ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2012年10月7日
『正義の胸当て』

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:11〜15)


   私たちの敵は、人や環境ではなく悪魔です。悪魔の目的は、私たちが神に近づかないようにすることです。そして、この地上で人を神に近づかせない働きをしているものは、肉の価値観と恐れです。ですから、悪魔の実体は肉の価値観と恐れであると言えます。肉の価値観と恐れは、私たちを惑わし、罪を犯させます。

   罪とは何でしょうか。アダムとエバは神に禁じられた実を食べた行為によって罪に定められたと思われていますが、彼らが罪に定められたのは、神が「食べてはいけない」と言われた御言葉に反する情報を選択したからです。つまり、不信仰のために、罪に定められたのです。よく考えれば分かりますが、彼らが実を食べることができたのは、神が「食べてはいけない」と言われた御言葉に反する情報を信じたからです。彼らが、もし嘘の情報を信じる選択をしなければ、実を食べることはなかったのです。ですから、神は、人が何をしたかではなく、何を信じたかによって罪を判断されるのです。

   人間の心の構造は、知性と感情と意思(知・情・意)に分かれます。何を信じるか情報を選択するのが意思で、知性と感情はその意思決定に影響を与えます。そこで悪魔は、私たちの知性と感情を惑わし、間違った選択をさせようとするのです。それが肉の価値観と恐れです。

   肉の価値観は知性に働きかけ、御言葉の理解を惑わします。人の価値は行いによって決まるという肉の価値観によって聖書を理解しようとすると、御言葉の意味を取り違えてしまい、御言葉を実行しているつもりが、実際には神に近づくことができなくなってしまうのです。その肉の価値観と戦うための武器が「真理の帯」、すなわち、聖書の正しい理解です。

   恐れは感情に働きかけ、私たちを惑わします。その恐れと戦うための武器が、「正義の胸当て」です。 正義とはイエス・キリストを指しており、胸は心(感情)を指します。「正義の胸当てをつけなさい」とは、イエス・キリストに対する正しいイメージを持つことで、感情を守りなさい、という意味です。イメージは感情に大きな影響を与えるので、敵は間違ったイメージを植えつけることによって、人の心に恐れを抱かせ、神に近づけないようにします。

   例えば、神に対して恐ろしいというイメージを持つならば、私たちは神に近づこうとしなくなります。怖い上司や先生にはなるべく近寄らず、常に一定の距離を保って形式的な関係で済まそうとするのと同じです。神を恐ろしいと思うと、心を開いて自分をさらけ出すことができず、神に近づくことができません。罪を認めると自分はダメな人間だと認めることになると思うため、罪を隠して、良い自分を見せようとします。すると、神に近づくために必要な罪の悔い改めができなくなります。神に対する間違ったイメージは、神と人との関係に致命的なダメージをもたらします。

   多くの人は、理屈ではなく感情で動いています。理屈で動いているように見えても、実際は感情によって自分の意見を変えています。好きだと思ったらどんな理由をつけてもそれを選択するし、嫌いだと思ったらどんなに頭で納得しても選択しません。私たちの選択権を陰で操っているのは、実は感情です。ですから、神に対して正しいイメージを持たなければ、頭では神が愛であることを理解し、イエス様は私のために十字架にかかり罪を赦してくださったと理解していても、それに伴った行動ができません。神に近づく唯一の方法である悔い改めを感情が拒むため、赦された者だけがわかる愛や感謝を体験できないのです。

   このように、感情は私たちの選択に大きな影響を与えるにもかかわらず、ほとんどの人は感情に対してあまりにも無防備です。そして、この問題をさらに難しいものにしているのが、私たちの本当の感情は潜在意識の中に隠れていてわからないということです。


『さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」』(新約聖書 マルコの福音書 10:13〜14)


   子どもたちを止めた弟子たちに対して、イエス様は憤ったとあります。なぜでしょうか。弟子たちは忙しい先生をわずらわせてはいけない、先生にさわっていただこうとは恐れ多いという思いが働いたのでしょう。イエス様はその間違ったイメージに対して憤られたのです。
   またある時、イエス様と弟子たちは道の途中で、生まれながらの盲人に出会いました。すると弟子たちはイエス様に、「彼が盲目に生まれついたのは、この人が罪を犯したからですか。両親ですか。」と質問したのです。この質問から、弟子の中には、神は罪を犯したら罰を与える恐ろしい方だというイメージがあったことがわかります。それに対してイエス様は、次のように答えられました。


『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 9:3)


   神は愛の方だと分かっていても、イメージがついていかないので、間違った発想を持ってしまうのです。現在でも多くのクリスチャンが災いに遭った時、自分が罪を犯したからではないかと考えますが、そうではありません。それは神に対する間違ったイメージから発しています。私たちは気づかないうちに感情が惑わされて、間違った行動を取ってしまっているのです。なんと恐ろしいことでしょうか。これは正しいイメージを持たなくては解決しません。

   旧約聖書にヨブという人物が登場します。ヨブは敬虔な人でしたが、ある時、家族を失い、財産を失い、原因不明の病気になるという想像を絶するような試練に会います。その時、友人のエリファズは、ヨブを励ますつもりで「神は罪を犯した者を必ず罰する。こんな災いに会うのは、あなたが罪を犯したからに違いないのだから悔い改めよ」と勧めます。このアドバイスに対して、神はなんと言われたでしょうか。


『さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。』(旧約聖書 ヨブ記 42:7)


   エリファズに神の怒りが燃え上がったのは、エリファズが真実を語らなかったからだと、主は言われます。神がヨブにしたのは、罰ではなく訓練であり、神の愛だったのです。しかし、エリファズの中には、神は罰を与える恐ろしい方だというイメージがありました。この間違ったイメージによって、エリファズは神を理解することができず、かえって神から遠ざかってしまったのです。神は間違ったイメージを持つことを嫌います。それは、間違ったイメージが神に近づかせないからです。

   イエス様の十字架は、罰を与えるためではなく、私たちを愛し、赦すための十字架です。私たちが間違ったことをしてつらくなるのは、神の罰ではなく、自分の選択の結果です。神がそうしたわけではありません。十字架によって、罪の罰はもうないのです。私たちが罪を悔い改めなければならないのは、罰を受けないためではなく、間違った選択をしたことを悔い改め、つらさから助けてもらうためです。

   今なお、多くのクリスチャンが、間違った神に対するイメージによって神に近づけません。御言葉によって自分があばかれそうになると、恐れが私たちを身構えさせ、神に対して距離を置き、神に近づきたくても近づけないのです。それは神に対するイメージが問題です。知識では神は愛だとわかっていても、感情で神を恐れているので、近づけないです。ですから、間違ったイメージをなんとかしなければ、本当の意味での平安は得られません。そのために、聖書は、神に近づくことを邪魔している間違ったイメージを取り除くために、正義の胸当てをつけて立ち向かえと教えているのです。

   神は罰を与える恐ろしい方ではありません。

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:1,2)


   私たちが罪に定められることは決してありません。神は罰を帳消しにしたからです。あなたの苦しみは、神が与えた罪の罰ではなく、あなた自身の選択の誤りの結果です。神は罰を与える方ではなく、あなたがした間違った選択の結果の苦しみから助けたいと願っておられるのです。


『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:16〜18)


   神が与える罰は、信じない者に対する永遠の死だけです。人はその罰を背負った状態で生まれてきました。ですから、神との関係が断たれた状態で生まれてきて、やがて肉体は朽ち果てます。イエス・キリストは、すでに罰を受けている私たちを、さらに裁くためではなく、救うためにこの世に来られたのです。イエスを神の子だと信じる者は、無条件で、この罰から救い出されるのです。やがて、肉体は朽ちますが、しかし、神を信じる者は、御国で新しいからだを頂き、永遠に生きるのです。

   聖書では、人が生まれながらに背負っている「死」以外のものを、罰だとは教えていません。私たちの間違った選択によってもたらされたつらさのことは、罰ではなく「報い」と表現しています。それは神が与えたものではなく、自分の選択の結果だからです。人は誰でも、自分の選択から生じたつらさによって苦しんでいます。神は、そのつらさからも救い出そうと十字架にかかってくださいました。私たちが、そのつらさから解放されるためにすべきことは、自分の間違いを認め、その罪を神の前に差し出すことだけです。そうすれば、神があなたの罪を赦し、心に平安を与えてくださいます。

   旧約聖書に登場するヤコブは、神に助けを求めることを拒み続けましたが、自分の力ではどうにもならないところまで追い詰められ、ついに神に助けを求めました。ヤコブが神に対して心を開けなかったのは、神から罰を受けるのが恐ろしかったからです。間違った恐れのイメージが神に近づくことを妨げていましたが、ついにギブアップして、神の前に出た時、神はヤコブを一言も責めず、大いなる祝福を与えてくださったのです。

   神は罰を与える方ではなく、祝福してくださる方です。罪の赦しを求め、神に近づく者を祝福してくださいます。そして平安を与えてくださいます。

   人が神に近づけないのは、御言葉の知識がないからではなく、神への間違ったイメージが、感情に恐れを抱かせ、邪魔をしているためです。クリスチャンなら誰でも、「私は神を愛しています」と言います。しかし、本当はみな「恐れ」を抱いているのです。でも、これは潜在意識の中に隠れているため、人はなかなかこのことに気がつけません。これが敵の攻撃です。私たちは、間違った神へのイメージと戦う必要があります。