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2012年10月14日
『神の罰』

   人の心の中に蓄積される恐れという感情は、私たちと神との関係に悪影響を及ぼします。神は恐ろしいというイメージを持つと、神に近づきたいと思っても、無意識のうちに身構えて自分を隠そうとしてしまうのです。そのために神に心を開くことができずにつらさを感じるのですが、多くの場合、恐れは潜在意識の中に蓄積されており、自分で意識できません。私たちは、この恐れに対してどのように立ち向かえばよいのでしょうか。


恐れに対する3つの対応
1.ためない(恐れを感情の中にしまいこまない)
2.使わない(恐れを増やさない)
3.取り除く

   これら3つを行うためには、イエス・キリストの十字架の贖いの理解が不可欠です。今日からシリーズで、恐れに対する対応を学んでいきたいと思います。今回は、1番の「恐れをためない」をとりあげます。


【恐れをためないために】

・神の罰とは

   神を恐ろしいと思うのは、神の罰を恐れるからです。多くの人が、何か悪いことが起こると、バチが当たったのだと自分を責め、感情の中に恐れを貯めこみます。しかし、神の罰とは何かを正しく理解することで、罰と罰でないものを区別し、恐れないようにすることができます。まず神の罰とは何かを正しく理解しましょう。

『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:23)


   罪とは神の律法に逆らうことです。それに対する罰は、死しかありません。死以外のものは、神の罰ではありません。
   人類で初めて罪を犯したアダムとエバは、神が禁じた木の実を食べたという行為が罪であったと思われていますが、その行為に至る原因は、神の言葉ではなく蛇の言葉を信じたことにあります。つまり、罪とは、神の言葉を信じなかったこと、すなわち、不信仰が原因なのです。そして、罪に対する罰は、死しかありません。このことを正しく理解するならば、多くの人が罪の罰だと考えていることは、罰ではないことが理解できるでしょう。
   聖書で死という言葉には分離するという意味があります。もともと人間は神の一部として造られ神とつながって生きていましたが、罪のために神と分離されました。これが死です。
   死には肉体の死と霊的な死があります。神は永遠なるお方なので、神とつながっている時は人も永遠の命を持っていましたが、神と分離したために、滅びる体となりました。これが肉体の死です。さらに神との関係を断たれたために、人間は造り主イエス・キリストを知らずに生まれてくるようになり、生まれながらに神との関係が絶たれています。これが霊的な死です。
   この世に生まれた人の中で肉体が死なない人はなく、すべての人は神を知らずに生まれてきました。つまり、すべての人間はすでに死という罰を受けた状態、すなわち死んだ状態で生まれて来たのです。
   アダムとエバが死の罰を受けたため、彼らの子孫である私たちにも同じ性質が受け継がれています。私たちは自分が生きていると思っていますが、実は死んでいます。もし、神との関係がないまま肉体が死んだら、死んだままの状態が続きます。これが永遠の死です。

このことから3つのことが見えてきます。

1.神の罰はもうない

   私たちは、すでに死という罰を受けているので、新たな罰を受けることはありません。一般的に罰の目的は矯正だと考えられていますが、死刑には矯正目的はありません。死の宣告をされたら更生するチャンスはもうないのです。ですからこれ以上罰を加える必要はありません。

2.私たちに必要なのは救いしかない

   自分の力では、この罰をどうすることもできません。矯正目的なら、一生懸命頑張れば神が助けてくれる可能性があるかもしれませんが、死という罰には憐れみを受けることでしか、助かる道は残されていません。これがわからないと恵みの本質が見えません。人が救われるのは行いではなく、神が一方的に助けてくれる道しかないのです。救いは100%神の恵みです。聖書を勉強しても、良い行いをしても、どんな努力しても、それによって救われることはなく、神が一方的にしてくださる恵みなのです。

3.救いが行いによって取り消されることはない

   良い行いによって救われたのではないのですから、悪い行いによって取り消されることなど有り得ません。信仰を一度頂いたら、それが取り消されることはなく、2度と罪に定められることはありません。


   これらのことがわからないと、行いが悪いと神の国に行けなくなるのではないか、罰が当たったのではないかと、心の中に恐れがたまり、神に近づくことができません。神が人を救った目的はただ一つです。それは、私たちが神に近づき、関係を築き、それを深め、信頼してもらいたいということです。しかし、恐れがその達成を妨げます。ですから神は、私たちの中から恐れを取り除きたいのです。
   罪の罰が理解できると、十字架の贖いの意味の深さが理解できるようになります。イエス様が十字架にかかったのは、罰を与えるためではなく救うためです。それなのに、贖いのあとに罰を与えるなどということがあり得るでしょうか。自分が頑張ったから救われたという考えがどこかにあるために、頑張りがうまくいかないと救いが取り消されると思ってしまうのです。


『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:13,14)


   神は、私たちが負っていた債務証書、すなわち死という請求書を無効にしてくださいました。主は、死という罰の中から、私たちを救い出してくださったのです。それは私たちの行いによるのではなく神からの恵みです。罰の中から救い出し、また罰を与えるなどということはあり得ません。
   神が与える罰は死しかありません。ですから私たちが悪い行いをしてつらくなるのは、神の罰ではないということです。聖書ではそれを神の懲らしめという言い方をしています。


『なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:10,11)


・神の懲らしめとは

   懲らしめとは、罰ではなく、私たちを助けるための神の愛の御手です。平安の義の実を結ばせたいがための愛の助けです。それなのに、つらいと感じると私たちはとっさに神の罰を受けたと理解してしまうのです。
   つらさを伴う出来事の代表的なものに病気があります。病気は神の罰でしょうか。いいえ、病気の原因は、人間が作り出した様々な有害物質であると考えられます。アスベストのような化学物質、農薬、排気ガス、タバコ・・・それらを作り利用してきたのは、神ではなく人間です。それらが巡り巡って体の中に入り込み、蓄積して病気の原因になっているのは、周知の事実です。いかなる病気も、その原因を探って、神に行き着くことはありません。
   聖書の中で、生まれつき目が見えない人に対して、弟子たちが、これは神の罰かとイエス様に尋ねた時、それは神の栄光が現れるためであると主は言われました。つらさは、罰ではなく、神の栄光が現れるため、神の癒しが現れるため、神の助けを必要とし神との関係が生まれる恵みの時なのです。
   自分の失敗によって感じるつらさについてはどうでしょうか。これも自分自身が招いた身から出た錆だなどと考えてはいけません。人は失敗するものなのです。人間には罪が入り込んでいるので、どうしても罪を犯してしまいます。そのつらさは、神があなたに罰を与えているのではなく、私たちを助け出そうと手を差し伸べているサインです。
   自然災害も戦争も神が起こしたものではなく、罰ではありません。地震が起きるメカニズムはある程度解明されており、予測されています。宇宙の営みを維持するために地球が動き、定期的に圧力をはねのける力が働くのです。また、二酸化炭素の排出による異常気象も神が命じた結果ではありません。戦争も神が指示したものではなく、人によって起こされたものです。このように考えると、人が勝手に神の罰だと考えているつらさには、必ず何らかの人為的な原因があることがわかります。
   つらさは神が与えたものではありません。それは、神の御心からそれたために生じた感情で、神からの警告です。これが懲らしめです。
   私たちの体は病気になったらつらくなるようにできています。虫歯になったら痛くなるようにできています。痛みがあるから医者に行って治してもらうことができるのです。私たちの心もつらいというサインがあったら、医者であるイエス様のところに行って癒していただくことができます。この体験がイエス様への感謝を生み、信頼関係を築くことができるのです。
   ところが、体のつらさに対しては医者に行くのに、心のつらさは罰なのだから、じっと我慢して耐えなければいけないと考える人が多いのです。つらさに耐えようとして、酒を飲んだり、つらさを慰める歌を聴いたりして、ごまかしています。自分のせいでこうなったのだから仕方がないと自分を責めたり、人を責めたり…そう思えば思うほど、心の中に恐れが貯蓄されるのです。 私たちは、死の罰から救い出されましたが、まだ死の体を持っているために、苦しんでいます。今私たちに必要なのはいやしだけです。これ以上、神の罰はありません。救い出されたものに用意されているのは癒しなのです。


『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:10)


・つらさは神に持っていくもの

   神は私たちが御心にそった生き方ができるように良心を与えておられます。つらさとは、私たちが間違った方向に行った時に良心が発する警告です。ちょうど肉体が間違ったものを食べたり、病原菌が入ってきたりして、正常な機能を失うとつらくなるのと同じように。心も正常な機能を失うとつらくなるようになっています。つらさとは、罰ではなく助けです。「試練・患難にであったら喜べ」と聖書は教えていますが、この二つに共通しているのはつらさです。つらい出来事にあったら、神があなたを助けようとしているから、喜んで助けを受けなさいと主は言われます。
   もちろん、つらさの原因にはいろいろなものがあり、親から虐待されたり、いじめがあったり、予期せぬ事故等、自分の罪が直接の原因ではないものもたくさんありますが、何が原因であっても、神があなたを助けたいサインであることは間違いありません。


『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(新約聖書 マタイの福音書 11:28)


   つらさとは重荷です。あなたの重荷を主に渡しなさい、と主は言われます。このまま重荷を放置すると、あなたはおしつぶされてしまうからです。
   つらさを放置すると、必ず人を裁くようになります。裁けば裁くほど、つらさをいっとき和らげることができるからです。それがさらにエスカレートすると、憎むようになり、さらにエスカレートすると殺すようになるのです。殺人、あるいは自殺によって、命を奪います。
   体の病気を放置すると、膿が広がり、切断、死を招く結果になるのと同様に、心の病気の広がりを防ぐため、裁くな、赦しなさいと主は言われます。神は、あなたを助けたいと願い、癒してあげるから私のところに来なさい、つらさは私のところに持って来なさいと手を差し伸べておられます。これがわかれば、もう恐れを貯めることはありません。私たちが持っている肉の価値観、神は恐ろしい方で罰を与える方だという間違った思いが、自分が悪いから罰を受けているのだと思い込ませ、神のもとに近づくことを妨げて、心に恐れを蓄えさせてしまうのです。神は罰する方ではなく救い出す方、私たちは救いを求めて神に助けてもらうしかない存在です。


・十字架の贖いは癒されるため

   なぜイエス様は自ら十字架にかかったのでしょうか。もし、罪の借金を帳消しにするためだけならば、それは単に書類上の問題ですから、神が新しい律法を作れば良かったのです。神がわざわざ自ら罪の罰を受けたのには、深い意味があります。それは、神がどれだけ私たちを愛しているかを知らせ、私たちの恐れを締め出すためです。私たちがつらさから解放される方法はたった一つ、あなたがどれだけ愛されているかを知るしか道はありません。
   私たちが愛されていることを体験するため、イエス・キリストは十字架にかかられたのです。この神がどうして私たちを苦しめるために罰を与えるでしょうか。まったく逆です。神はあなたの恐れを取り除き、いやしたいのです。


『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)


   罪を離れるとはつらさから解放されることです。イエス様の十字架はただ死を帳消しにして助けるためだけではなく、癒すための十字架です。神は私たちを癒したいがために、サインを送ります。それがつらさです。もし今、つらい状況に置かれているのなら、人をさばいてはいけません。自分をさばいてもいけません。ただ、神があなたを助けようとされていることを理解してください。
   重荷を神のもとに差し出しましょう。罪を悔い改めましょう。神に助けを求めることが罪の悔い改めです。罪とは神を信じないこと、神を頼らないことです。自分の重荷を差し出したら、その重荷を取り除くために神が何をしたかを主はあなたに思い出させ、どれだけあなたを愛しているかを魂に訴えかけられます。それは御霊のなさるわざです。その感動が恐れを締め出し、つらさを取り除き、平安の義の実を結ばせるのです。