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2012年9月30日
『悪魔の惑わし』

   この世には多くの情報が流れています。私たちは、その中で何が真実かを見分けなければなりません。聖書は私たちに悪魔と戦えと教えていますが、その戦いを一言で表すと情報との戦いです。私たちは手にした情報の中から、経験をもとに選択をします。もし選択の基準が間違っていたら、間違ったものを選択することになってしまいます。悪魔の目的は、私たちを愛し導いておられる神の命令に逆らわせることです。人が神に近づかないように、信頼関係を築く邪魔をします。


『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」』(旧約聖書 創世記 3:1〜5)



   ここに、悪魔がどのようにエバを誘惑し罪を犯させたかが記されています。(悪魔は蛇を使って話しかけていますから、この章では蛇=悪魔と理解します。)
まず、悪魔はエバに対して質問を投げかけました。神の言葉をどれだけ理解しているかという確認です。それに対して、エバは神の言葉をかなり曖昧に覚えていました。主な相違点として、食べてはいけない木の名前ではなく場所を記憶しており、触れてはいけないという神が言わなかった言葉を付け加え、死ぬといけないという言葉で死なない可能性もあるという解釈を付け加えています。悪魔は、エバの話を聞き、これならだませると確信しました。そこで、悪魔は嘘の情報をエバに流し、それがあたかも神の言葉であるかのように思わせました。そのため、エバは、悪魔の嘘の情報を信じてしまったのです。


   悪魔は、人を神に逆らわせるため嘘の情報を流します。その情報を選択することで人は罪を犯します。罪は外部からの情報によって持ち込まれたものなので、病気と同じだとよく言いますが、実は病気を予防する道もありました。それは神に確認することです。にもかかわらず、エバは悪魔の情報を選択しました。エバはすっかりだまされたゆえ、確認しなかったのです。エバとしては、嘘の情報を神の言葉だと信じ、良いものを選択したつもりです。しかし、だまされたにせよ、エバが自分でした選択の結果なので、罪に関して責任を問われるのです。


   悪魔は嘘の情報を流すことしかできません。それを選択するのは人です。だから、選択段階で選択するかどうか防ぐことができます。しかし悪魔の手口は巧妙で、惑わされると確認することすらできないのです。だまされるというのはそういうものです。だから私たちは惑わされないようにしっかりと神の武具を身につけるのです。これが悪魔との戦いです。
このように悪魔は嘘の情報を流すことしかできないのですから、それを選択するかどうかは人の側の責任になります。そのことをユダがイエスを裏切る選択をした出来事から見ていきましょう。


『それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:26,27)


   ここで、ユダに悪魔が入ったとありますが、ユダが神に逆らう情報を最終的に選択した瞬間のことです。情報源がどこからのものであれ、悪魔の喜ぶ行動を取ることを、悪魔が入ったというわけです。聖書の中に、「悪魔にとりつかれる」という表現がありますが、これは嘘の情報を選択した状態のことです。決して脳を支配されて、悪魔に操られるような状態のことではありません。悪魔が人を支配することができると考えると、何でも悪魔のせいにして、自分は悪くないという論理が成り立ってしまいます。そうではなく、悪魔が喜ぶ情報を選択して罪を犯した状態ですから、それを追い出す方法は、イエス・キリストの十字架しかない。つまり、悪魔を追い出すとは悔い改めることです。


   マタイの福音書4章に、悪魔が嘘の情報を流している例として、イエス様に嘘の情報を選択させようと試みた場面があります。

『あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。』(新約聖書 マタイの福音書 4:3)

悪魔は、40日間断食して空腹のイエス様に、神ではなく食べ物に目を向けさせようとしました。このように欲望を駆り立てて、心が神に向かないようにさせることが悪魔の惑わしです。そのために、悪魔は欲望を駆り立てる情報を流します。それを選択した瞬間、私たちは、神ではなく欲望を満たす方向に心が向くのです。情報源が悪魔だろうがなんだろうが、心が神に向かなくなれば、悪魔の目的は達成されます。そして、肉の快感が忘れられず、繰り返すうちに、心を神に向けることができなくなる、これが悪魔の策略です。


   『あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。』(新約聖書 マタイの福音書 4:6)

また悪魔は御言葉を引用してイエス様を惑わそうともしています。悪魔はクリスチャンに対して御言葉を間違って理解させようとします。この世の価値観を基準に御言葉を理解させれば、人は本来の御言葉の意味とは違う方向に勝手に進んでくれるからです。しかし、鍵となる部分をしっかり覚えておけば、惑わされることはありません。それが、真理の帯です(エペソ6:14)


   真理の帯として、重要な聖書の理解は、次のようなことです。この世の価値観では、行いが悪いと罰を受け、褒めてもらうためには良い行いを積み上げる必要があります。この基準に従って聖書を理解しようとするために、多くのクリスチャンは、御言葉に従って良い行いを積み上げようと努力します。しかし、本当の平安はそんなことでは得られません。

   聖書に、多くの罪を赦された者は多く愛するようになるとあるとおり、私たちがどこまで自分の罪に気づき神に助けを求めて神に近づくか、自分の罪をどこまで悔い改めができるかが、まことの平安の鍵です。奉仕、捧げ物などは関係ありません。このことを理解しておくことが、真理の帯を締めることです。

   自分の罪を認めるとは、決して自分はダメなものだと認めることではありません。肉の価値観で罪を考えると、ここも誤解しやすいところです。神は、あなたは良い者であるから、あなたについている罪を取り除いてあげたいと言われているのです。有名な賛美歌アメイジング・グレイスの原曲は、「神が私の足を洗ってくれた」と歌っています。弟子の足を洗うとは罪を取り除くということを象徴した行為です。罪を差し出すとは、神が洗ってくれるから出しなさいという意味であって、あなたがダメなものという意味ではないのです。


   話が少し横道に逸れましたが、私たちが、自分の経験によって間違った情報を選択する例として、このような例があります。

   ある世界的に有名な外科医のところに、交通事故にあった親子が救急搬送されてきました。しかし、父親はすでに搬送中に死亡、息子も危篤状態です。その男の子は、すぐさま待機中の外科医のもとに運ばれました。ところがその患者を見て、外科医は叫んだのです。「これは私の息子だ!」

   この話を聞いて、皆さんはこの外科医と男の子の関係はどのようなものだと考えますか?一番多い答えは、「離婚した実の父親」という答えです。しかし正解は、「外科医は男の子の母親」というものです。


   積み上げてきた経験をもとに、そこにない情報も脳が補ってくれることを補完機能と言い、生きるのに必要な能力なのですが、もし積み上げてきた経験が嘘だったら、意味を間違って理解してしまう実例です。

   私たちは、行い=人の価値、悪いことをしたら罰を受けるという経験を積み重ねているので、この経験を基準に全部意味を理解しようとすると、聖書の言葉を間違って理解してします。悪魔からすれば、初めに肉の価値観を心に植え付けさえすれば、あとは自動的に間違った理解をしてくれるので、嘘の情報を流すのと同じ効果が続くのです。

   この補完機能によって、理解を誤りやすい御言葉を最後に確認しましょう。


『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せて集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:2,6)


   多くのクリスチャンが、取り除くということばを地獄に行く、あるいは罰を受けると理解しています。しかし、このギリシャ語は「アイロー」という言葉で、持ち上げるとか支えるという意味の言葉です。ヨハネは、聖書の中でこの言葉を2回「取り除く」という意味で使っていますが、それは、「世の罪を取り除く神の子羊」のように、この人を支えるために罪を取り除くことが必要な場合の表現です。取り除いて滅ぼす場合は、アイローは使われません。

   また、イエス様にとどまるとは御言葉にとどまるということで、私にとどまらないとは、御言葉に従わないという意味です。御言葉に従わなければ罪に気づかない、罪に気づかなければ悔い改めもできず、実もならない。実とは、神が与える平安のことです。

   つまり、実がならないものは投げ捨てられ焼かれるとは、御言葉に従わず悔い改めなければ平安という実がならないので、そういう人は、この世の価値観に従って富や肩書きなど見えるものにしがみついて生きています。そのような見えるもの(実)は、天国までもっていくことができないので、人が集めて焼いてしまうものだと言っているのです。見えるものにしがみついたところで、天国までもっていける財産は何も残らず、無駄だからやめよと聖書は教えているのです。

   嘘の価値観が、間違った理解をさせ、私たちの生き方を変えてしまします。立派なクリスチャンを目指し、良い行いを積み上げても神に近づくことはできません。

   自分の罪に気づき、神に差し出すならば、神が私たちの罪を洗い流してくださいます。そして、多く赦された者は多く愛する者となり、神に近づき、神への信頼を増し加え、平安の実を得ることができるのです。