。ところが、たった300年のうちにキリスト教を奨励する国となったのです。ローマ帝国という強大な国家が、なぜ180度変わったのでしょうか?それは、復活の事実を否定したら、説明がつかない現実に突き当たったからです。
   一つ一つの事実を総合して見えてくる真実は、復活があったということです。そうしなければ、今日の歴史の説明がつきません。
   19世紀のアメリカの政治家ルー・ウォーレスは、反キリスト者で、キリスト教の間違いを指摘する本を書こうと、あらゆる角度からキリスト教を徹底的に調べ上げました。その結果、彼は聖書は真実であると認めざるを得ないという結論に達し、1880年「ベン・ハー」という小説を書き上げました。何度も映画化されたキリストの物語です。
   彼に限らず、いろいろな人がキリスト教への攻撃を試みましたが、誰ひとり成功していません。むしろ、調べれば調べるほど、キリスト教は真実であるという結論に至るのです。
   復活は事実です。イエス・キリストだけが、死に対して希望を与えることができます。死の恐怖は、2000年前にイエス・キリストが解決しています。
 聖書は決して神話ではありません。聖書が真実かどうかが問われているのではなく、あなたが信じるかどうかが問われているのです。


2.価値を失うことの恐れ

   人は、肉体の死以上に、自分の価値を失うことを恐れています。
   自分の価値を仕事や成績に投影し、それがうまくいかなくなることに対して、非常な恐れを持っています。例えば、日本人は、恥をかいて生きるよりは死を選ぶことを美学とする風潮がありますが、それは、恥をかくことが価値を失うことになるからです。
   しかし、あなたの価値はあなた自身にあるのであって、決して見えるものに依存するものではありません。イエス・キリストは次のように言いました。


『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』(新約聖書 マタイの福音書 16:26)


   あなたの価値が見えるものにあると思うから、うまくいかないことがあると腹が立ち、期待通りにならないと腹が立ち、それが奪われたらどうしようといつも恐れているのです。日本人は、恥に対して敏感な国民であり、人の目を気にする民族です。それは、裏返すと自分には価値がないと思い込み、恐れが強いということです。
   聖書は私たちの価値はキリストの命の一部だと教えています。神が私たちを貴いものと思っているのに、人からどう思われるかに、あなたの価値を託してはいけないと聖書は教えています。自分の本当の価値に気づくとき、私たちは見た目の価値が失われることに対する恐れから解放されます。


   聖書に登場するザアカイという人物は、金に自分の価値を託して安心を得ていました。不正を犯して金儲けをしていたのです。しかし、ある日イエス様がやってきて、「今日、あなたの家に泊まるから」とザアカイに言われました。その後、イエス様はただザアカイと共に食事をし、一緒にいただけですが、ザアカイの心はすっかり変わってしまいました。お金のない人に施しをし、不正に得たお金は利子をつけて人々に返すと言うのです。
   イエス様は、ザアカイに悔い改めろとは一言も言いませんでした。しかし、イエス様が共にいてくださることで、ザアカイは自分が愛されていることを知りました。ザアカイはそれまで、自分は価値がない、ダメなものだから頑張らなければと必死だったのですが、初めて自分が愛される存在だと気づいたのです。
   人は、自分をダメなものだと思っているので、キリストはダメなものを良くするためにこの世に来たと誤解します。しかし聖書は、私たちがどうすればよくなれるか、どうすれば価値あるものになれるかについて教えているのではありません。キリストは、私たちは神の一部として造られた良いものだと、教えるためにこの世に来られたのです。
   私たちは、自分の本当の価値に気づいていません。それは嘘の情報に惑わされているからです。神の言うことばではなく、嘘の情報を信じることが罪なのです。その結果、自分はダメだと思い込み、頑張らなければダメだと思い、頑張った価値が失われることを恐れています。イエス・キリストは、その罪を取り除くためにこの世に来られました。
   自分の本当の価値を知ることで、あなたは恐れから解放されます。


3.将来に対する恐れ

   私たちは、将来に対して漠然とした不安(恐れ)を持ちます。なぜ、将来に対して恐れを抱くのか考えてみましょう。

原因1 過去に対して感謝できないから

   過去を見て文句を言い、愚痴をこぼすほど、将来に対して不安になります。過去に感謝するほど将来に希望が見えるようになるのです。

   聖書はくり返し過去に対して感謝すること、後ろを振り向かないことを教えています。どんな過去であっても、あなたが前を向くなら、過去のすべてをプラスにすると神は約束しておられます。
   初代キリスト教は、ローマ帝国によって全部潰されたかのように見えましたが、すべてが益に変えられ、キリスト教の礎となりました。つぶやくのではなく感謝するとき、すべてが益となることがわかります。


『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:28)


   神はすべてを益として人々を励ましてくださいます。つぶやかず、感謝して生きるならば、新しいものが見えてきます。
   「祈ったのに、なぜうまくいかなかったのか。」とがっかりするとき、この御言葉を信じようとし、今はわからなくても、必ず益に変えられると、つぶやかず、感謝してあゆみましょう。


原因2 将来に対する明確な目標がないから

   出世しようとか、自分を認めてもらおうとか、自分の価値を得るための目標ではありません。「何のために生きるのか」という目標です。明確な目標を持つならば、将来に対する不安に押しつぶされず、打ち勝つことができます。
   明治維新の立役者、西行隆盛の口癖は、「敬天愛人」です。神を愛して人を愛するという意味です。彼は、日本の将来のみを考え、自分の名誉や出世しか考えられない人とは話をしない、相手をしないと言いました。
   西郷隆盛は、公にはクリスチャンだと発表しませんでしたが、勝海舟、坂本龍馬などと共に、宣教師との出会いを通して、神を信じる者となりました。勝海舟の自宅は教会になり、今も残っています。
   神を愛して人を愛することを人生の目標に掲げるなら、将来の不安から解放されます。これが、神が私たちに与えた明確な人生の目標です。


原因3 信頼できる方がいないから

   困ったときに頼ることができる方、必ず助けてくださる方を知っていれば、不安を抱く必要はありません。どんな時でも弁護してくださる信頼できる方、それはイエス・キリストです。
   私たちがどんな者であっても、祈れば助けてくれる・・・その信頼を持つことができれば、将来の不安は取り除かれます。
   神に愛されていることを知る唯一の方法は、罪を告白することです。正直に罪を告白して、神が叱るか、赦してくれるのか、祈れば必ず体験できます。神の前に罪を悔い改めたら、必ず神は平安を与えてくださいます。
   その時、自分は愛されること、神が信頼できる方であることを知ることができるのです。それが将来に対する希望をもたらします。信頼できる方はあなたをありのままで受け入れ守ります。○○したら助ける、などと条件をつけるのは愛ではありません。


   日本人の多くは、自分は無神論者だと言いますが、無神論とは、神を信じないことを信じる信仰です。これは、神を信じる信仰よりはるかに難しいことです。神を信じない理由にはどのようなものがあるでしょうか。もし、「目に見えないから」というのであれば、今日の科学を否定してしまいます。なぜなら、この世界の8割のものは目でみることはできないからです。「神がいるならなぜこんなことが起こるのか。」という訴えも、科学を否定し、人の自由意思を否定し、人格を否定してしまいます。イエス・キリストを信じる信仰を否定する理由は何もないのです。
   恐れに打ち勝つ道は、神を信じることです。信頼して恐れに立ち向かっていきましょう。