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2012年11月4日
『悔い改めるとは』

   イエス・キリストは 『悔い改めて、福音を信じなさい』(新約聖書 マルコの福音書 1:15)と言われました。「悔い改め」はギリシャ語でメタノイヤと言い、「向きを変える」という意味があります。また、「罪」はギリシャ語でハマルティアと言い、「的を外す」という意味です。ですから、罪を悔い改めるとは、直訳すると「的を外していた状態から向きを変える」ということになります。つまり、聖書が教える悔い改めとは、「神に向いていなかった心を神に向け直すこと」です。
   ところが、多くの人は悔い改めというと、後悔したり反省したりして正しい行いに変えることだと考えています。しかし、メタノイヤということばは、神が心を変える時にも使われており、後悔や反省という意味はありません。後悔や反省は悔い改めのきっかけにはなりますが、心を神に向けなければ悔い改めとは言いません。
   たとえば、イスカリオテのユダは、イエス様を売ったことを後悔しましたが、心を神に向けることをせず、自殺してしまいました。他の弟子達もイエス様を裏切りましたが、彼らはそれをきっかけに、イエス様の元に立ち帰り、御言葉に従って一つところに集まり祈っていました。このように、本当の悔い改めとは、「悪かった。ごめんなさい」と認めることにとどまらず、心を神に向け、イエス様の元に戻ることなのです。


   聖書が教える悔い改めを正しく理解するためには、人間とはどのような存在なのかを知ることが鍵になります。


『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:27)
『あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 6:15)


   人間は一人で生きるのではなく、キリストにつながって生きるように造られました。神と結びついて初めて人として存在できる存在として造られたのです。これを聖書では、「弱さ」と言っています。人間は、何かと一緒でないと生きていけない弱さを持った存在なのです。


   たとえば、化学の世界では、水は非常に安定した物質です。水の分子式はH2Oで、Hは水素を表し、Oは酸素を表しています。この水素(H)は、単独では存在できず、常に何かつながるものを求めている物質です。
   同じように、人も、神とつながっている時は安定していたのですが、アダムとエバが罪を犯したことによって、死が入り込み、神と分離されました。神から切り離され、非常に不安定な存在になった人間は、なにかしがみつくものを探し、心を安定させる生き方を身につけました。見えるものとは、人の評判や物質で、不安定な自分を守る鎧の役割を果たします。しかし、どんなものを鎧にしても、それは本質的な安定ではありません。むしろ、それにしがみついている関係が私たちを苦しめるようになります。
   H2Oを分離させると、単独では存在できないH(水素)は、Cl(塩素)とつながることにしました。H(水素)とCl(塩素)が結びつくと、HCl(塩酸)になります。塩酸は人を殺すこともできる危険な物質です。
   同じように、神と離れた私たちも、様々な価値観と結びつき、人をさばいたり責めたりして、傷つけ合っています。心の安定のためにお金と結びついたら、逆に不安や争いが生まれ、かえって自分を苦しめる結果になります。私たちが目に見えるどのようなものと結びついても、かえって自分を苦しめることになってしまうのです。それは、H(水素)に問題があるのではありません。結びついたものが問題なのです。


   人の性質の根本にあるものは、何かと結びついていないと生きていけないという弱さです。しかし多くの人が弱さは恥だと思っています。なぜかというと、弱さが悪いものと結びついているからです。悪いものと結びつくつながりを捨て、弱さが神と結びついたとき、あなたは自分の弱さを感謝できるようになります。
   神は私たちを再び神に結びつけようとしてくださいました。それが十字架です。神と私たちを分離していた死を十字架で滅ぼし、永遠のいのちを与えてくださったのです。


   さて、化学のたとえに戻って考えますが、実は一度結びついたHCl(塩酸)を分離してもとに戻すのは大変な作業です。
   同様に、私たちも、一度しがみついたものを手放すことは大変です。なかなか、古い考え方から抜け出すことができないのです。「これは良くない」と自分でも思うのですが、つらくなるとどうしても見えるものを頼ろうとする古いやり方に戻ってしまうのです。「神に信頼すれば大丈夫」といくら思っても、見えるものに頼ろうとしてしまうのです。
   一度別な物質を結びついてしまうと、なかなか離れることができない・・・・・・。そこで神は、それを何とかするための恵みを用意されました。それが悔い改めです。


   パウロは、見えるものを頼ろうとして古いやり方に戻ってしまう自分のみじめさに打ちひしがれ、次のように言いました。
『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:24)
   正しいとわかっているのに、自分ではどうすることもできない。もはやそれは自分の中に罪が住みついているとしか言いようがない。神だけを信頼したいと願うのに、自分が築いてきた鎧が邪魔をして、神がさしのべておられる手をつかむことができない。パウロは、このジレンマの中で、自分ではどうすることもできないことを認め、神に助けてくださいと祈れば、神が助けてくれるという法則を見出しました。
   一度結びついた塩酸を分離して、酸素と結びつけ、水に戻すのは簡単ではありませんが、化学者にはできます。同様に、一度結びついた鎧を分離して、神と結びつけるのは、神だけができる業なのです。
   ところが困ったことに、多くのクリスチャンが鎧に気づかず、見えるものにしがみついている自分、それが自分自身だと思い込んでいます。悪いことを反省すると、鎧を神に差し出す代わりに、鎧の上から立派な行いを積み上げて、新しい鎧(良い行い・賞賛される自分)で神に近づき、神との関係を築こうと考えます。悔い改めとは、新しい鎧で神に近づくことだと思っているクリスチャンが多いのです。これは、悔い改めに対する、クリスチャンの最大級の誤解、サタンの惑わしです。
   この過ちに陥った人々がイスラム教、ユダヤ教、パリサイ人です。彼らは、神との関係の築き方を間違えました。悔い改めを誤解し、良い行い(自分の鎧=自分が価値ある者と見えるもの)を積み上げることで、神との関係を築くと考えました。


『ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。』(新約聖書 ルカの福音書 18:10〜14)



   悔い改めとは、行いを反省することではなく、心を神に向け、神から平安、安定を得ることです。それは、神に憐れみを求めることであり、助けを求めることです。神が私たちに望んでいることは、神を信頼して平安をつかんでほしいということです。見えるものにしがみついている自分に気づき、その手を離して、神につなぎかえれば安定するのです。鎧を捨て、隠していた自分の弱さと神が結びついてくださるとき、人は元の姿に戻り、性質が変わります。神と結びついて初めて本来の姿に戻れるのです。悔い改めとは、弱さと神を結びつけて、私たちを本来の姿に戻すものです。


   私たちが悔い改めを正しく理解することのできない最大の原因は、弱さに対する間違った理解です。人間は、弱さは恥だと思っているので、弱さを隠そうとし、見えるもので自分を強くしようとします。それは間違った価値観による考え方です。聖書は、弱さは恥ではなく素晴らしいものだと教えています。弱さは、神と結びつくための素晴らしいものです。私たちは弱さを持っているゆえに神と生きられるのです。


    パウロは社会的地位もあり、財産もあり、知識と知恵もあり、権力も持っていました。しかしパウロは、迫害や困難、死ぬような目に何度も会い、それらのものが役に立たないことに気づきました。彼にとっての鎧が壊されたのです。しかも、パウロには肉体にとげ(持病)がありました。そこでパウロは、せめて健康な体がほしいと神に祈ったのですが、神はそれを否とされました。パウロは自分の病を弱さだと思い、弱さは恥だと思っていたので、せめて健康な体で弱さを隠したいと願っていました。しかし、神はその願いが退け、弱さは恵みだと教えられました。その弱さをカバーするのは、神ご自身だからです。神ご自身が弱さに結びつくと主は教えておられます。


    『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 12:17)


   あなたが弱さに気づけば気づくだけ、神に結びつくことができるのです。
   パウロは、今まで何もない自分は恥だと思って、多くの肩書きを持っていましたが、神とつながることにより、鎧にしがみついていた自分がバカみたいに思えるようになりました。鎧がなくなり、弱さが分かって、その幸いに気づいたのです。そしてパウロは目が覚めたかのように、すべての患難に甘んじると言いました。それは弱さに気づくことができるからです。私たちが自分の弱さに気づけば気づくほど、見えるものにしがみつこうという罪にも気づくことができるのです。
   弱さは神と結びつくためにあります。神と結びつけば、強くなれます。パウロは、「私は大いに自分の弱さを誇る。私が弱いときにこそ私は強いから。」と言いました。そこに神の恵みが働くからです。
   この世では、鎧がみすぼらしいと馬鹿にされます。自分自身も価値がないと落ち込んでしまいます。しかし、イエス様はみすぼらしい鎧ほど、自分の弱さに気づけるから素晴らしいと言われました。


『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』(新約聖書 マタイの福音書 5:3)


   しがみつくものがなければ、自分の弱さに気づけます。自分を守るものがない、自分の弱さ、みじめさを知る人は、神に結びつくことがたやすくなります。ですから、イエス様は、福音を聞く人々に対して、宣教を開始の最初のメッセージでこのように言われたのです。自分の弱さと向き合って、神とつながることができれば幸いです。
   弱さとは、私たちの本当の姿であり、神と結びつくものです。神と結びついて初めて本来の自分の姿に回復できるのです。「自分ではどうすることもできない」と、私たちが神に助けを求めて祈るとき、神は、私たちの弱さと鎧を分離して、神ご自身が弱さと結びついてくださいます。その時あなたは、本当の姿に戻り、平安を取り戻すことができるのです。