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2012年10月28日
『恐れを締め出す』

   恐れを貯めさせない、恐れを使わせない、という話をしてきました。今回は、恐れを締め出す、ということについて見ていきたいと思います。


『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)


   「恐れには刑罰が伴っている」とありますが、これは、恐れが人を神から引き離し、人を罪の病気で苦しめている様子が述べられています。続いて、「恐れる者の愛は、全きものとなっていない」とありますが、恐れが人の愛を間違ったものにし、罪を犯させてしまう様子が述べられています。恐れは、罪をもたらしている根源であり、私たちを惑わす悪魔の実体である。この恐れを、私たちの心から締め出すことができるのは、全き愛しかありません。全き愛とは、イエス・キリストの十字架の贖いです。では、なぜイエス・キリストの十字架の贖いでしか、恐れを締め出せないのでしょうか。


【全き愛でしか恐れを締め出せない理由】

   恐れというのは、死が原因で始まりました。死とは、神との関係が断たれることを意味し、「肉体の死」と「霊的な死」の二つがあります。つまり、人に死が入り込んだために、人はイエス・キリストのいのちから離れてしまい、「永遠のいのち」を失いました。「死」は、人の心に恐怖をもたらしました。死がもたらす恐怖は、言うまでもありませんが、それ以上に影響を与えたのが、神との霊的なつながりを失ったことです。それは、今まで愛してくれていた方を失い、自分は愛される価値がなくなったという「不安」をもたらします。その不安が、「恐れ」となり、苦しみとなります。そのことは、イエス様が、同じ死の罰を受けられる直前に示された様子が物語っています。「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(ルカ22:44)。霊的な死の苦しみは、筆舌に尽くしがたいものがあります。


   人はその「不安」から来る「恐れ」を消そうと、人との関わりの中で、自分の愛される価値を見いだそうとするようになりました。人から愛されることで、その恐れを消そうとするのです。それが、人に良く思われる生き方を目指させ、「この世の心づかい」や「富の惑わし」へと駆り立てました。少しでも人の歓心を買えるように、見えるものを手に入れ、自分は愛されていると思えるようにする生き方です。しかし、その生き方から生じるものは、人を妬んだり、争ったりする罪です。人は、こうした罪の病気に苦しんでいますが、自力では、この生き方から抜け出せません。なぜなら、人からよく思われることで、安心を手にしようとする生き方は、人の目を気にする生き方なので、新たな「恐れ」を生じさせるからです。新たな恐れは、人をさらに見えるものへと駆り立ててしまうのです。


   つまり、人を罪の病気で苦しめているのは、死がもたらした、愛される価値がないという不安から来る恐れです。この恐れが、人の歓心を買う生き方をさせ、人を苦しめています。ですから、罪の病気から救い出されるには、愛される価値があることを知るほかありません。しかも、条件付きで愛されるのではなく、無条件で愛されることを知るほかありません。それができる愛は、キリストの十字架の贖いで示された、全き愛だけです。キリストは、私たちが何か良いことをしたから十字架に掛られたのではありません。私たちを愛するがゆえに、一方的に、十字架に掛って、私たちを赦してくださったのです。この事実は、私たちに何の条件もつきつけません。無条件で愛されていることを知るためには、私たちが、自分の行いに起因せず、愛される体験をする必要があります。キリストの十字架の贖いは、そのためのものです。これが、正義の胸当ての全き愛だけしか、人の中にある恐れを締め出せない理由です。


【どうすれば全き愛を手に入れられる?】

   では、その全き愛を、人はどうすれば手に入れられるのでしょうか。次の三つの段階を経る必要があります。

   全き愛を手にするためには、第一段階として、神との関係を回復する必要があります。人はみな、神との関係が断たれた状態で生まれてきます。ですから、関係が回復しなければ、そもそも、神の全き愛の食事を食べることは不可能です。そのため、神は、まずは人との関係を回復する作業をされます。それが、死から人を救い出す、「救いの恵み」です。


   神との関係が回復したなら、いよいよ食事が食べられる環境が整います。ところが、人を救い出したものの、人の心には、すでに自分の価値を見いだそうとして手に入れた、この世の鎧がこびりついています。人は、その鎧で安心を得ようとし、鎧から手を離そうとはしません。ですから、神が食べさせたい全き愛の食事を拒んでしまいます。そこで、神が次にされることは、こうした鎧を砕き、鎧から手を放させることです。つまり、神の食事を食べようとはしない「不信仰」の罪を、悔い改めさせようとします。別な言い方をすると、悔い改めを拒む「かたくなさ」を壊そうとされます。これが、全き愛を手にするための第二段階、「砕かれる恵み」です。


   神は、人を悔い改めに導こうと、「つらさ」という神の懲らしめを使い、かたくなな心の戸を叩き続けます。その結果、戸を開けることができれば、人は神の全き愛の食事が食べられます。戸を開けることを、罪を悔い改めるといいます。そして、神の全き愛の食事を食べることを、「赦しの恵み」に預かるといいます。すなわち、全き愛を手にするための第三段階は、「悔い改め」です。こうして、ようやく十字架の贖いの全き愛の食事を食べ、自分がどれだけ愛されているかを体験します。それが、感情の中に貯まっていた「恐れ」を締め出していくのです。


【それなのに人が全き愛を食べられないのはなぜ?】

   神は、私たちのために「十字架の贖い」という食事を食べられる用意をしてくださいました。それは、十字架の贖いで示された全き愛です。私たちは罪を悔い改め、罪が赦される体験を通して、その食事を自由に食べられます。それを食べると、人の心からは恐れが締め出されます。ですから、喜んで悔い改め、その食事を食べればよいのです。しかし、人は、せっかく神が用意してくださった食事を食べません。正しく言うなら、食べたくとも、食べられないのです。それは、鎧にしがみつく「かたくなさ」が、罪を言い表す「悔い改め」を拒むからです。ですから、この「かたくなさ」を、どうにかするしかありません。


   「かたくなさ」は、感情の中の「恐れ」が生みだし、知性の中の「肉の価値観」が、悔い改めの意味を勝手に補完することで支えています。悔い改めは、恵みを受けることではなく、罰を受けることだと惑わし、「かたくなさ」を支援するのです。この支援を、断ち切る必要があります。では、「肉の価値観」を支援する惑わしの情報は、一体どこから生まれたのでしょうか。まずは、そこから探っていきましょう。


   人は、悪いことをしたら、罰を受けて育ちました。親に叱られ、先生に叱られ、上司に叱られ、罰を受けて育ちました。ですから、罪を認めるのが恐ろしくなっています。罰を受けるのではと、恐怖を抱いています。周りから白い目で見られると、恐れをなしています。ですから、小さい頃から罪を必死に隠し、嘘をついて生きてきました。こうした、肉の価値観が積み上げてきた経験が、聖書が教える悔い改めに対して勝手に意味を補完し、罰を受けるようなイメージにしてしまいます。あるいは、恥をかくことだと思わせます。あるいは、行いの悪い罪人がすることであり、自分には関係がない話だと思わせます。このように、感情の中の「恐れ」が生み出した「かたくなな態度」を、肉の価値観は、こうした惑わしで支援しています。これが、人が、全き愛を食べられない理由です。


   そういうわけで、もしも、「悔い改め」と聞いて、「神の恵み」が連想できなければ、肉の価値観の惑わしを受けています。知性が惑わされ、かたくなな態度を固持してしまっています。ですから、惑わしを何とかしなければ、恐れを締め出す全き愛の食事ができません。食事に必要な、「悔い改め」ができません。こうした惑わしに対しては、御言葉の正しい理解で、悔い改めが恵みにつながることを知るしかないのです。


【悔い改めは素晴らしい恵み】

   イエス様は、悔い改めが恵みにつながることを示すため、三つのたとえ話をされました。(ルカ15章)

・放蕩息子の話

   放蕩息子は、放蕩を繰り返しても、なかなか自分の罪を悔い改めようとはしませんでした。落ちぶれれば落ちぶれるだけ、罪責感にさいなまれたにもかかわらず、罪を悔い改めようとはしませんでした。そしてついに、全てを失い、食べるものにさえ困ってしまいました。そこで、豚が食べるいなご豆で腹を満たすしかなかったのです。それでも、誰も彼には食べ物を与えようとはしませんでした。このままだと、飢え死にしてしまいます。彼は、そこまで追い詰められ、ようやく父親に対して悔い改めをする決心ができたのです。


   考えてほしいのは、どうして、そこまで悔い改めを拒み続けたかです。もっと早い段階で悔い改められていたなら、そこまでつらい思いをすることもなかったのに、彼はどうして親から逃げ続けたのでしょうか。その訳は、罪を悔い改めると、親から叱責され、罰を受けると思ったからにほかなりません。罰を受けるくらいなら、死んだ方がましだとでも思ったのでしょう。彼はかたくなに悔い改めを拒んだのです。そのことは、悔い改めを決心したときの言葉から読み取れます。


『立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』(新約聖書 ルカの福音書 15:18〜19)


   悔い改めを決心した放蕩息子は、「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と思ったとあります。この思いから、悔い改めたなら、罰を受けるという思いがあったことが分かります。この思いが、彼の悔い改めを拒ませていました。これは、今日の私たちと、全く同じです。私たちも、罪を認め、悔い改めたなら罰を受けると思い、罪を隠し続けるからです。その姿は、この放蕩息子と同じです。このように、肉の価値観の惑わしがかたくなな態度を支え、悔い改めを拒ませています。


   ところが、罰を受けるという思いは完全に間違っていました。いざ父の元に帰り、悔い改めたとき、罰を受けるどころか祝福されたのです。もし放蕩息子が、悔い改めの先にこれほどの恵みがあることを知っていたなら、もっと早い段階で悔い改めたことでしょう。このように、放蕩息子の話は、悔い改めを拒む間違った思いを示し、悔い改めがいかに素晴らしい恵みにつながるかを教えています。


・迷い出た一匹の羊の話

   イエス様は、放蕩息子のたとえを深く理解させるため、先に二つのたとえを話されました。最初が、迷い出た一匹の羊の話です。迷い出た羊とは、御心から外れた生き方をしている羊を指しています。つまり、人の言葉で心を満たそうと、人の言葉という牧草に行ってしまった羊です。そうした羊を、神は、神の言葉の牧草に連れ戻そうとされます。それは、悔い改めを導こうとする神の慈愛(砕かれる恵み)を表しています。そのことを、迷い出た一匹のために、九九匹を残してでも神は探しに行くと言われました。そして、一匹を見つけたなら大喜びで担いで帰ると言われました。このことは、迷い出ていた羊が、罪を悔い改めることを表しています。そして、帰ったなら、近所の人たちを集めてお祝いをすると言われました。羊が悔い改めをすると、神がどれだけ喜ぶかを表しています。


   そして話の締めくくりに『あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。』(新約聖書 ルカの福音書 15:7)と言われました。つまり悔い改めに導く神の慈愛に応え、人が悔い改めたなら、それ以上にまさる喜びはないと言われたのです。


・なくした銀貨の話

   イエス様は、さらにその話の続きで、銀貨を十枚持っていた女が、一枚をなくした話をされました。その女は、何とかそれを見つけ出そうと念入りに探し、それを見つけたなら、近所の人たちを集めてお祝いをします。なくした銀貨とは、御心から外れた生き方をしている人を表し、その人が悔い改められるよう神が働きかける様子は、念入りに探し出すことに重ねられています。銀貨が見つかった様子は、悔い改めと重ねられ、見つかったことのお祝いは、神の喜びを表しています。そして、話の締めくくりに、『あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。』(新約聖書 ルカの福音書 15:10)とあります。


   イエス様は三度も同じテーマで三つの話をされました。それは、非常に大切であるからにほかなりません。その大切なテーマとは、悔い改めは、どれだけ神が望んでいる喜びであるかを伝えることです。なぜなら、悔い改めは、神の十字架の贖いによる全き愛の食事を食べさせ、人の中から恐れを締め出すからです。そうすれば、人を苦しめていた罪の病気もいやされ、神を愛する元の姿を取り戻せます。言い方を変えるなら、全き愛の食事によって人は平安を手にし、神への信頼が増し加わり、友としての関係が築かれるのです。それは、神が人を造られた目的でもあります。ですから、天では喜びがわき起こるのです。これらの話は、人が救われて、天で喜びがわき起こるという話ではなく(広い意味ではそう理解しても構いませんが)、クリスチャンが、悔い改めることの喜びについて語られたものです。


   これが、罪を取り除く神の福音です。ですから、神は、人の悔い改めを喜ばれます。それを伝えるべく、羊の話をされ、なくした銀貨の話をされ、悔い改めがいかに素晴らしい恵みかを話されました。そして、放蕩息子に、その素晴らしい恵みを拒む間違った思いを指摘されました。このように、イエスの話されたたとえ話は、悔い改めがいかに素晴らしい恵みであるかを教えています。


『わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』(新約聖書 黙示録 3:19,20)


【悔い改めると】

   神は人を造られました。ところが、愛する子どもたちが、「恐れ」から罪の病気になってしまいました。その苦しんでいる姿を見て、神は、愛する子どもたちを助けようと、罪の病気をいやす食事を作られました。それは、ご自分が十字架に掛かり、彼らの罪の罰を背負う全き愛という食事です。この食事が、「恐れ」を締め出します。神は、用意された食事を何とか食べさせようとしました。しかし、病気があまりにもひどく、子どもたちは自力で食べることができなかったのです。こうなったのは、自分が悪いから罰を受けたと思い、何かを食べると、また罰を受けるのではと恐れていたからです。ですから、かたくなに口を閉ざしていました。そこで、神は子どもたちが食べられるように、かたくなに閉ざした口を開かせようとしました。その中、口を開いて食べた者がいました。その者は、罪の病気がいやされ始めました。それを見た神は、御使いを集め大いに喜ばれたのです。


   私たちは、かたくなに口を閉ざしていないでしょうか。悔い改めは、罰を受けることでも、恥をかくことでもありません。ですから、肉の価値観と恐れに惑わされないように、十字架の贖いを思い起こしましょう。キリストは、罰を与えるどころか、いつも私たちの為にとりなしをし、弁護してくださっています。その十字架の愛を思い出しましょう。こうして、悔い改めると、私たちの心から、恐れは締め出されていくのです。


『私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:1,2)